②
「じゃあさ、じゃあさ、なんで夏祭りとか付き合ってくれたの?って話じゃん」
「確かに。なんでかねえ」
「アレなのかなって、あのうちの学校の人間のクズの、なんだっけ、クソ堀だっけ、クソ川だっけ」
「合ってる合ってる」
「オイ」
「あのクズ共がさ言ったキスしろってーの、実行しようとしたのかなあって…」
「それはつらいなあ…」
「つらす」
「オイ!」
志麻子は顔を上げて、声の主を睨んだ。
「あんだよォ、クソ堀」
「なんだじゃねーよ、毎日毎日鬱陶しいんだよ」
志麻子は播磨、赤堀、絹川と共に、技術室のテーブルで昼食を取っている。
「もー諦めろって」
短い茶髪にピアスの絹川は頬杖を突いて、苦笑した。
「ウザいけど」
と続ける。
「うるせえ。お前ら学校のゴミのせいでなァ、ううう」
「学校のゴミって今時教師だって不良に言わないようにしてるやつ…」
絹川が呟く。
「元気出して、くじら」
「播磨、我が同志よ」
感謝の眼差しを播磨に向けた。
「だあかーら、なんで毎日ここでメシを食うんだっ」
赤堀ががなる。
「だって教室か食堂かけやきホールかのどこかには沖田と瞬がいるんだもん」
「じゃああいつらのいねえ教室か食堂かけやきホールで食えば良いだろうが!」
「食べてて、途中であの二人が来たりして、お互いめためた気まずいんだよ〜!いや間違えた、気まずいんだぞこのクソ野郎!」
「クソクソ言うな、クソ女!」
「クソ堀」
「女子が中指立てんなっ!」
変な所に拘る赤堀。
あの事件の後、志麻子は赤堀と絹川の溜まり場を急襲しては当たり散らすようになった。播磨は荒れた志麻子を心配して毎回コッソリ付いて来るうちに、不良達への恐怖が薄れたらしく、今では平気な顔で昼食会に加わっている。
志麻子は断固、言う。
「だいたいこの愚痴を言えるのは被害者と加害者の会のメンバーである我々だけなのだから、加害者である貴様らに拒否権は、無い!」
「被害者の会と加害者の会って絶対合併しちゃダメなやつ…」
コーヒー牛乳を飲みながら絹川が呟いた。
播磨が、
「くじらに関しちゃ、俺も加害者みたいなもんだ」
と眉を垂らす。
「何言ってんだんだ、播磨は勇気を出しただけだ!人の告白をオモチャにしたこやつらが絶対悪である」
「でもさー」
絹川がパンを食べながら、
「俺らが何してようと、沖田君は土井さんと既に付き合ってたわけじゃん。その時点で二人とも失恋だよね」
「…ぐっ」
「うっ…」
志麻子と播磨はぐうの音も出ない。項垂れた。
「あっ、ごめんごめん」
ごめんごめん、の後に「w」が付いてそうな軽薄な言い方で謝った絹川の横で、食べ終わった赤堀が、
「てかよー、どこかそんな好きなの?沖田の。確かにまーイケメンはイケメンかもだけど。絹川の方がイケめてるよな?」
「俺?俺はユキの顔の方が好きよ」
とお互いに褒め合う。
絹川がユキユキと言うので何かと思ったら、赤堀の名前だった。赤堀雪人だって…良い名前付けてもらいやがって!と一頻り志麻子はウザ絡み済みだ。
ちなみに絹川は絹川洸季…こちらも志麻子は絡み済み。
「男は顔じゃないよねー」
「ねー」
と志麻子と播磨。
「じゃあ、何よ?」
赤堀が聞くと、志麻子が胸を張って
「足の速さ!」
と答えるので播磨は机に突っ伏した。
「どわっはっはっは!」
赤堀が爆笑する。
「小学生か!?」
絹川も無言で、片手で顔を覆って笑ってる。
「なにをう?!…え、本気で笑ってる?」
「く…くじら〜…」
播磨が眼鏡を掛け直した。
「足が速い男子が好きって、そりゃ無いよ」
「ええ…」
まさかの同志の裏切り。
「いや、勿論顔も性格も好きよ?!優しいしさ、なんかあるとバーッとすごい速く走ってってやってくれたりさ…」
「やっぱ足の速さじゃん!」
