不確実な未来の選択
トロッコ問題では常に選択による結果予測と結果が一致する前提で考察することになる。でも現実にその場にいたならばどうだろう。
線路のような構造物はトロッコがそのレール上を走るので、選択と結果は一致する確率が非常に高い。しかし、状況自体がイレギュラー、それを判断している自分が正しいのかは疑問だし、ポイントを動かす方法も予測であり行動して動かせるかどうかも怪しい。
トロッコが近づいているのに、なぜ線路上の人間がその場から動かないのか。
退避するように大声で叫んでも誰も気づきもしないのはなぜか。
近づくトロッコはそれなりに音がする。現地に到着する前に気づいて逃げるのではないか。だとしたら、複数人いる方が気づく可能性が高いのではないか。早くに気づけば退避できるかもしれない。
1人側は1人しかいないから気づくのが遅れたら終わりだ。しかも本来ならそちらには向かわないのだから、近づいていても反対側の線路上と思うかもしれない。
そもそも、こんな危険に見える状況でも、実は全員が状況を把握している可能性だってある。むしろその方が自然だ。
その場に私がいたらそんなことを考えるだろうと思う。そして、ポイントより逃げさせるために全力で叫びながら走るだろうと思う。トロッコ問題では封じられている誰も死なないという結果を目指すのは当然の選択に思える。
未来は不確実であり、机上の命題のように確実な結果になるとは限らない。結果として多数の犠牲者を出すかもしれないけど1人なら死んでもしょうがないという結論が出せない。
先に出した臓器移植についても、臓器移植が100%成功する保証がなく同時に移植を受けなくても生きられる時間があるのだから、確実に誰かが死ぬ結果を選択するより、誰も死なない結論を目指したいのではないか。
想定される結果通りになる確率は高いように見えるけれども、0%や100%は見通せない。見通せたとしても悪い結果は信じたくない。決断によって悪い結果が決定されるよりも、小さい確率であっても良い結果になる未来を信じたい。
正常性バイアス。この考え方は厄介だ。
最良の結果を求めて高確率で最悪の結果を生む。
トロッコ問題では仮想の状況であるがゆえに確実に予測通りの結果が出るのだから、正常性バイアスが入り込まないはずなのだけれど、リアルに考えれば考えるほど現実を見誤りやすい。
ならば、もう判断はAIに任せたらどうだろう。
次回はそんな話です。