⑥
それから志麻子は、絹川の猛攻に晒されている。
「しーまーちゃん、一緒に昼メシ食お」
…わざわざ文学部の志麻子のクラスの必修講義の終わりにやってきて、そんな風に誘う。
「ねえ、あれってbarrelの…」
「…だよね。うちの学生って本当だったんだ」
誰かが囁いてる。
近いだけに、皆結構barrelに行くようだ。
「…くじら、かれし?」
同じクラスで仲良くなった、蘭花が赤くなる志麻子にクラスを代表して疑問を口に出す。
「違、」
「まだ違うけど」
志麻子が否定する前に、絹川が蘭花にニッコリ答える。
「今、口説いてるとこ」
「キヌッ」
志麻子が怒る。
「出てる!」
「だから、仕舞い方わかんないんだって」
絹川が笑いながら言った。
「キヌ…ちょっと、人が変わってない?」
弁当を持ってきたと言ったら、じゃあ二人きりになれるとこで食べたいという絹川に、わざと二階が吹き抜けの一階がフリースペースになってる講義棟に連れて行く。
「変わってない。リミッターが外れただけ」
絹川は絹川で、自作したサンドイッチを食べている。
絹川は家庭の事情で春から一人暮らしをしているらしい。家が大学よりそこそこ離れているのは、地代の事情だ。
「俺が今恐れてるのは、志麻ちゃんの友達に好かれちゃうことだから。あからさまにしときゃ、リスクヘッジになるでしょ。…他の男への牽制にもなるし」
「世の中にはもっと恐れるべきものがあると思う!」
「それは、何より沖田だな。…なんか、希望が出て来たら、急に怖いものが増えたわ」
あっという間にサンドイッチを食べて、親指についたソースを舐める。…出てるって、色気!
「…こないだ、沖田と話したよ」
絹川が言う。名前が出るだけでまだ一瞬心臓がギュッとなるが、目の前の絹川にはそれを隠さなくていいのが楽だった。
「何を?」
「志麻ちゃん、あいつを振るときに、好きな男がいるって言ったんだって?」
「あ」
そういえば…。
「沖田はそれが俺のことだと思ったみたい。昔の志麻ちゃん並みに罵倒されたわ」
「えっ、ごめん!」
「いや。…謝ったよ、ちゃんと。高一の時のこと」
「えっ」
志麻子はびっくりして絹川を見上げた。
「謝ってなかったの?」
「うん」
「謝りなさい」
志麻子がにらむと絹川はたじろいで、
「謝った、謝った」
と慌てて言った。
「…ちゃんと謝ったよ。今までは沖田のこと、志麻ちゃんといずれ付き合う男だと思ってたから、すげえ嫌いだったんだけど。まあ普通に、いい奴だと思うし」
「…」
普通に話してるはずなのに、ちょっと口説かれてる気分になる。
「沖田…私のことなんか言ってた?」
「…一生引きずるって言ってた」
志麻子は絹川の顔を見返す。
「俺はちょっとわかるな。…俺も、多分、一生引きずる。志麻ちゃんって、なんか、特別なんだよなあ」
「…みんな誰かの特別なんだって…」
言いながら顔を覆う。
「…そろそろ怒るよ、キヌ」
「はっははっ」
絹川は吹き出した。
「違うって!口説いてるんじゃなくてさ…。いやちょっと口説いてるけど。志麻ちゃんってさ、なんか、クセになるんだよなあ。他で替わりにならないっていうか」
「もう口きかない」
志麻子が真っ赤な顔で睨むと、絹川は全然反省してなさそうに「ごめんごめん」と言って、
「…あいつ、土井さんとより戻す気はないってさ。志麻ちゃんのこと、本気でめちゃくちゃ好きだよ、あいつ」
「…付き合えばよかったのに、って言ったら絶交するからね」
「言うかよ」
円柱と円錐が混ざったような形状のカフェオレを飲み終わって潰す。
「俺は志麻ちゃんには嘘を吐かないって決めてるから言ってるだけ」
「え、そうなの?いつ決めたの?」
「おととし」
おととしに何かあったか?