播磨も吹き出した。
「あ、あれえ…?」
絹川が笑い過ぎて呼吸困難になった辺りで、予鈴が鳴った。
「ちゃんと授業出ろよ!」
「うるせえ出るわ!」
という不良との定番のやり取りの後、播磨とも別れて教室に入る。
入った所で男子生徒にぶつかりそうになった。
「おっと」
「あ、ごめん」
「おお、沖田」
瞬の席から自分のクラスに帰るところだったらしい沖田だった。
「球技大会、何出る?」
「あー、陸上部は大会前だから免除なんだよ。係やるわ」
「マジで?つまんないねえ」
「くじらは?」
「うちは今から、話し合い」
などと言ってると本鈴が鳴って、沖田が慌ててクラスに戻った。
5時間目がHRの志麻子はそんなに慌てず、一番後ろの瞬の席に寄る。
「沖田、球技大会出らんないんだね。瞬は何にする?」
「今から陸上部に入って球技大会休む」
「そんな無茶な!」
相変わらずイベント嫌いの瞬に志麻子が笑った。
結局、二人ともソフトボールにした。
「ソフトボールなんて、疲れる」
「まーまー」
不満を言う瞬を志麻子が宥めてると、
「くじらー!放課後練習だって〜!」
と同じクラスでやはりソフトを選択した八木初音から声が掛かる。
「りょうかーい!…瞬も行こうね」
「えー、絶対嫌。当日出るのもだるいのに」
「こういうのに出ないとクラスで浮くって」
「もう浮いてる」
「それは、そうだけど」
瞬は孤高の美少女…というか極度の人見知りで、物言いがクールで突き放したような印象を与えるので、友達が出来にくい。
中学でいじめに遭ってからは、瞬の母親が毎年学校に、「鯨井志麻子ちゃんと一緒のクラスにしてください」と陳情していて、それを瞬はひどく嫌がっていたが、志麻子も心配なので一緒のクラスに越したことはないと思っていた。
でも、高校生は、中学生の単なる延長ではなかったようで。
「くじら、土井さんは?」
放課後、ソフトボールの練習をしてると、初音に聞かれる。
「瞬は練習は来ないかなあ」
と志麻子が言うと、
「ちっ、彼氏持ちがよォ」
と初音がやさぐれた。
「ほんそれよ!」
志麻子も迎合して笑ってみせる。
中学ならここで、「土井さんだけズルイ」になってたが、高校は割と他者に寛容だ。
「あー、やっぱりそう?」
と他のクラスの男子で、同中の高山春樹が寄ってきた。
「沖田だろ。あの二人うちの一年の第一号じゃねえ?」
「第一号?」
「カレカノ成立の。くじら、寂しいなあ」
「死ぬほど寂しい!」
本心を笑って打ち明けると、「いいんだ!私はこのボールに青春を賭ける…!」と言って白球を初音に放った。
10月になって、11月になって。
季節が進むほど、沖田と瞬は堂々と一緒にいるようになった。その分、志麻子は瞬から離れて、初音らのグループと一緒に行動するようになっていった。昼食は播磨と不良どもと食べたり、初音らと食べたり。
3月になると毎年恒例の志麻子だけの内密の個人面談が行われ、高2も瞬と一緒のクラスになった。
「おうおう、お前らどこ行く?やっぱ夜の鴨川行って並ぶべき?」
いつもの技術室。
志麻子が昼食後、おもむろに修学旅行のしおりを取り出すと、他の三人ともエッという顔になる。
絹川が、信じられない顔で、
「なに?夜間行動、一緒に行く気?」
「くじら、八木さんとかは?」
播磨はちょっと焦った顔で言う。
「初音らとは昼の自由行動で一緒だからさあ、夜はおまいらと行動しようと思って」
「そんなこと勝手に決めて」
絹川は呆れ顔だ。
「俺、パス。彼女と約束してる」
赤堀があっさり断った。
「出た彼女!ふん、いいよね、我々寂しい独り者は…」
「ごめん、くじら、俺ももう同じクラスの友達と約束しちゃった」
「えー!」
志麻子が嘆いて、
「キヌと二人はマズいよなあ」
