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高二の3月。

3年生が卒業式を終えて、1、2年生だけの校舎で、志麻子は学年主任の教師と数学準備室で向き合っていた。


「毎年のことだから、まあ形式的に聞くだけなんだけどな」

去年も同じ面談をした、学年主任の太田が頭を掻く。

「来年度も、土井(まどか)さんと一緒のクラスで大丈夫か?」


毎年、3月になると瞬のクラスのことで瞬の母親が陳情に来る。学校側は特別扱いは出来ませんと紋切り型に断るのだが、その実、志麻子に裏で確認を取った上で、瞬と志麻子のクラスを一緒にしていた。


志麻子も例年は、すぐに(ハイ)と言うのだが―

「…」

目を伏せた。


「あの、先生…」



翌年度、志麻子は初めて、瞬とクラスが離れた。




バスを降りると、むわっとした湿気が志麻子を襲った。

「ほんの10年前は仙台でこんな暑さになることはなかった」とバス内で知らない大人達が喋っていたことを思い出す。

バス停から徒歩5、6分の所にある予備校に入って、クーラーの涼しさにホッとしながら、夏期講習の教室に向かった。


英語の授業のある教室に入ると、広い教室の端っこに座る沖田をすぐ見つけてしまう。

気付かないふりで声を掛けずに、前の方の席に座った。


夏期講習を、志麻子が沖田と同じ予備校で取ってしまったのは誓ってわざとではない。

三年になって、クラスの別れた瞬と話す機会も自然と減って、当然瞬に会いに来る沖田と話す機会も激減して、彼がどこの予備校に行くか、そもそも夏期講習を受けるかどうかも知らなかったのだ。

志麻子と沖田の成績は似たようなもののようで、受ける講義の多くが被ってしまっているのも、志麻子にはどうしようもないことだった。


全講義を終えて、自習もして、18時7分のバスで家に帰る。

家から一番近いバス停前にある、コンビニに入っておやつとシャーペンの芯を買ってレジに持って行くと、タイミング悪く、瞬の母親がレジ打ちをしていた。

「こんにちは!」

「…」


瞬の母親は、4月のクラス替え以来、口を利いてくれなくなった。


『ごめん、セプン、行ったんだって?』

瞬から夜、電話が来た。

「うん、シャー芯無くて。おばさん、なんか言ってた?」

『うん…まだブー垂れてんの。ごめん』

「全然!プンプンしてるおばさんもキャワイイよって言っといて!」

『言わない』

瞬は相変わらずクールだ。

『…くじらのせいじゃないのにね。ごめんね』

「うん」

志麻子は言葉少なに嘘を吐く。

『くじら、今日、塾だった?』

「あ、うん、塾だよ」

『ふうん。夏、いた?』

「あ、どうかなあ。いたかな。わかんない…でも、同じ授業取ってたと思うし、いたのかも」

また嘘を吐く。意味の無い嘘。

「瞬も塾、来られたら良かったね」

瞬は家庭教師と勉強している。

母親(あのひと)、心配性だから』

「うちの親と足して2で割ろうよ」

『割ろうよって言われてもね』

そんな話をして、電話を切った。





たくさんある予備校の自習室のうち一室で勉強してると、そんなに混んでいないのに隣に誰かが座って志麻子は顔を上げた。


隣に座った男子を見て、ギクリとする。


…あれ、まただ。


真面目そうな、男子学生。なんとなくだけど、多分浪人生。

いつも同じような赤系のTシャツにデニムを履いている。

太ってはいないが、顔はちょっと口元がぷっくりしていて、目がやたらぎょろっとしてる。


志麻子の隣や後ろの席、そこも埋まってると前の席に必ずこの浪人生が座るのに気付いたのは、つい最近のことだったが、気付いてしまうと怖くて仕方がない。


塾での自習時間を減らすなどの工夫はしているのだが、取っている授業と授業の間に時間が空いてると、塾で自習する他ないのだ。


相談しようにも、何をされてるわけでもない。

だいたい志麻子は、自分のように別に美人でもない女子が付き纏われてるなんて言って、嘲笑されるのが怖かった。


…どうしよ。


とりあえずスマホを見て、何か用事のあるフリをして机の上を片付ける。


席を立って男を見ると、男も机の上の物を手早く片付けているところだった。


早足で歩いて、エレベーターを押すけどすぐに来ないようなので内階段で降りる。

するとすぐ、上から内階段の重いドアの開閉の音がした。

足音。


怖い…!