「だから言うけど、沖田はめちゃくちゃ志麻ちゃんを好きだけど、俺の方があいつの百倍は志麻ちゃんが好きだよ」
「…っ」
「何見ても志麻ちゃんのこと考えてる。志麻ちゃんに会えないから土日とか無くていいってずっと思ってたし」
揶揄うようにではなく、真顔で言うので、志麻子はただ真っ赤になって、
「土日が無いと困る…」
と普通のことを言った。
「じゃあ、今週土日どっちかデートしよ」
「え?!」
「土日にも志麻ちゃんに会えるなら、土日の意義を見直してやってもいい」
「どういう詰め方!?」
よくわからないうちに丸め込まれて、日曜日にデートを入れられる。
それからは頻繁に、土日に誘われるようになった。
8月。
水族館のある駅で待ち合わせしていて、電車からホームに降りたら、隣の車両から絹川が降りてくるのを見つけた。
「キヌ!」
声を掛ける。
「志麻ちゃん?…なんだ、同じ電車だったのか…乗る時ちゃんと見りゃ良かった」
「待ち合わせる前に会っちゃったね!」
なんとなく嬉しい。
すると、
ドン!と後ろからぶつかられた。
「…あっ、すみません」
ぶつかられた志麻子は謝ったが、ぶつかった高校生くらいの女の子の方は無言で志麻子を睨んでもう一人の女の子と一緒に階段を上がっていく。
「志麻ちゃんっ。…おい、人にぶつかっておいてー」
「いいっていいって、キヌ」
絹川に凄まれて、女性二人はさーっと早足で階段を駆け上がって視界から消えてしまった。
「ごめん」
「なんでキヌが謝るのだ」
「…あの二人、電車の中でナンパしてきた奴らだわ。俺がずっと無視してたから、志麻ちゃんで憂さ晴らししたのかも」
「あいやー」
おモテになりますね…。
改めて階上を見上げる。
「ここで降りるってことは水族館だよね。志麻ちゃん俺から離れないでね」
「駄目だよ、元欅高のインテリヤクザ・絹川洸季だってバレたら大騒ぎになるよ」
「また変なこと言って…。ホラ、行くよ」
市内唯一の水族館は子連れなどでそこそこ混んでいた。
「俺、ここ初めて来たわ」
「本当?小学校の時招待されなかった?」
「記憶、ないな」
入館して水槽を見ながら言う。
「今日のメインはね、タカアシガニ、アオウミガメ、ピラルク、ミノカサゴ、ハリセンボン、コツメカワウソ、ダイオウグソクムシ…」
「ちょっと待って。ちょっと待って」
絹川が制止する。
「多くない?メイン多くない?」
「多いんだよ!忙しくなるぞ〜、今日は」
志麻子は足を弾ませた。
大きな水槽で迫力満点な水の世界に臨むのも楽しければ、小さな水槽の中を間違い探しのように生き物を探すのも楽しい。
「あ、いた!ヤドクガエルは美しいなー」
「え、どこ?」
「右の上に張り付いて…」
頭を寄せ合って小さな水槽を覗き、つい顔が近くなる。
絹川の顔を見上げて、志麻子はつい慌ててパッと離れた。
「…志麻ちゃん?」
「あ、ヤドクガエルは猛毒があるからね。気をつけてね!」
「志麻ちゃん、顔赤い」
「まさか」
志麻子がツーンとしらばっくれると、絹川は嬉しそうに笑って志麻子の手を握った。
「こ、こら、何をする」
「ちゃんと見ようね、志麻ちゃん」
そのまま絹川は手を離してくれなかった。
イルカショーを観るために席に座って、始まるまでの間でトイレに行く。
女子トイレで手を洗ってると、手洗い場の後ろでトイレの順番待ちをしている列の中にいた女性二人が、大声で話し始めた。
「あのイケメンの彼女ってどんな美女かと思ったら、ドブスじゃん」
「鏡見ろー、今目の前にあるぞー、鏡見ろー」
志麻子が目を上げると、鏡に映った彼女らの目線は真っ直ぐ志麻子を見ていた。
「おかえり。ここ結構水かぶるってよ。ポンチョ買っといた」
「…うん、ごめん、ありがと」
「…志麻ちゃん?どうした?」
「ちょっとね、…あとで話す。今はイルカに集中したい」
「あ、はい」
イルカは控えめに言って最高だった。
志麻子は以前来た時よりも確かに技術的に成長したイルカと飼育員の姿を脳裏に刻み込んだ。
「さて」
志麻子は会場を見渡して、例の女性二人をしっかり捉える。
「君の役割を教えよう」
「え、何が?」
絹川は突然の作戦開始に戸惑っている。
「君はとにかく、私のことを褒め称えよ。実態はともかく、世界一…、…いや、それは言い過ぎだから、か、カワイイとか」
「志麻ちゃんは世界一可愛いよ」
「ま、待て待て、早い」
フライングで作戦開始する仲間を制止する。
「あの女子二人の側に行った時!」
「どの…あの二人?あれ、電車の…」
絹川が眉を顰めて、
「…なんかされたの?志麻ちゃん」
「されてない、言われたの。ドブス、鏡見ろって。キーッ」
悔しい。その場で地団駄を踏む。
復讐してやる!
