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仮面夫婦のはじめかた

作者: 加上

恋愛のない契約結婚ものです。

 私の最初の結婚は十七のときだった。

 彼は私に熱烈なプロポーズをした。婚約期間を経て、私たちは祝福されて結婚した。私たちは熱愛の果てに結ばれた、とても幸せなカップルだと誰もが口にした。

 けれど、結婚生活は一年で終わった。彼が死んだのだ。私たちの間には子供がなく、未亡人になった私は実家に戻った。私は社交場に出かけることなく、静かに彼の喪に服していた。

 そして二年がたち、親戚から縁談が持ち込まれた。相手は私も知っている、伯爵家の跡継ぎだった――いや、もう跡を継いでいた。彼は私が学園に通っていた頃の先輩だった。

「久しぶりだね、ウィンストン嬢」

「私のことを覚えておいでですか、ダンヴァース伯爵」

「図書館で何度か会話をしたね。君の書いた論文は興味深かったから読ませてもらったよ」

 本当だろうか。私は表情を曇らせた。話のタネに言っているだけかもしれない。私とダンヴァース伯爵は彼の言う通り、図書館で何度か会話をしただけの仲だ。いや、社交界で挨拶をしたこともあるかもしれない。前の夫と伯爵は同級生で知り合いだったはずだから。

「ランドンのことは残念だった。お悔やみ申し上げるよ」

「はい」

「今日までずっとそうしていたのかな」

 私は頷いた。そう、というのは、この服装だ。夫が亡くなってから私はずっと黒い服を着ている。今日くらいおしゃれをしないとと言われたが、無理やり見合いになんて連れ出されておしゃれをするなんて絶対に嫌だった。

 私は、結婚するつもりはさらさらない。あんな思いは二度とごめんだ。

「……実のところ、君とランドンが結婚したときは驚いた。彼はその、君とは違うタイプだったからね」

 夫はにぎやかな人だった。それこそ人目なんて気にせずアプローチしてきて、人前でサプライズ的にプロポーズをしかけてきたくらいだ。私はどちらかというと言わなくとも目立つのが好きではない。派手な格好も好まない、大人しくて地味な存在だと自負している。

「けれどランドンは君に愛されていたんだね。まだ若いのに……」

「ダンヴァース伯爵」

 私は曖昧に微笑んだ。

「私がこのように過ごしているのはご存知だったはずです。いったいなぜ、私に縁談など持ちかけてこられたのでしょう」

 ダンヴァース伯爵は未婚で、しかもすでに爵位を継いでいる。わざわざ私のような未亡人と見合いなんてしなくても、引く手あまたのはずだ。何か裏があるに違いない。

 そう尋ねると、ダンヴァース伯爵もうっすら唇に笑みを乗せた。

「君は敏いひとだね」

 ゆっくりと指を組み替える。

「君は夫を愛しているままでいい。なぜなら、私にも愛する人がいるからだ」

 その言葉に、いいほうの想像が当たって私はほっとした。胸をなでおろす私にダンヴァース伯爵は続ける。

「三年後に彼女との子供を儲ける予定だ。君はただ、女主人の役割を果たしてくれればいい」

「……跡継ぎを生むことも私に求めないのですか?」

「ああ。彼女は一代男爵家の娘でね。妾として迎えるには問題がないんだ」

「理解しました。あなた自身の結婚には益がなくてはならないのですね」

 ダンヴァース伯爵は引く手あまたと言ったが、彼の家は比較的歴史の浅い家だ。一方で我が侯爵家は歴史が古いし、家格も上だ。若い当主としては地位のない愛する女性よりも有益な結婚を取らなくてはならないということだろう。

 その点、私は非常に都合がいい存在だ。熱烈な恋愛の果てに結婚した相手と一年で死に別れ、喪服を着て過ごす未亡人。寝所すら共にしなくていい相手。

 もし、今ここでダンヴァース伯爵の誘いを蹴ったとしても、私がいつかまた結婚させられる可能性は高い。両親や親族は私に同情的だが、それゆえにタチが悪い。現実的に考えると、いつまでも喪に服していられるとは思えなかった。

「分かりました。では、私たちの間に間違いがないように、【誓約】を結びましょう。それならば結婚しても構いません」

【誓約】は魔力の持つ貴族の間で結ばれる、とても強いまじないだ。無意識でも約束を違えれば灰になって死ぬ。基本的に禁忌とされているが、やり方自体は誰もが知っているものだ。

「それは、こちらとしても願ってもない申し出だ」

 ダンヴァース伯爵は手を差し出してきた。私は彼の手を握る。交渉は成立だった。


 そうして、私は伯爵家の夫人になった。


 二度目の式はそこそこの規模だった。

 初婚のダンヴァース伯爵と未亡人の私の両方のメンツを取ったものだ。世間的には、ダンヴァース伯爵は学生時代から私に惚れていて、未亡人となった私に再アタックした健気な男性ということになっている。私は夫を失い二年もの間喪に服したが、彼にほだされた女だ。そんな物語で周りは浮足立ち、しかしすぐに忘れ去られていく。