すぐに手近な扉から何階かもわからぬ階に入る。

と、


「おおっ、とと、…くじら?」


角で沖田にぶち当たった。

「どうした?汗だくで」

「えっと、あの」

後ろで鉄製のドアのドンという開閉音。

志麻子がビク!と背筋を伸ばした。

「くじら?どうしたんだよ…」

沖田がくじらの後を追って来た男に気付く。

男は沖田を見ると、回れ右してまた階段のドアに入っていった。


「くじら、誰あれ?」

「知らない」

ちょっと声が震える。

「知らない男子?」

「うん」

「え、もしかして…追い掛けられてた?」

「…わかんないの」

「はあ?!なんだそれ!」

沖田がすぐにダッシュで階段を追い掛ける。

だが、男はすぐにどこかの階に逃げたようで、捕まえられなかった。


デモデモ言う志麻子を引き摺るように、沖田は塾の事務室に報告しに行く。だが、個人の特定が出来ないので手の打ちようがないと言われ、「次に追いかけられたら言って」というお役所仕事的な返答に沖田は憮然としていた。


「塾ではなるべく一緒にいよう」

という沖田の提案を、志麻子は断固拒否した。「断る!」

「断るってな」

「瞬に悪い!断る!」

「大丈夫だよ、言っとくから。てか瞬に言ったら、そうしろって絶対命令される」

「でも…」

「あいつが諦めるまで。俺のこと、彼氏だと思ったら、諦めるかも…あ、ごめん」

志麻子の表情を見て、沖田がしまった、という顔になる。その顔を見て、志麻子もしまった、と思った。

「沖田が私の魅力の虜になったら瞬に悪いじゃん?」

とふざける。

「ハイハイ」

沖田も呆れた顔をしてみせて、

「おふざけはいいから。どの講義取ってるか、スケジュール見せて」

月曜日の3、4コマ目と、火曜日の2コマ目と、金曜日の2コマ目が講義と講義の間の空き時間だから、そこだけでいい、と言ったのだが、

「講義には来ないの?あいつ。…来るんだな、その顔は。どの講義?」

と、一緒の講義は隣で受けることと、どうしても一緒に居られない時に男にあったらすぐ連絡することを約束させられてしまった。


その日の夜、瞬から電話が来た。

『ストーカーされてるって?』

「そこまでじゃないと思うんだけど」

と、志麻子は男の話をする。

『気のせいってことはない?』

「今日追い掛けられるまではそうかもって思ってたんだけど…」

志麻子はしゅんとする。

「ごめんね、瞬。会えてる?彼氏」

『大丈夫大丈夫。毎日電話はしてるし、夏祭りはデートするし。…そっちは大丈夫なの?』

「うん、次にあいつが隣の席に座ったらどういうつもりか話し掛けてみる」

『やめなさい、アホなの?』

え、そう?

