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さて、「暇」とはどういうものだろうか。
まずは漢字的な観点で考えてみよう。
「暇」そのものは「ひま」「いとま」と読み、音読みは「カ」である。他に読み方があるのかもしれないが僕はそれ以上知らない。
ぱっと思い付くもので熟語には「余暇」「休暇」、類義語というなら「休」「空」「隙」などがある。熟語は兎も角、類義語はカンによるものなのでこれもまた正解かどうかは分からない。イメージだ。これからする議論、というか「暇」潰しに精細な定義は必要ではない(事にしている)ので、正誤については目を瞑っていて頂きたい。
音読み、訓読み(の一部?)について深く考える事で「暇」というものを解き明かすのはやや無理があるだろう。というのも、僕は殊更漢字の音読みや訓読みについて興味がある訳でもないのだ。小学生の頃、漢字ドリルにあった漢字の成り立ちの挿絵について(木が2本ある様子から林が成り立った、みたいなものを絵で分かりやすく描いてくれていた奴だ)、それに惹かれて友達と一緒に成り立ちの様子の真似をした事はあった。しかしあれは純粋に絵自体に興味が湧いて子供心にそれを茶化していただけであり、決して漢字そのものの歴史に胸を打たれ殊勝にも身体で成り立ちを学んでいたという訳では決して無かった筈だ。そしてその別ベクトルの好奇心が、出発点である漢字ドリル、引いては漢字そのものという学問的な領域に帰属する事も無かった、というのが個人的な見解である。もし帰属していたのなら、今僕が持っている漢字検定の資格区分が「4級」止まりになっているなんて事にはなっていない筈だ…。因みに、漢字検定試験の4級と3級の間にどれだけの壁、即ち資格取得における難度の差があるのかは全く知らない。いかんせん、僕は3級試験については勉強をした事すらないのだから。成る程、漢字には縁もゆかりもない訳だ。こんな奴に漢字の縁やゆかりがあるのなら僕は反駁運動を起こすのも吝かではない。僕は一応、努力せずに結果を得る人間よりは努力して結果を得る人間の方が好きな真っ直ぐな人間なのだ。捻くれていない。最近はただ捻る程の芯も志もないだけなのではないかと思うような事が多いのだが、少なくとも自分では捻る程の芯や志すら持っていないと思い込んでいる人間において、即ち僕という人間においては漢字の音読みや訓読みで「暇」というものを考察するアビリティは備わっていないという事を言いたい。
次に熟語から切り口を探してみる。
僕は例に「余暇」と「休暇」を挙げたが、今思ってみると「余暇」も「休暇」も物凄く暇感が出ていないだろうか。果てしない徒然感。何もないという感覚が遥か地平線を行くような圧倒的な虚無感。
「余った暇」と「休む暇」である。暇そのものが余ったものなのに更にそれが余っているとは…。どれだけ暇なんだろうか。余暇活動、なんてものを大学生になってからよく聞くが今になってみると休日活動、などと言った方が体裁が立つ気がする。休日の余った時間に何かする、という一般的な、少なくとも他人から揶揄される筈もない表現をわざわざ暇を持て余す暇人の為の暇な時間の代名詞のような、そんな「余暇」という熟語に委ねるのは横暴である。あんまりだ。学生にとっても社会人にとっても、何かを頑張っている人間に休みというのは必要不可欠である。必要な時間をまるで不要で邪魔なものみたいな、余計なものみたいな表現をするのはやめた方がいい。全く遺憾だ。
…という理論、いや妄言こそ暴論であろう。いやいや、こんな意味不明な事を本気で言っている訳がない。安心して欲しい。僕は比較的普通な人間だ。普通な感性を普通に持っている。自他ともに認める一般人、普通人だ。勿論、お前にはーという長所がある、ーが人と比べて優れている、という風に褒められた事はあるが、それも一般的な範疇でというのは言うまでもない話で、注釈を付けるのも億劫になるような、正に蛇足と言っても差し支えない説明だろう。決して僕は宇宙からやってきた怪人を倒したり、攫われた姫君を救いに行ったり、世界を破滅させようとしてみたりしていない。ましてやコンクールで賞を取った事も部活でインターハイに行った事すらないのだ。高校の部活で収めた成績の内、県大会でベスト4というのはそれなりに誇らしかったが、まあその程度である。因みに僕はその大会でベンチを温めていた。
とは言ってもやはり余暇、休暇という言葉には考えさせられる部分がある。そういう部分があるからこそ、この観点から「暇」というものを僕なりに解剖しようと思ったのだ。そう、漢検4級持ちの僕なりに。
僕個人の身勝手な考え方で言わせて貰えば、「余暇」も「休暇」も実体が無いものだ。それに加えて実態も人それぞれで、定義付けするのも難しいものの様に思える。余りにも幅の広い言葉だ。広すぎて捉えられない。捉えるも何も本当に煙の様に掴みどころの無いもので、実際にそこら辺の道端に落ちているものでも額縁に飾られるものでも博物館に寄贈されるものでも無い。そこにあると思えばあるもので、無いと思えば無い。幸せとか不幸とか愛とかそういうものと一緒の類いだ。目に見えない、だが人間に必要なものはいつだってそういうものであると僕は思っている。