と言う。
「なんで?」
と絹川が聞くと、
「彼女に悪いじゃん!」
絹川は一年生に告白されて、夏くらいから付き合っていた。
「あー。多分、修旅の辺りには別れるけどな」
「なんでやねん!」
「うるさいんだよなあ」
「へえ、どんな風に?私よりうるさい?」
「うるさい自覚あるんだね、くじら…」
癪なことに赤堀、絹川の二人は結構モテた。
赤堀は1年の三学期から同学年の女子と付き合ってるし、絹川も志麻子の知る限り、去年も2カ月だけ付き合って別れた彼女がいた。
「てか、くじらこそ」
と播磨が言う。
「無いの?浮いた話」
「ないわー。地に足どっしり付いてるわー」
机の上のしおりに頬を付けて突っ伏す。
「修旅で告られたりするかもよ」
「あるかなー」
「いや、無いだろ」
「無さそう」
と赤堀と絹川。
「てんめーら…私が告白されたら逆立ちして鼻からラーメンすすりながら町内練り歩けよ!」
「どこのジャイアンだよ…」
「無いわー」
不良どもと眼鏡には断られたが、志麻子はまあ誰か捕まえよう、と気楽に構えていた。
それよりも、グループ学習の時間が問題だった。
自主行動のグループは志麻子、瞬、初音と男子三人。男子は志麻子や初音らと仲の良い高山春樹のグループなのでそれはいいとして、志摩子はこの旅行で瞬と初音の仲を深めようと意気込んでいた。
瞬は相変わらずの人見知りで、見知り先に志麻子以外に沖田を加えて、すっかり心の中で交友関係については「済」のスタンプを押したかのようだった。
「金閣寺行くなら清水寺は無理だって」
「えー、どっちかかあ」
「三十三間堂で自分に似た仏像探すやつは?」
「あの石の庭行きたい、石の庭」
修学旅行の班ごとの話し合い。
皆好き勝手言う。
「瞬は?何処がいい?」
一言も喋ってない瞬に志麻子が尋ねると、
「宿にいたい」
ととことん内向き。
「宿以外、宿以外で!」
「平等院鳳凰堂」
「おおー、いいね、十円玉と一緒に写真撮る?」
指で輪っかを作って片目を瞑って言うと、
「撮らない。無駄にはしゃがないで、くじら」
冷たい目で言われるの、たまんない。
などとやっていたら、初音と高山が吹き出した。
「変なの。くじら、嫌われてない?」
「ないよ!超愛し合ってるんだから!」
ねーっ、と志麻子が首を傾げて言うが、瞬は無視。というか、急に皆に見られて緊張してる、多分。
「もち、初音も愛して…」
ふざけて言おうとして、ふと志麻子が黙った。
「どうした?」
「え、そこで止めるの?私のこと、愛してないの?」
初音が芝居がかった様子で言うと、志麻子は「愛して…」と呟く。
「いま…?だららら、…すー!もちろん大好きだよ、はっちん!」
「俺は?俺は?」
「ハルキストは率直に言うとまあまあ」
「村上春樹ちゃうねん」
「おーい、そろそろ決めんぞ」
呆れたように他の男子が言って、また話し合いに戻ったけど、結局その日、時間内には決まらなかった。
10月の京都は人がえげつない。
「うっわー、すごい人だなも!」
清水寺に続く三年坂を見上げて、志麻子はどこかのタヌキのように感嘆した。右手は逸れないように初音と手を繋いでいる。瞬には瞬時に左手を振り払われた。
「ヤバイね。仙台では見たことない人口密度…」
初音も感心したように言った。
「この道をひたすら登るのかあ。…あ、おーい、播磨、赤堀」
王道だけに清水寺を選択した班は多いようだ。2組の播磨と赤堀も一緒の班で、清水寺に来ていた。
「よお、くじら、知ってるか?」
と赤堀が寄ってくる。
「なに、なに?」
「清水寺のてっぺんに偉い縁結びの神様がいるらしいぞ」
「マジで?」
「なんか石触ると恋愛成就するらしい。弁慶もその石で恋が叶ったってよ」
「弁慶も!」
弁慶は誰と…?