「だめかな?」

『あー、そっか。アホだった』

「そんなに…」

受験生なのに、自信失うわ。


男はその後二度ほど見た。

志麻子の隣に沖田が座っていて、仲良く喋ってるのを見て、一度目は遠目に座り、二度目は座らずに廊下に出て行った。



「もう大丈夫そう」

「本当かよ。くじらは楽観的だからなあ」

一緒に本日最後の講義を受けて、一緒に1階に向かう。


「…そういや、くじらって、第一志望どこ?」

1階に降りて、模試の申し込み用紙に記入しながら、なんとなく立ち話する。

「今のところ、仙南かなあ」

「やっぱり。一緒だわ。…くじらなら総北狙えるんじゃない?」

総北大は東北の東大と言われるような大学だが、それは理系が際立って偏差値が高いせいで、文系は狙えないほどではない。

「頑張れば…。でもDなんだよねえー、チャレンジする勇気、ないかなあ。沖田は?総北、どう?」

「俺はCだけど、んー迷ってる。仙南と総北の間の偏差値の大学欲しくない?」

「確かに…」

「県内の国公立だと、選択肢があるようで、ないよなあ。…あいつ…あいつらは?」

「どいつら?」

沖田の声音がちょっと変わったような気がして、志麻子は顔を上げる。

「…赤堀、とか」

「赤堀は料理専門学校行って調理師の免許取るんだってさ。キヌはまだ迷ってるみたい。あいつ、結構成績はいいんだよね〜」

「…」

「瞬も仙南でしょ?総北はともかく、一緒に行けるといいね!」

志麻子が言うと、沖田は苦笑して、「まあね」と言った。


模試のお金払ってくから、先帰って、というと沖田は渋ったが、先に行かせた。

「ウェブならキャッシュレスなのに」といったことを窓口の事務員に言われながら、お金を払う。沖田と一緒のバスに間に合わないように、エントランスの椅子で時間を潰して、予備校を出た。