だからこの「暇」というものも「余暇」や「休暇」と同じ様に煙であり、目に見えないものであり、だからやはり解剖するのは骨が折れるのかもしれない。僕の志や芯は折れるも何も軟体動物のようにグニャってるのかもしれないが、この「暇」とかいうやつを論じる事はきっと骨が折れる事だろう。煙に巻かれる、雲を掴む様な話に骨を折られるという訳だ。気体に骨を折られるとはこれ如何に。
閑話休題。
さて、この余暇なり休暇なり暇なり、総じて厄介な所は実体が無いという部分だ。目に見えないものは目に見えないから、その姿形を自由自在に変える事ができる。否、正確に言うのなら「想像する事ができる」という所だろうか。
時に神は偶像となり、動物となり、空想上の生き物として書物に描かれ記録される。それそのものがこの世に存在しない事は火を見ることより明らか、表現に気をつけるのならば、神を記録者自身が見聞きした事が無いのは明白なのだが、それでも目に見えぬ神は偶像としてこの世に物理的に存在している。それらは彼等の希望、と言っても差し支えないのかもしれない。「希望」も目に見えない、けれども人間にとってきっと必要不可欠なものだ。
希望、と言えば「愛」もそうだろう。僕は両親に「愛の結晶」だと言い聞かされながらぬくぬく育って来たが、愛の実像を知らない以上、それが凝集し結晶化した愛の結晶も僕には見覚えが無い。愛の結晶の実物を知らない。だがそれもまた、僕の両親にとって、はたまた僕自身にとって重要なものだということは、重要な観念だということは、言われるまでもなく理解できる。愛の結晶の実物を見た事がなくとも僕は間違いなく両親の愛の結晶だという事実を疑わずに済む。そもそも愛の結晶を知らないのだから、きっと誰もそれの実像を知らないのだから、僕や僕の両親が仮想愛の結晶を真実の愛の結晶だと愚直に信じていたとしても罰せられたりはしないだろう。正解のない問題に不正解なんて存在できはしないのだから。
思ったもん勝ちという訳だ。
正解だと思ったものが正解、不正解だと思ったものは須く不正解だ。そして問題自体が意識されない場合は問題自体もなくなってしまう。それこそ雲や煙の様に。
神を信じない不届者に神の救済はない。洋画なんかでよく聞く常套句だ。
それと同じく、愛を信じないものに愛は無いのかもしれない。いわんや「暇」を、だ。
となると、これに似たものとして「空」「隙」「休」を挙げるのは些か不安定すぎる気がする。こんな曖昧模糊とした「暇」を別のものに喩えるなど愚策にも程がある。仏陀とキリストがどれ位似ていたか議論するほど阿呆らしい。僕はこの2人に会ったことは当然無いし、なんなら世界史は苦手な科目だったから人並み以上に彼等について知識がない。つまり限りなく無知に近く、僕が彼等に抱いている印象なんて皆無だ(信仰している皆様にはお詫び申し上げる)。見た事も聞いた事もないもの同士を比べ、あまつさえそれらのどちらがより見た事も聞いた事もない対象物に相似しているか問うのはあまりに無謀だ。やる意味がない。
比べる意味がない。
つまり比べる必要がない。
余分なステップを踏んでいると言っても良い。
ホップステップジャンプではなく、ジャンプ。この議論はジャンプだけで事足りる。
愛の結晶は目に見えずとも確かに存在し、神も希望もあると思えばある。サンタさんはきっと存在するし、彼を信じなくなった子供達はやがて大人になり、1つ希望を失い、今度は自分達が希望を創出する。
画面の向こうの推しはきっと実在しないが、夢の中にはいるのかもしれないし、その夢の中で一緒に話をしたり旅行に行ったりすることになるかもしれない。そしてその夢は夢じゃないかもしれない。その夢が実は現実で、夢なのはこちら側なのかもしれない。かつて中国の詩人もそう言っていた。…という論調は流石に言いたい事から乖離しすぎているかもしれないが、つまり僕の言いたい事は、目に見えないものに相対的な価値基準による存在の固定化は必要ないという事だ。
正解だと思えば正解、あると言えばある、ないと言えばない。さっき言った通りだ。
議論するだけ無駄なのだ。だって誰がなんと言おうと誰も行き着く先の答えを知らない。
「僕は二次元ロリータ嗜好の少女が好きだ!」
これの一体どこに他人が正解不正解を唱える隙間があろうか。「いや、君は三次元ゴシックロリータ嗜好の熟女を愛すべきだ」なんて、余計なお世話にも程がある。人が人なら紛糾してもおかしくないだろう。そして勿体無いことに、僕はその異論を唱えた無法者を嫌いになってしまうだろう。僕は輪をかけた二次元ロリータ好きなのだから。他の誰でもない、紛糾しそうなのは僕だった。
さて。さてさて。そもそもの考えの支点、支点にして始点は何だっただろう。「暇」とはどういうものか、だったか?
結論から言うに結局、僕は…
「空きコマに研究室で『僕は二次元ロリータ嗜好の少女が好きだ!』と叫ぶのはどうかと思いますよ、先輩?」
間違いなく暇を潰す作戦は成功したし、ついでに後輩からの信頼の面を潰すことにも成功したという訳だ。
いや、中々スリリングな暇潰しになったと思う。