 ダンヴァース伯爵――婚姻を結んだので旦那様と呼んでいる――との生活はそれなりに順調だった。初夜こそは少しトラブルがあったものの、屋敷の使用人も欺き、私と彼は仲睦まじい夫婦を演じている。同じ部屋のソファとベッドでそれぞれ眠り、朝になるとどちらかがどちらかを起こしてそれっぽい工作を二人でする。しかしそんなこともだんだんと頻度を落としていった。

 最終的に彼は愛妾との間に子を成すのだ。私との夫婦仲も徐々に冷めていったほうがよいだろうという演技である。

 旦那様が仕事に行っている間、私は家の采配を任されていた。女主人としてふるまうのは二度目であるし、私は一応侯爵家の生まれでいずれはどこかに嫁ぐべく育てられた身だ。最初こそは屋敷の者たちも未亡人の私に入れ込む旦那様を心配そうに取り巻いていたが、今は友好的な関係を築けている。

「平和ね……」

 旦那様と結婚するまでの数年間を思い出しながら私は安寧に浸って微笑んでいた。めくる本の古いにおいが心地いい。

 主寝室と繋がった自分の部屋は好きなように改造できたし、そこから見下ろす庭も好みに合わせて整えられていた。誰にも邪魔をされず、好きなふうに振舞えるのは気が楽だ。これも旦那様が愛妾を連れてくるまでの三年間限定だと分かっているのだけれど。


 のんびりとした三年間を過ごしている間、父母は私に子はまだできないのかとせっつき、社交界では私の悪い噂を流す人もいた。けれど対外的には私と旦那様はとても仲睦まじく、私が悪しざまに言われれば旦那様がはっきりと否定し、旦那様を皮肉る人がいれば私がそれとなくフォローした。

 彼は【誓約】を違えることはなく、三年の間に私たちは戦友ともいえる絆で結ばれていた。

 恋ではない。愛ではない。欲ではない。

 信頼を向けられれば、私だって信頼を返す。そうすることができる相手がいるのは、ひどく安心した。


 約束の三年から半年が経ったのち、旦那様の愛する人がついに屋敷にやってきた。膨らみ始めたお腹を抱えた彼女は、ルシールと名乗った。

「初めまして、奥様」

 いろいろと準備をしていたのに、旦那様はあろうことか急ぎの仕事で不在だった。なんという男か。妊婦に要らない心労をかけるなんて、後で説教をしてやらねばと思った。

 不安げに、けれどまっすぐと見つめてくる彼女に私は威圧的にならないように答えた。

「初めまして、ルシールさん。ようこそおいでくださいました」

 彼女がこれからここで暮らしていくには、私の立場表明が非常に重要だった。その表明は【誓約】にも含まれている。

「大事な時期に引っ越しなどさせて申し訳なく思っています。離れを用意していますから、今日からはそこで過ごしてくださいね」

「はい」

 父親が一代限りとはいえ男爵位を賜ったルシールは裕福で、自分の侍女も連れてきている。ならば、私がいる本館よりも離れのほうが過ごしやすいだろう。そんな考えで私は彼女を離れに案内した。最近改装工事が終わったばかりなので、新築同然のピカピカさだ。

「あなたの趣味がわからなかったので旦那様に聞いたのですが、もし気に入らなかったら壁紙や家具を変えてもかまいませんよ。そこから見える庭も、好きなように庭師に頼んでください」

 家の侍女にもくれぐれもルシールを丁重に扱うように伝えておく。彼女は跡継ぎを生む身だ。この屋敷で一番丁寧に扱われてしかるべきである。

 ルシールはぽかんとしていたが、その晩、離れで食事を摂った旦那様づてに感謝の意を伝えられた。

「もともとそのように決まっていたのですから、当たり前のことをしたまでです」

 答えると、旦那様は眉を下げて笑った。

「実際に会うまで信じられなかったのだろうね」

「あなたがしっかりしていないからではありませんか?今日も急に予定を変更して、妊婦に負担をかけるなんて何を考えているのです」

「すまない。君に任せて問題ないと思ったんだ」

「あなたがそう思っても彼女は思わなかったという話です。これから毎日声をかけるくらいはしてさしあげてくださいね」

「なんだか私より君の方が過保護だな」

 男性は妊娠というものを甘く見ている。私はこんこんと説教をしてやった。ルシールが来るのに備えて買った指南書を旦那様にも勉強するようにと渡すと、「やっぱり君の方が過保護だ」となんともいえない顔をされた。

 ルシールのお腹の赤子はすくすくと育っていき、ルシールとの関係も良好すぎるくらい良好だった。昼の間話し相手になったり、夜は旦那様に呼ばれて一緒に食事をしたり、そうして交流を深めていった。

