(1)トロイア戦争を語る叙事詩
トロイア戦争をめぐる伝説、神話は古代ギリシアの叙事詩で語られ、その後ギリシア悲劇の題材となるなどの展開をたどった。近現代においても、ハリウッド映画「トロイ」(2004)が興行的な成功を収めた他、時代をやや遡れば、小説「ユリシーズ」(1922)も特殊な方法ではあるが叙事詩『オデュッセイア』に想を得ている。
トロイア伝説の「原典」として、叙事詩『イーリアス』『オデュッセイア』が現在まで受け継がれており日本語でも読むことができるが、その内容について知るといささか驚く、あるいは拍子抜けするかもしれない。なぜなら、いわゆる「トロイの木馬」や、戦争の遠因となった「パリスの審判」、不死身の英雄アキレウスが唯一の弱点である踵(アキレス腱の語源)を射られて死ぬ、といった、有名な場面がことごとく現れないからである。
「叙事詩の環」とは、トロイア伝説を語った八つの叙事詩のことを指す(キュプリア、イーリアス、小イーリアス、アイティオピス、イリオス落城、ノストイ、オデュッセイア、テレゴニア)。ただし『イーリアス』および『オデュッセイア』については別格の扱いをされており、他の六編については、この二大叙事詩を前提として、その前後や間を埋める形で作られたらしい。いずれも早くから散逸しており、タイトルや作者の名前は知られているが、内容についてはわずかな断片や別の著作における要約の記述から知られるのみである。しかしながら上記の有名なエピソードをはじめとして多くの出来事を含むことから、ギリシア悲劇の題材となるなど、間接的あるいは部分的に伝説の継承を担ってきたと言えるかもしれない。
いずれにせよ「叙事詩の環」によってトロイア戦争はその発端から終結後の出来事まで語られたことになるわけだが、ではこれを「原典」と呼ぶべきかというと、いささか疑問に思われる。なぜなら、元来語り継がれてきた伝説を語り直したものが、これらの叙事詩と考えられるからである。
トロイア戦争は、古来紀元前12~14世紀ごろの出来事であると推定されている。トロイア(イリオス)は現在のトルコ北西部に位置し、19世紀のシュリーマンらの発掘によって、前述の時代に相当する時期に戦火の痕跡が見つかったことで、トロイア戦争が実際に起こった出来事であるとされるようになった。しかしトロイアを攻撃したのが伝説の通りギリシア軍と確かめられたわけではないし、今後もそのような証拠が見つかる可能性も低いだろう(ギリシア軍によるトロイアに対する何らかの軍事行動が行われ、伝説の題材となったかもしれない、という程度が限界であろう)。
上記の「ギリシア軍」とは、時代的にはミュケナイ(ミケーネ)文明を指す。紀元前11世紀ごろにドーリス人と呼ばれる新たな民族が侵入したことでミュケナイ文明は崩壊し、歴史的記録に乏しいいわゆる暗黒時代(この呼び方には議論があるが、ここではとりあえずその是非は問わない)に入ることになる。このミュケナイ文明の時代は、後には「英雄時代」などとも呼ばれる。叙事詩で描かれる数多の英雄豪傑の活躍した時代と信じられたからであるが、前述の通り、考古学的にもそう言えるようである(無論、そういった神話が歴史的事実を正確に描写しているというわけではなかろう。もとになった出来事が起きた頃、という程度の意味である)。