なのに。


「あのなあ…」


予備校を出た所でちょっと息を切らした沖田に再会し、怒られた。

「遅いよ!バス停で待ってたのに、なんかあったかと思った」

「え、ごめん!先に帰ってて良かったのに」

ずっと待たせていたのか、と志麻子は身をすくませる。

「帰れるか。変な男がいるってわかってんのに」

「もう大丈夫だって…」

「駄目だって!あー…心配した。なんか、悪い想像で走馬灯みたいなん回ったわ…」

心臓に手を当てて息を吐く。

「ちょ、ちょっと受付で捕まっててさ。ごめん…」

嘘を吐いた。

最近、嘘ばかりだ。

「なんだ、そっか。…怒鳴ってごめん」

人のいい沖田がすぐ信じる。

「じゃあ、帰ろ」


志麻子の好きな太陽のような笑顔で、言った。



夏祭りの日。


その日、志麻子は開放されている学校の自習室で勉強していた。

花火も上がる、仙台では割と大きな祭りの日とあって、17時を過ぎるともう生徒は居なくなり、自習室には志麻子だけになる。


「…志麻ちゃん?」


通り掛かった様子の絹川が、人の居ない自習室を見回しながら入って来た。

黒のTシャツにジーンズ。思いっきり私服だ。

「こらこら、せめてジャージ着て来いや」

「忘れ物取りに来ただけだから」

そう言いながら、窓際の志麻子の座る席の前に腰掛ける。

私服だと大人っぽい絹川は、大学生のようだ。

「祭り、行かないの?キヌ」

「行かねー。あんなん、混むだけじゃん」

「わかってないなあ、それが楽しいんじゃん。私、お兄ちゃんにりんご飴と焼きそばと焼き鳥とイカ焼きとお好み焼きと牛串頼んだんだー!」

「…食べ過ぎじゃない?つーか、兄貴ら顎で使ってんの、すげえわ」

「それが妹ってものよ」

「いらんわー、妹。怖いわあ」

笑って、志麻子の手元を指でつつく。

「志麻ちゃん、そんでここ、間違ってる」

「えーっ、なんで?」

「なんでも何も、クリミア戦争が起こった時大塩平八郎はとっくに死んでるからね。同時期に起こった事件だとこっちかな」

「く、黒船ぇぇ…」

志麻子が回答を消して、参考書を読み直す。

「…志麻ちゃん」

志麻子が回答を直し、大塩平八郎の乱についておさらいしてるのを見守りながら、絹川がポツリと志麻子を呼んだ。

「ん?」

志麻子が目を上げた。

「ずっと言おうと思ってたんだけどさ」

と言って、また言葉を切る。

「うん、どした?」

「…」

「キヌ?」

絹川は途方に暮れたような表情で、志麻子を見下ろしていた。

「どうした?」

「…一年の時の、夏祭りさ」

「…うん」

志麻子はテキストに目を落とした。

「俺ら、別に沖田から、なんも言われてないからね」

「…」

「あのさ、…キス、するから見に来いって、言うでしょ。そういう気なら。俺らに」

「…なに、キヌ」

目線を上げぬまま、志麻子がヘラッと笑う。

「今更、そんなこと」

「沖田がどういうつもりだったかはわからないけどさ…。俺、あいつは、実はちょっと志麻ちゃんに気が移ってたと―」

「やめて」

志麻子は目を上げて、絹川を睨んだ。

ところが睨む前から絹川は何故か傷付いたような顔をしていて、志麻子の怒りは霧散してしまう。ふうっと息を吐いた。

「…今更、いいって。もう、沖田のこととか気にしてないもん」

「じゃあ、行けよ、祭り」

絹川がちょっと怒ったように言った。

「兄貴達にそんな買わすくらい、本当は行きたいんだろ?気にしてないなら、行けよ。なんなら」

「あのねー、受験生だからね。黒船襲来も覚えてない奴に、祭りに行く資格はないんですう」

志麻子が言い返すと、

「…襲来じゃなく来航な」

使徒じゃないんだから、と言って、絹川がちょっと、力を抜いた。

「…来年、は…」

ポツリと、言葉を零して、また黙る。


…来年。来年には…。



「…志麻ちゃん、ちょっと時間ある?」


ずっと黙ってた絹川が、志麻子がキリのいいとこまで終わらせたのを見て、自分も手に取って読んでた志麻子の参考書を返す。

「なにー?」

「ちょっと、イイトコ、連れてってあげる」

「へー、どこ、どこ?屋上連れてって突き落として天国見せてやるってのは無しだよ?」

「…あのね、志麻ちゃん」

頭が痛そうな顔で、絹川が志麻子の頭をポンと撫でた。

「男にイイトコ連れてってあげる、って言われたら、もっと別のこと心配した方がいい」

「ふぅ!」

絹川の変な色気に当てられて志麻子は奇声を上げた。

「ふうじゃないよ。なんだよ、ふうって」

絹川が吹き出して、今度はペシッと頭を(はた)かれた。



絹川が志麻子を連れて行ってくれたのは、公園だった。

元々高台にある高校の、もっと上に階段と坂道を登っていくとある、小さな児童公園。


「うわあ」

階段を登り切って公園に出ると、暗くなりかけた住宅街の灯りが広がる坂下の景色が、紅い夕焼けとその上に広がる濃紺の夜空と共に志麻子の視界に飛び込んできた。

「…」

言葉を失う。

「俺、仙台で一番好きな場所、ここ」

手摺に半分腰掛けて、景色を振り返りながら絹川が言った。

「私も!」

志麻子が思わず満面の笑顔になって言う。

「私も一番好き!」

「…」

「キヌ!危ないっ」

絹川が手摺りに突いた手を滑らせてひっくり返りそうになった。

「キヌが天国行くとこだったよ!」

「…こっから落ちても、そこで止まるって」

決まり悪いのか、絹川が片手で顔を覆って言った。


「…方向、違ったな」

暫し無言で、夜に沈み、灯りが増えていく住宅街を二人で眺めていたが、遠くでパーンッ、バチバチバチ…という花火の音がし始めると絹川が言った。

…花火を見せようとしてくれてたのか。

「花火より、こっちの方がいいよ、私。ありがとう、キヌ」

本心から言った。

「ところで私って、今日元気ないように見えた?」

「…まあ、いつもよりは。ちょっと静かだったし」

「いつもうるさいみたいに言って!」

アハハと志麻子が笑う。

笑いながら、打ち明けた。

「…困っちゃうよねえ。気持ちが全然消えないのって」

志麻子は不思議に温かく感じられる住宅街の灯りを見下ろす。

懐かしい歌を思い出した。灯の一つに君がいる、そんな歌詞だった。

「小学校の時さ、学校の近所に怖い中学生がいてさ。3人組で威張り散らして小学生叩いて泣かせたりするような」

絹川は黙ってる。でも、ちゃんと聞いてくれてると志麻子は確信していた。

「なんかでその三人組を怒らせて捕まってさ、私と友達3人くらいでいたんだけど、友達が走って逃げて、私だけ捕まっちゃって」

俺らがなんだって?!ごめんって言うならちゃんと土下座しろよ!あっ!?聞こえねえよ!ちゃんと言え!

