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トロッコバリエーション  作者: だるまんず
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命の重さが違う時の選択

 トロッコ問題の基本形式では単純に人数だけが比較される。

 でも、現実にそれを実践しようとしたら、全員がそれぞれの人生を持っている人間。ポイントを切り替える判断時点でそれらの人物を知っていたら判断はどう変わるだろうか。


 例えば死刑囚。5人の死刑囚と誰か1人。

 ポイントを切り替えて誰か1人を選択する人はどれぐらいいるだろう。

 単純に死刑囚と言っても、袴田事件のように長い年月の後に無罪になる可能性がある人もいる。いずれは絞首刑になるにしても、トロッコでひき殺していい人間ではない。それでも確率的には5人の死を選択する人が多くなるのではないかと予測する。


 誰かにとっての命の重さは、誰かにとっての命の重さと異なる。

 例えば5人の死刑囚の中に自分の子供が含まれていたら判断は変わるのではないでしょうか。死刑囚になるような子供は死んでもいいと思う親がいるでしょうか。無実を信じない親がいるでしょうか。


 命の重さに差はない。でも、それは建前でしかない。

 以前にも書いている利己的遺伝子の性質を考えるならば、自分に近い遺伝子ほど重く、遠い程軽い。それは文化遺伝子の部分でも同じことが言える。


 例えば、遺伝子的に遠いと感じる肌の色の差。文化的に遠いと感じる言語の差。単純に接点がない遠い場所に住んでいる人。単なる親近感だけでなく、命の重さについても差は出てくる。


 現実に今もウクライナやロシアで死者が出ている。この戦争をトロッコ問題のように考えられるならば、死者を減らすポイント操作を考えるはずなのに、実際にはどんな選択肢があるか、目の前にポイントがあるのかどうかすら見ていない。時間の経過で死人が出ても積みあがる数字の変化でしかない。出てきた結果を見て悲惨だと思うが他人事だ。


 例えば前にも出した臓器移植の例。仮に1人の人間を殺せば3人の患者が助かるとしても、全体の数に対して移植で助かる人の数が圧倒的に少ない。つまり、多くの人にとって移植を待つ人の命の重さは軽い。身近にそういう人間がいないと現実味がない。自分がその立場になる可能性も低い。

 結果として、軽い命の数が多くなっても重い命と釣り合わない。


 でも少数派の当事者やその周辺の人はそうではない。むしろトロッコが迫っている当事者にとってトロッコ問題のリアルな選択ができるのかが問われる。当事者でない人間であれば、第三者としての判断となるけれども、当事者が当事者じゃない側を殺す判断を求めるなら、当事者の都合で他人を殺すという形になる。社会的にそのような殺人は認められにくい。


 人種差別や障碍者差別といった言葉があるように、差別することは悪い事だと知っている。

 でも差はある。

 トロッコ問題でどちらかを選ぶと言うことは、命の重さを天秤にかけている。その差は人によって異なり、選択に正解はない。

 この重さを不明なままに天秤に乗せて選ばせるのがトロッコ問題。


 差別が良くないことは理解している。でも差があることは認めるべきだと思う。そしてその差は自分の属性に依存していて、別の属性からは違う差があることも意識するべきだと思う。その上でのトロッコ問題。

 片方に自分にとって軽い命が置かれても、それは誰かにとっての重い命であることを意識すること。そう考えるならば、まずはトロッコ問題のような状況に陥らないことがベスト。その上での選択はいずれも悲劇でしかないことも意識したい。

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