「ふうん」
絹川の声が低くなる。「行こう」と志麻子の手を繋いで進むもんだから、志麻子は素で赤くなった。
「志麻ちゃん、ペンギン」
「ペンッギン!」
自分で言った作戦を忘れて目を輝かせた。
「キヌはオウサマペンギンとイワトビペンギンだったらどっちが好き?」
「俺は志麻ちゃんが一番好き」
お…おう…
そうだった。作戦中だった。
「可愛いね。照れてんだ」
絹川が志麻子を覗き込む。
「…照れてません…」
「可愛い。早く付き合いたい…」
こらこら。
余計なことを言う絹川を睨む為に顔を上げると、嫌な顔で志麻子を見る女子二人組の顔が目に入った。
…二人とも可愛い、な。
つい、目を逸らしそうになった時、絹川が志麻子の視線を追うように二人組に目を向けた。
「あれ、君ら、電車の」
声を掛けるので志麻子はびっくりする。そんな台本は…。
二人組が嬉しそうに絹川に笑顔を見せたところで、
「ナンパしてきたブス二人」
「こ、こら!」
志麻子は流石に焦って絹川の口を片手で塞ぐ。
片手を繋いでるせいで向かい合ってちょっと身を寄せ合ってるような格好になった。
「ブスじゃない!とっても可愛いよ!」
焦って志麻子は思わず二人に向かってフォローする。
何言ってんだ、という顔を絹川がするが、言われた二人も顔を見合わせて、「ちょっと頭がおかしいんじゃない」というような捨て台詞を残してプイと行ってしまった。
「…志麻ちゃん、なんでそうなるの」
志麻子の手を掴んで口から外して、絹川が呆れたように志麻子を見る。
「だって、ブスなんて女の子に言っちゃダメだって」
「志麻ちゃんは言われたのに?」
「言われるのは仕方ないけど言うのは止められるでしょ!」
「…志麻ちゃん」
…う。
「ごめんなさい…」
志麻子がしょぼんと謝った。
「……」
絹川は無言で志麻子を睨んでいたが、
「惚れた弱みだな…」
と溜息を吐いた。
「復讐すんじゃなかったの?」
「それはホラ、ちょっと虎の威を借りてマウント取ろうかと…」
志麻子が言うと、絹川がふっ、と息を漏らした。
「マウントって。志麻ちゃんに一番そぐわない言葉だわ」
「身の丈に合った生活をします…」
「そういうんじゃない」
絹川は再び志麻子の手を握った。
「志麻ちゃんは特別なんだ」
ポツリと溢す。
志麻子はいつも通り飄々とした顔でペンギンを見る絹川を見上げて、どうして絹川は自分なんかをそんなに想ってくれるのだろうと、春から何百回も繰り返してる疑問がまた頭に浮かんだ。
帰りに、懐かしい高校近くの公園に誘われた。
階段を登り切った時にはもう日が落ちて、住宅街の温かな夜景が広がっていた。
「おー!久しぶり!」
崖の上の手摺りを掴む。
「俺も。あーここ、この樹、桜なんだよ。咲いてるうちに誘えば良かった」
絹川は後ろを振り返って小さな公園に二本だけある木を見上げた。桜はとっくに散って、若葉が繁っている。
「来年誘うわ」
「…うん」
来年。
来年かあ…。
「キヌ、イケメンなんだし、もっと可愛い子狙えばいいのに」
つい、出てしまう。
「は?」
「つりあってないって…」
「言われた?誰に?さっきの女ども?」
絹川の声が地を這う。
「あ、ううん、いや、まあそのようなことは言われたけど、そうじゃなくても」
「志麻ちゃんは世界一綺麗だよ」
「うおっ」
志麻子は言われたことのない形容詞にビビる。
「き、綺麗ではない…」
「綺麗だよ。…志麻ちゃんが自分の容姿に自信がないのって、なんで?…沖田になんか言われた?」
「いや何も…」
志麻子は俯いた。
なんで?
なんでだろ…
いつから、瞬と並びたくないと思うようになったんだろう…
「志麻ちゃん」
絹川が身体ごと志麻子の方を向いて、志麻子の頬を両手で包んで無理矢理顔を上げさせる。
真剣な顔で、志麻子の目を真っ直ぐ見つめた。
「志麻ちゃんは綺麗だよ」
「…っ」
「今日のあの女どもどころか、他の誰も相手になんねえよ。志麻ちゃんは見惚れるほど綺麗だ。…釣り合わないとしたら俺の方だよ」
志麻子は真剣な絹川の瞳に魅入られるように目を離せなかった。
「俺の言うこと信じてくれる?」
と言う。志麻子は両頬を絹川に包まれたまま、僅かにコクンと首を縦にふる。
「じゃあ…信じて。俺は今日水槽見るより志麻ちゃんをずっと見てたし、高校ん時だってずっとそうだった。俺は…自分には何も、自慢できるものは無いけど、この世で一番綺麗な志麻ちゃんを好きになった気持ちだけは、俺の中の唯一綺麗な部分だと思ってる」
「…ッ」
志麻子は心臓がぐわんぐわん鳴って、立っていられないような心地になる。
真剣な絹川の瞳に吸い込まれそうで怖くなって、両目を閉じた。
「……志麻ちゃん…自分のこと好きな男の前で目ぇつぶったらさ…」
こうなるよ、と掠れた声で呟いて、絹川が顔を傾けて、壊れ物に触れるようにそうっと志麻子に唇を重ねた。
いつも誤脱報告ありがとうございます。確認しつつ、確認が遅れつつ、ゆっくり直しております。勉強になります。
いいね、ブクマ、評価も本当にありがたいです。
感想、とても楽しく拝読しております。読んで頂けるだけで有り難いことなのに、本当に嬉しいです。返信しないで一人でニヨニヨする無礼をお許し下さい。