地面に押さえ付けられて、男3人に口々に罵倒されたのはその後夢で繰り返し見るほど怖かった。

「そしたらさ、私の髪の毛掴んでた奴が急に吹っ飛んだの。そしたら沖田がさ、くじら!走れ!って…」

体当たりで中学生を吹き飛ばした沖田は志麻子の手を握って走り出した。


くじら!走れ!


小学校に戻る形で逃げ込み、校庭で作業していた教師達に助けてもらった。

志麻子の手を離さずに疾走した沖田の手足は、誤魔化しようもない程震えていた。

「それだけだよ。…それだけなのにさあ、もう、振られて2年経つのにさ、瞬まで遠ざけてさ」

ドーン、パラパラパラ…、遠く響く花火の音。この花火の近くに居るだろう、2人。


暫く、志麻子と絹川は無言で花火の音を聞いていた。


「…沖田のことはさ、俺は…何も言う資格が無いんだけど」

絹川が、独り言のように呟いた。

「俺は、今はもう志麻ちゃんの味方だからね。これから先も、何があっても、志麻ちゃんの味方でいる」

「キヌ…」

志麻子が見上げると、絹川が真面目な顔で志麻子を見つめていた。

「め、目から汁が出そう。やめろよおお」

「ハハハ」

絹川は笑ったけど、志麻子は本気で涙を堪えた。


「あとさ、さっきの話さ」

花火の音が止んで、時間を思い出す。バスが混む前に帰ろう、と自転車通学なのに気の利く絹川が促し、階段を降り始めた時、絹川が思い出したように言い出した。

「さっきの話?」

「その、乱暴な三人組って、まだ近所にいるの?もう大学生とかだろ?」

「あー、一人は引っ越して、もう一人は元々家がちょっと遠いらしくて、わかんない。一人は今は仲良くなってー」

「は?何?それ。なんで仲良くなるの?」

「なんかねえ、青春の暴走というか、中二病の炸裂というか、そういうのだったみたい。向こうが高校生になって、彼女連れの時に遭遇して、彼女に言うぞ言うぞ〜って脅したら謝ってくれて、今は…」

「は?信じらんねえ、志麻ちゃんって。信じらんねー。なんでそうなんの?」

「いやあ、向こうが落ち着いたその頃、私が反抗期真っ盛りだったからさあ。恥ずかしながらちょっととんがってて、突っかかっちゃったんだよね…」

「絶対そういう話じゃない。反抗期とか、一般的な話に落とし込まないで欲しい」


何故かプンプンし出した絹川にバス停まで送ってもらい、どうにか混む前のバスで志麻子は帰宅した。

帰りのバスの中で、志麻子はよくわからない幸福感で心がほよほよして、ずっとニヨニヨしていた。


もう、大丈夫かも、私。


と、そう思ったのだったが…。



ピンポーンピンポーン

と、鯨井家の呼び鈴が鳴ったのは、志麻子が帰宅して夕飯を食べて、風呂に入って自分で作ったコーヒー牛乳を一気飲みしていた時。



ドアを叩き割る勢いで入って来たのは、近所に住む瞬の母親だった。


「瞬は!?」


いつも綺麗にしてる瞬の母親の化粧がめちゃくちゃ崩れている。

涙の形にアイライナーが歪み、髪の毛もグチャグチャの姿に、ドアを開けた志麻子の母親が目を丸くする。

「どうしたの、土井さん…」

「瞬!瞬は!?来てるんでしょ!?来てないの!?」

「瞬のお母さん、瞬、帰ってないの!?」

志麻子が青くなって飛び付いた。

「出てっちゃったの!お、お、お」

瞬の母親はひきつけを起こしたかのように震えながら「お」を繰り返して、

「男が!男がいたの!」

え、…沖田?