「なんかそれ色々話混じってるような…。あ、行こう、赤堀くん、皆進んでる。くじら、迷子にならないように!」
播磨が赤堀を引っ張っていって、また人混みに紛れた。
「あいつ結構面倒見いいな…」
志麻子が感心していると、瞬が信じられない、と言った目で志麻子を見た。
「え、なに、くじら…あの不良と仲良くなっちゃったわけ?」
「ああー」
そうか、瞬は知らないのか。志麻子はウンと頷いて、
「あいつらそんな不良でもないよ。カツアゲもされないし、アンパン買わされたこともない」
たまに授業をサボるくらいだ。
「そういう問題じゃない。…信じらんない、あんな目に遭って…」
言い掛けて、口を閉じた。
「あんな目って?」
隣で歩く初音が言う。
「こんな目かな?」
志麻子が寄り目にして見せると、
「あほ」
「あほ」
と二人から言われた。
「くじらは悪い子じゃないんだけどー、ちょっとウザいよね」
志麻子はそんなあ、と思ったが、初音が瞬に話し掛けたので静かにする。
「う、ウン…ほんとに」
瞬が眉を顰めて二言で返事をして、ぷいっとあらぬ方向を見てしまった。
「瞬ったら。はっちん、瞬は今、照れてるのよ」
「やめて、うざい、くじら。うざい」
なんで2回言った?
初音がアハハッと笑って、瞬もふっと笑ったので、志麻子も嬉しくなって、一緒になって笑った。
清水寺に着くと、沖田がいた。
「あ」
「あ」
「あ」
沖田、志麻子、瞬の順に「あ」と言って、志麻子はすぐに一歩下がる。
「あー。瞬、私、はっちんと恋愛の石探しに行くわ」
そう言って、初音の手を引いて沖田の横をすり抜けようとすると、沖田に肩を掴まれて呼び止められた。
「くじら、恋占いの石、探してる?」
「あ、うん」
占い?
「じゃあ、あっち。階段ちょい下がって、左側。…でもお前、気を付けないと。怪我するなよ」
「怪我?」
首を捻りながら沖田に教えてもらった場所に行く。
なんと、恋占いの石は、二つの岩の間を目を瞑って歩くイベントだった!
