戦争と言う選択肢
戦争は「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という問いかけに1つの答えを出している。それは「許される」だ。
ロシアとウクライナの戦争はロシアの一方的な侵略であると結論されているが、問題はそこじゃない。武器を持って殺しあっているのが戦争。ウクライナがロシア人を殺していないわけではない。
放っておくとウクライナ人が死ぬからポイントを切り替えてロシア人を殺していると言える。
他の人を犠牲にするのを許さなければ戦争はできない。防衛戦争であっても同じこと。現実にロシア兵も何万人も殺されている。
今も戦争は続いている。ウクライナを支援し支持するということは、もうこの命題に答えている。その割には自覚がない。それとこれは違うと思ってしまう。現実は残酷だ。
なぜ、本来ならば迷う判断に明確に答えが出せるのか。仮にウクライナが逃げるだけでロシアが一方的に攻め続けるならば、より多くの人が死に国土を奪われるだろうと想像する。それは想像ではあるけれどもそれ以外の結論がない。別の可能性を考えて試すような国家はない。
仮に「許されない」と考える人が多くいるとしたら、ウクライナを支援そのものを否定することになる。ウクライナ人の命を守るためにロシア人を殺すことを許さない。そういう人がある程度いるのは知っているが、メディアからそんな声が聞こえてくることはない。侵略者とは戦うべきであると断言できてしまう。それも世界レベルで。
この現象をどう考えたらいいだろう。
トロッコのポイントを切り替えるべきかどうか、本当に悩ましい問題であるはずにもかかわらず、戦争と聞いたとたんに迷いなく結論が出る。なぜだろう。
私はリアリティの問題だと考えます。
トロッコ問題で死人が出るのは問題の中のことで、問題自体が数の問題に絞られている。数の比較、5人死ぬより1人死ぬ方が全体として良い結果である。より多くが生き残れる選択は誤りではない、という結論を出してしまいそうになって、そもそも死なないはずだった人間を殺してもいいのかという問いかけに戸惑うから問題として成立する。1人側も5人側の中の1人と等価である前提がここで出てくる。
戦争では選択して殺す対象が敵という人間ではないものになる。リアルな人間ではなく、国家という顔をした自分たちを殺す武器そのものと感じてしまう。人を殺すというリアリティがない。殺しているのは敵であって人間ではない。
現実には敵なんて生物はおらず、同じ人間なのだけれども人間としてのリアリティが消されてしまう。だから、人間と敵を天秤にかけても結論は人間しか残らない。だから答えが明白に出る。
戦車から砲弾を打ち出した人間は、敵の武器を破壊しようとして攻撃しているだろうし、その武器の付近にいる人間がどんな人間であるかは認識していない。もちろん恨みもない。その武器を破壊しなければ自分や仲間の命が奪われるからであって、人間の命を守るために武器を破壊する戦争と思わなければ引き金は引けない。
リアティは物理的距離も関係してくる。
日本でロシアとウクライナの戦争を見ていてもリアリティは薄い。自分の家に砲弾は届かない。死人の数も1万でも2万でも動じない。ウクライナ人の死者数を見てロシアの非道を感じる一方、ロシア人の死者数は「意外に多いね」ぐらいの感想になる。
西側に近いウクライナはロシアより日本に近く、アメリカと対峙するロシアは対岸で遠い。それでもどちらも十分に遠い。だから、ウクライナを支援すべきだと考えたとしても何をしたかを問えば現実には何もしていない。
この距離を勘案したトロッコ問題はまた次に。