「お、お、お、おばさん!男って…?!」

動揺した志麻子は、普段は本人に向かって使わない呼称を呼んでしまう。

「男と!男と、裸で寝てたの!!」

「…っ」

志麻子は真っ青になった。

それを見て、瞬の母親は別の解釈をする。

「志麻子ちゃん、志麻子ちゃんも、知らないの…?!あの子、彼氏って言って…!知らなかったの!?」

「…わ、私、私は…」

「知ってたの!?知ってたのね?!誰なの!あの男…!教えて、志麻子ちゃん!きっと瞬あの男の所にいるの!」

「わ、私、知らない、知らない…!」

「嘘!嘘つき!なんでなの?志麻子ちゃん!どうしてクラスも分かれて、どうして瞬を見捨てたの!?」

「私、見捨ててなんか、ない!」

「嘘つき!」


「土井さん…!落ち着いて!ちょっと、落ち着こう!?」

志麻子の母親が志麻子と瞬の母親の間に入った。

騒ぎを聞いて2階の自室から転げるように降りてきた、志麻子のすぐ上の兄の翔人(ひろと)が志麻子を抱えるように引きずっていき、一緒にトイレに駆け込んで中から鍵を掛けた。


「ひろにいっ」

「おい、おいっ」

翔人は翔人で混乱している。志麻子の肩を掴んだ。

「おい、あれ、瞬のお母さんか!?」

ウンウン、と志麻子が頷くと、

「嘘だろ!中に入ってたんか?!」

と謎の発言。

「俺、結構好きだったのに!『抱ける人妻』の話してる時に絶対名前挙げるくらい」

「…ひろにい黙って!」

一瞬で志麻子は冷静になった。


「土井さん!とにかく落ち着いて!落ち着いて!あっちで!リッビングで!お話ししましょ!!」

外では母親が、明らかに次男の声を消そうとして大声を張り上げてる。


「ひろにい、なんでトイレ?」

「鍵の掛かる部屋ってここしか思いつかん」

「私出る、話聞かなきゃ」

「ダメだ」

ダメと言ったらダメ!の時の声で次兄が言う。

「瞬のお母さんが刃物を持ってたらどうするんだ。中の人が冷静になるまで待て」

「まっさかー、大丈夫だよ」

「駄目だ!幸いここはトイレだ。ちょっとアレだが水もある」

何泊する予定?

「…あ!スマホある!瞬に掛けてみる」

ポケットにスマホを入れっぱなしだった。

「声が外に聞こえちゃうから、とりあえずLINEしてみ」

お前が言うかの翔人の提案だが、もっともなので、とりあえず瞬にメッセージを送ることにした。


(まどか)、大丈夫?

―今どこ?沖田んち?

―うちに瞬ママ来てる

―超心配してるから、安否だけでも教えて!


すぐに既読にはならない。

志麻子は焦れて、沖田にも送った。


(まどか)、一緒にいる?