「くじら、左だって、左!」
「行き過ぎ行き過ぎ!ぶつかる!くじら!…腹痛え!」
同級生に笑いを提供して、結局岩には辿り着けなかったし、瞬は沖田と消えて帰って来なかった。
夜間行動は、夕飯を食べ終わった生徒から、担任に申し出て外出すること。20時までには帰って来ること。
制服か学校ジャージ着用必須で、大金は持ち歩かないこと。
「告白するならこの時間が狙い目だが、成就して盛り上がって無断外泊なんてことは絶対しないよーに!」
夕飯を食べる大広間で、教師がそう言って注意事項を締め括った。
「本当やだ、門間。デリカシーのカケラもない」
女子は嫌がってるが、男子にはそこそこウケて、何人かが肘でつつき合ってる。
「急いで食べて、新京極行こう」
などと話して、志麻子達もご飯をかき込んでいたのだが…。
「…ごめんねえ、くじら」
初音がぐったりと布団に横たわる。
「いいって。そこまで行きたいわけじゃなかったから、実は」
突然生理になってしまって大広間側のトイレからヘルプを求めて来た初音の為に、志麻子は自分のナプキンを持ってきたり着替えを用意したりして、結局仲間達を行かせて志麻子だけ残ることにした。
「痛い?」
「大丈夫、薬飲んだからじきに…あー、焦った」
「焦るよねえ。ちょっと寝てたら?それか、今のうちに部屋のお風呂入っててもいいし…」
「あー、だね。そうしようかな。くじらも大浴場行ってきたら?夜間行動しない生徒はこの時間に行って良いって言ってたよね、確か」
「言ってたねー。そうすっか」
付きっきりで居ても仕方ない。
志麻子も着替えを手提げに入れて、大浴場に向かった。
大浴場に行くには一階で一度エレベーターを降り、フロント脇の階段を降りなくてはならない。
フロントまで降りると、何故かロビーに一人で座ってた高山春樹が立ち上がった。
「くじら」
「あれ?高山、行かなかったの?」
「くじらこそ」
「うん、まあ、この隙にお風呂ゆっくり入ろっかなって」
「あー、そっか。…」
高山が黙る。
「どうした?」
「…」
「ん?どうしたの?置いてかれちゃった?」
高山は何故か緊張した様子で、口を開けたり閉めたりしてる。
「…くじら、あの…ちょっと、いい?」
「うんうん、いいよ、どした?」
「あ、ここじゃなくて、えーと…ちょっと、外、出られる?」
「外?どこ?じゃあ靴取って来る」
「あっ、いや、そんなアレだから…そ、そこの庭で、ちょっと話出来る?サンダルあるから」
高山が指差した先に庭園があるのに、志麻子は初めて気付く。
「おお、庭だ」
ガラス戸を開け、サンダルを突っ掛けてキョロキョロする。
庭には何人かいるようで、生垣で姿は見えないがなんとなく話し声が聞こえた。
「くじら、こっち」
「え、そっち?」
庭園の中心ではなく、飛び石も置いてないちょっと外れた道に連れてかれる。
…あれ、なんかこの感じって…
「なんか、告白されるみたいだね。なあんちゃって!」
ついふざけると、
「…」
駐車場に通じるらしい裏戸の前で止まった高山が、はああっと息を吐き出した。
「くじらってほんと、やだ」
と呟いて、志麻子をたじろがせる。
…まさか、本当に?
と思う先から、高山が背をピンと伸ばして、志麻子を真っ直ぐ見下ろした。
「…好きです。俺と、付き合って欲しい」
「…」
志麻子は無言でピョンと後ろに下がった。
え、え、ま、まじで?そんなことってある?