沖田の方はすぐ既読になった。かと思うと、スマホが震えて電話が鳴った。


「もしもし…」

志麻子が声を押さえて出る。

『くじら…』

沖田の声。やばい、胸が痛い。

「ま、瞬、一緒?」

『うん。…帰りたくないって』

「替わってくれん?」

『…まどか、くじら。…話せる?』

電話の向こうで、二人が何か遣り取りをした後、

『だめだ。今は誰とも話したくないって』

「瞬のお母さんがうちに来てるの」

早口で言う。

『え、くじらんちに?…くじらんちにお母さん来てるってよ』

沖田が瞬に言う。

『…駄目だよ…行こう、くじらにまで迷惑掛けらんないだろ』

沖田が説得している。

ややあって、

『家に送り届けるから、瞬のお母さんに言っといてくれる?』

「うん。あのさ、瞬のお母さん、今うちのお母さんと話してるからさ、うちに来たほうがいいかも。うちのお母さん、人を落ち着かせる天才なの」

子供が直情型だんご3兄弟だから…。

「すごく興奮してるから、第三者がいた方がいいかもよ。…あの、私は二階にいるし。話聞かんし」

『ちょっと待ってね』

沖田が言い、また瞬と相談する。

『…くじらが、…だって、…そう。…もしもし、くじらが良ければ、くじらんちなら行きたいって』

「うん、じゃあ待ってる」

電話を切る。

「来るって?瞬。どこにいたん?」

翔人はもう便座に腰掛けてスマホでゲームしてる。

どこでもくつろぐ次男。

「来るって。ひろにい、私出ていい?瞬のお母さんに報告する」

「だめ、だめ」

翔人が慌ててスマホを仕舞い、

「俺が言って来る。もう少しでここに来るって言えばいいんだな?」

「そう。…彼氏が一緒に来るみたいだけど、おばさん大丈夫だと思う?」

「あんな綺麗な人妻におばさんは無いだろ!」

翔人が憤慨する。

どこに引っ掛かってんの…


現れた二人は、酷く疲れた顔をしていた。

「瞬ちゃん」

また泣き出した瞬の母親は、けれどさっきよりはかなり落ち着いていた。瞬も、母親に抱き付かれるままになっている。

「上がって上がって。あれー、彼氏さん、見たことあるなあ…あ、おきたくんじゃない?志麻ちゃん、悟空より速いって言ってたおきたくんじゃない?」

志麻子の母親は変なことを覚えてる。

「知ってるの?鯨井さん」

「足がすっごく速いの、ね?ね?」

と志麻子の母が沖田に聞く。

「あ、ハイ。陸上部です」

「知って…」

呟いて、瞬の母親が志麻子を睨んだ。


完璧、嫌われたなあ…。


瞬と瞬のお母さんと沖田の話し合いは、志麻子の母親が立ち会いをして、鯨井家のリビングで行われた。後で聞いたら、途中、仕事から帰ってきた長兄の雄馬が、母親を心配して参加したようだった。

志麻子は約束通りに二階の自室に…と思ったが、瞬の母の中の人を警戒した翔人が自分の部屋に布団を敷いて志麻子を引っ張り込み、内側から棚でドアを塞いでしまう。

「ちょっと!トイレとかどうすんの!」

「さっきあんなに居たのに?!」

ビックリしたように言う兄はちょっとネジが飛んでると思う。

ドアが外開きなのは、言わないことにした。


話し合いがいつ終わったかわからないが、翌日起きた志麻子のスマホには2人からそれぞれメッセージが届いていた。


ーお邪魔しました。おばさんと雄馬くんのお陰で、うちの母親もかなり落ち着いた。


と瞬。沖田からは、


ー今日は本当にごめん、くじら。あとさすがに、悟空には負けると思う。


両方にスタンプだけ送った。


「結局、夏が真剣交際してますって言ってくれて、横でおばさんが、雄馬くんもいるのに、いいなあいいなあこういう息子が欲しかったなあって言い続けるもんだから、うちの母親も毒気抜かれて、節度ある付き合いをするならって、認めてもらえた」

「良かったねえ」

近所のドラッグストアの前のバス停に置いてあるベンチで、塾に行くバスを待つついでに、瞬がことの顛末を教えてくれた。

「…最後まで出来なかった、って言ったのが、良かったみたい」

意味深に言う瞬に、志麻子が首を傾げる。

「セックス。…本当はとっくに、何回も、してるんだけどね」

「ぶほっ、ゲホッ、ゲホッ…」

飲んでたコーラを噴き出してしまう。

「きったな。くじら、汚い」

「ごめ…」

口をハンカチで拭った。


せっく…


「2年も付き合ってるんだよ」

瞬が言う。

なんか言わなきゃ…。

「してるに決まってるじゃん」

「…」

いつもは必要以上に回る舌が、痺れたように動かない。

「…あ、ば、バスきた」

そう言うと、パッと立ち上がって、瞬を見ずにバスに乗り込んだ。



塾には行かなかった。


塾までの途中にある、高校近くのバス停で降りて、昨日絹川に教えて貰った公園に行き、暫くぼうっと景色を眺めた。暑すぎて高校に避難すると、誰もいない技術室に行って、「痛い、痛い」と胸を押さえながら泣いた。




誤脱報告ありがとうございます。助かりますし、勉強になります。確認しながら直していきます。

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