「…そんなびっくり、する?結構、わかりやすくなかった?」
高山の、ホテルの明かりに照らされてる方の頬が赤い。
「…ぜ、全然気付かなかっ…!」
志麻子はびっくりしすぎて声が上手く出ない。そのまま、頭を下げた。
「…あの…あの、ごめん…私、付き合えない」
「…っ」
高山がぎゅっと拳を握ったのが、見えた。
「…まだ、沖田が好き?」
「えええ」
志麻子は慌てて顔を上げた。
「お、お、沖田だと…?!」
「いや、予想だけど。中学ん時、沖田沖田言ってたじゃん」
「そう、そう…?!」
そうかも。沖田が別中なのを幸いにして。
「…かと思ったら、去年、沖田、土井さんと付き合い出したから、くじら、失恋したんかなあって。…んで、1年くらい、待ってみた」
「…ごめん。沖田、は全然、関係ないんだけど。ほんと、全然。瞬の彼氏だし。全然。…でも…ごめん。ごめんなさい」
「…わかった、わかった」
高山がはああっと息を吐いた。
「…わかった。あの…明日からも、普通に話してくれる?」
「うん、うん」
志麻子はめちゃくちゃ頷く。
「もちろんだよ!あの…高山。ありがとう…」
志麻子がそう、言葉を紡ぐと、高山が一瞬ぐっと口を切り結び、そのあといつものように笑った。
「じゃあ。じゃあ、また明日な。俺…先に戻るな」
「うん」
高山が小径を抜けて去っていく。その後姿を、志麻子は未だに衝撃から抜けきれずに見守っていた。
すると。
「見ーたあぞ〜!」
突然、そんな声がして、志麻子はまた飛び上がる。
「ここ、ここ」
側にあった駐車場に通じる裏戸の上から、赤堀と絹川がひょこっと顔を出した。
赤堀はニヤニヤして、絹川も面白がるように口角を上げている。
「…っ」
志麻子は思わず胸に手を当てた。
「まーさかマジでお前に告る男がいるとはなあ!あいつって、吹奏楽部ででかいラッパ吹いてるやつ?お前のクラスのぉ」
「…志麻ちゃん?どうした?」
赤堀がニヤニヤ喋る横で、絹川が異常に気付いて眉を寄せた。
…志麻子は答えられなかった。
胸がドクドク、鳴り響いて、無意識に高山の去った小径を見て、また二人の顔を見る。
息が。
息が、出来ない。
汗がドバッと出てきた。
「志麻ちゃん…!?」
志麻子の顔色を見て、絹川が見たことのないような焦った顔で、「ユキ!誰でもいいから大人連れてこい!」と赤堀に言い、裏戸をガタガタ開けようとする。
開かねえ!待てユキ!背中貸せ!
絹川がそんな風に怒鳴っているのを遠くに聞きながら、志麻子は立っていられなくてうずくまる。
息が、息が、苦しい。
「志麻ちゃん!」
急に肩を抱かれる。
志麻子は答えられない。
「過呼吸か…?!志麻ちゃん、ゆっくり呼吸して!ああくそ、袋ないか、袋…いや袋はダメなんだっけ?」
ゆっくり?無理だ。こんなに息が、苦しいのに…
苦し過ぎて目からも汗みたいに涙が出てきた。
と、その志麻子の口を絹川が両手を器のようにして覆う。
後ろから男子に抱きかかえられるようになったが、志麻子はそれどころではない。
「ゆっくり息して…、大丈夫、大丈夫だから。吸って…、吐いて…、吸って…、ゆっくり、ゆっくり」
苦しい。苦しい…ゆっくりなんてしてたら、窒息しちゃう…
「吸って…吐いて…。大丈夫、志麻ちゃん、ゆっくり、そう、まだ吐いて…ゆっくり吸って…」
吸って…吐いて…吸って…
絹川の言う通りに必死にゆっくり呼吸する。すると、ある時点でフッと呼吸が楽になった。
「はっ…あ、はあー…、はあ…」
どっと出た汗で、髪の毛が張り付く。
もう大丈夫、と口を覆う絹川の手をトントンと叩こうとした時、
「…先生!ここ!キヌ、呼んできたぞ!くじら、無事か?!」
赤堀がまた駐車場の方から怒鳴ってきた。
「なんでこっちから来るんだよ…!」
絹川が舌打ちしそうな口調で言い、
「ロビー!ロビーから出られるから!そっち回ってきて!早く!」
「わ、わかった!先生、こっち!」
赤堀がドタドタ去って、志麻子はやっと、「もう大丈夫…」と告げる。
「大丈夫?苦しくないか?」
「だい…じょうぶ。ごめん、キヌ…」
絹川が恐る恐る手の平を離す。肩を抱いたまま、志麻子を覗き込んだ。
「じっとしてな。今、ユキが先生を…」
と絹川が言ってる最中から、
「くじらー!キヌッ、どこだ!?」
と赤堀の声が聞こえた。
「あのアホ、迷ってる」
チッと今度こそ舌打ちすると、
「志麻ちゃん、ごめん、ちょっと抱っこするよ」
そう言って志麻子の、ジャージのハーフズボンを着た膝裏に腕を回して引き寄せた。
「ひゃっ」
びっくりして、志麻子は絹川に縋りついた。
「き、キヌ、一人で歩けるから…」
志麻子が焦って絹川を見上げた時、
「…くじら?」
地面に座る志麻子に絹川が覆い被さっているようにも見えるタイミングで何故か現れた沖田が、一瞬立ち竦んで、すぐに怒気を滲ませ、絹川の肩を掴んだ。
「何やって…!くじらから離れろ!絹川」
絹川も沖田を睨む。
「…面倒臭ぇな、状況見ろよ」
「お、お、沖田…!違うの、私が具合悪くなっちゃって、それでキヌが、助けてくれたの」
志麻子が絹川の肩越しに、必死に言い募った。
「具合が?くじら、大丈夫なのか?」
「もう大丈夫…キヌも。もう、多分歩けるから…」
男子に抱き寄せられてる状況がじんわり恥ずかしくなってきた。
「駄目だよ、志麻ちゃん。また倒れるかもしれない」
「大丈夫だよお」
「絹川、くじらを離せ。…俺が運ぶ」
「は?何だよ、急に。すっこんでろ」
何故か睨み合う二人。
…やめて!私の為に争わないで!と言うかどうか一瞬本気で悩んだ志麻子だったが、
「あーっ、いた!くじら、いた!先生っ、こっち!こっちだった!」
騒がしい赤堀がやっと辿り着いて、謎の一触即発の空気が霧散した。
「過呼吸、かなあ」
保険医の宿泊してる部屋で、そう言われた。
「かこきゅう、ですか」
「過呼吸症候群ね。ストレスとかがきっかけでね、二酸化炭素を吐き過ぎちゃって呼吸が苦しくなるの」
「すごく苦しかったです…心臓バクバクで。あの…私、…死なない、ですよね?」
「死ぬかい」
五十代くらいの女性の保健医は吹き出して、
「ゆっくり落ち着いて呼吸すれば大抵すぐ良くなる。10代の女の子にはよくあることだけど、帰ったら一度病院受診しようね」
「はい」
修学旅行おしまい!すぐ病院行って検査!と言われると思ってた志麻子はホッとして、微笑んだ。
「ありがとうございました」
保険医に声を掛けてホテルの廊下に出ると、
「くじら」
「志麻ちゃん」
保険医の部屋の前で座り込む不良二人。
「赤堀、キヌ。待っててくれたの…え゛っ、どうした!?」
赤堀の目が真っ赤になってる。まるで泣いてたかのような…。
「くじら、俺…」
赤堀と絹川を引っ張っていって、人の通らない内階段の踊り場まで行くと、赤堀が泣きながら突然土下座した。
「えっ、何…」
「ごめんっ、くじら。ごめん!」
「どぇえ、どうした!?」
助けを求めるように絹川を見ると、絹川も沈痛な顔で志麻子を見ている。
「俺も…ごめん。今更だけど、本当に謝る」
と頭を下げた。
「だから、何が」
「去年のこと」
赤堀が頭を下げたまま、涙声で言った。
「沖田に嘘告させて…ごめん」
「…っ」
虚をつかれて、志麻子が口をポカンと開けた。
「さっきの、かこきゅうってやつ、そういうことなんだろ?男子に告られて、俺らの顔見て…思い出したんだろ?」
赤堀が顔をぐちゃぐちゃにして言う。
「…あ、わ、私」
バレてた。
あの時一瞬、「またか」と思った。
高山に告白された後で、二人のニヤつく姿を見た時。
沖田に告白されて飛び上がって喜んだ瞬間のことを、本当は惨めでたまらない浮かれた自分だったあの時を、思い出したのだ。
「ご、ごめん…正直、疑った、二人のこと」
志麻子が打ち明ける。
「志麻ちゃんが謝る必要はない」
キッパリと絹川が言った。
「あんなこと…絶対にするべきじゃなかった。それが今日わかった。ごめん、志麻ちゃん。ほんとごめん」
「ううう」
赤堀が呻き声を上げて泣きじゃくった。
「赤堀ぃ。泣くなよお、もう大丈夫だって。疑ってごめんな」
志摩子が膝を突いて赤堀の頭をポンポン叩くと、
「ごめん、ごめん」
と赤堀が繰り返す。
「泣くなよお」
「…く、く、くじらが、くじらが可哀想で」
ジャージの腕で涙を擦りながら、赤堀が言った。
「これから、男に告られる度に、…嘘じゃないかって、思うだろ、くじら。好きだって言われてんのに、また嘘じゃないかって、俺のせいで。ごめん、くじら。ごめん」
「ごめん。志麻ちゃん。ごめんな」
「…もういいって…」
その時、志麻子は本当にストンと、もういい、と思った。
もう、許せる。
「もう、いいって、ことよ!もう、だって、友達じゃん!」
赤堀の頭を撫でて、絹川を見上げてニカッと笑った。
「志麻ちゃん…」
絹川が眉を下げた。
「くじらあ」
「よしよし…。てかさ、さっき先生呼んで来てくれてありがとう。…あれ?」
「なに?」
「赤堀、夜間行動は?」
「あ」
がばっと顔を上げた。
「あー!しまった!ちょ、俺、行くわっ、あ、キヌ…」
「俺はパスするわ。志麻ちゃん送ってく」
「わかった!」
赤堀が階段を飛び降りるように降り出す。えっ、ここ8階ぞ。
「赤堀、顔、洗ってった方がいいよ!」
志麻子が階段の手摺りの隙間から慌てて言うと、「そんな場合じゃねえー!」と赤堀の咆哮が聞こえた。
「ユキの彼女と、彼女の友達と一緒に行こうってなってたんだ。駐車場で待ち合わせてさ」
「えー!合コンじゃん!」
「…いや、違うだろ」
絹川はちょっと考えてから突っ込む。
「ごめん、キヌの出会いを邪魔しちゃって。てか、行っていいよ、今から…」
「出会いじゃねえって。もう夜間行動の時間終わるし、いいよ。それより志麻ちゃん、これ」
と志麻子の持っていた手提げを渡される。
「あ!忘れてた、ありがと。…さっきも。キヌ、過呼吸、知ってたの?」
エレベーターに向かいながら、絹川に聞く。
「うん、俺の母親が、たまになるんだ」
「えー!き、気の毒に…。めっちゃ苦しかったよ、あれ」
「うん、らしいね。…志麻ちゃん、部屋、何階?」
「6階!」
エレベーターの階数を、志麻子は自分でポチッと押した。
「あ、もう大丈夫だから、送ってくれなくていいよ。6階7階は女子部屋しかないから、男子は立ち入り禁止だって」
「あー」
苦笑して、絹川も4階のボタンを押した。
すぐに6階に着く。
「じゃあね、おやすみ、キヌ」
「おやすみ。志麻ちゃん、体調なんか変になったら、すぐ教師に言えよ」
「はーい!」
部屋に帰ると初音は寝ていて、大浴場に行く気分でもなくなった志麻子も部屋のお風呂に入った。
『寝てるので静かに入ってきてちょ』
と書いたメモをドアに貼って、志麻子も布団に潜りこんで、目を瞑る。
眠りに落ちる間際、絹川に掴み掛かった時の、沖田の声を思い出す。
…あれ、あの時瞬って、どこに…
記憶の中で瞬の姿を探そうとして、見つける前に志麻子はスコンと眠りに落ちた。