 最初の夫を亡くしてからというもの、私は親しい女友達がほとんどいなかったので、ルシールとのおしゃべりは学生時代を思い出させた。二人で新生児用の靴下を編むのは楽しかった。

 やがてルシールは男の子を産んだ。離れは完全に妊婦と赤ん坊用に改造してあったので、しばらくはそちらが生活の中心になった。

 他人の子供だったが、赤ん坊はとてもかわいかった。これから彼を伯爵家の跡継ぎとして養育していかなければならない。そう思うとやりがいを感じた。


 旦那様とルシールの間には男の子が二人と女の子が一人生まれた。私は女主人役だけではなく、彼らの家庭教師代わりにもなった。学園でそれなりの成績を修めていたし、今も空き時間に趣味の研究をしているから、学力面に問題ないと自負している。

 自分の子どもではないけれど、旦那様とルシールは私を彼らの輪の中に入れてくれた。本当は部外者の私は、まるで家族の一員のように扱われた。

「ねえ、奥様」

 ルシールは私をずっと奥様と呼んでいる。これは、どうやら彼女にとっての敬称らしい。

「奥様は私たちによくしてくださるけれど、嫌になったら言ってくださいね。もし奥様に好きな方ができたら、私応援しますから」

 邪気のない笑顔でルシールが言う。赤ん坊を胸に抱えて、少女のように。この無邪気さを旦那様は愛しているのだろう、と私はなんとなく思った。

 そして、ルシールとの間に横たわる、どうしよもなく深く暗い断絶にも気づいていた。

「ありがとう、ルシール。でも、私がずっとここにいてもうっとうしがらないでくれると助かります」

「そんな!奥様は恩人ですもの」

 どうだろうか。ルシールのこの感情が変わらないとは限らない。私はそこまで彼女を信じてはいない。

 私は私室に戻り、ぼんやりと庭を眺めた。ルシールの好みに変えられた庭は、それでも私が独り占めしていた三年間と大きく形を変えていない。

 胸の奥がざわついた。私はうまくやってきたと思う。でも、ふとした時にひどく独りぼっちに思えた。

 旦那様がルシールを連れてこなかったらどうだっただろうか、と考えたが、そもそもの前提が間違っている。ルシールがいなければ、私と旦那様は今の関係を築くことができなかっただろう。

 私は、ただ――。


「――そういえば」

 その晩、私は旦那様と二人で向かい合っていた。

 愛妾を家に迎えても、子どもができても、旦那様は私を邪険にはしなかった。そういう【誓約】だ。おかげで外でも中でも私のメンツは奇跡的に保たれている。

「どうかしたかい」

 旦那様は穏やかに応えた。私は唇を湿らせて言葉を続けた。

「最初にあなたは言いましたね。私と、前の夫が結婚したのが意外だったと」

 軽く息を吐く。旦那様が頷いたのを見て、私は曖昧に微笑んだ。

「……私は、あなたのことを大切な人だと思っています。他の人では、この関係を築けなかっただろうと」

 その理由がルシールにあっても、そう思う。

「だから、お願いです。打ち明けさせてください」

 恋ではない。愛ではない。欲ではない。

 どうしようもない血の繋がりでもない。私を理解しなかった家族とは違う。

 旦那様は理性的で、【誓約】を結んだだけの他人でもある。私たちの契りは婚姻なんかではなく、この【誓約】にだけあった。

「ランドンのことだね。君を庇って死んだ、彼のことを、君は――」

「――ええ、憎んでいます。心から」

 私はそう言った。

 あの男を愛しているだなんて。あの男と熱愛の果てに結ばれたなんて。あの男を愛して、あの男のために喪に服していたなんて。

 そんなことはありえない。私は、あの男を――私をめちゃくちゃにした最低の男を憎んでいる。

「……そうでないかと、思っていたよ。君は一緒に床に入ろうとしたとき尋常ではないくらい怯えていたからね。単純に【誓約】の違反を疑っていたのではなく、過去にひどい目にあったんじゃないかと」

 それは初夜の一度きりだ。十分に広いベッドで、二人で横になることすら私にはできなかった。だからそれ以降、ソファとベッドに分かれて眠っていた。

 あの大きな手を思い出す。私を暴いた憎い男を思い出す。屈辱と苦痛を思い出す。旦那様がそうできないと知ってもなお、刻まれた傷はあまりに深かった。

「結婚も、不本意だったんだろう」

「ええ。あんな人の都合を考えない迷惑男、誰がありがたがるものですか」

 私が世界で一番嫌いな男は間違いなく前夫だった。人が嫌がるのも気にせずただ自分に都合のいいことばかり並べて自己陶酔する最低の男。

 サプライズでプロポーズをされてあまりのことに卒倒しかけた私を見て「こんなに喜んでくれるなんて!」と馬鹿げたことを言っていた。後でどんなに嫌と言っても聞いてはくれず、父母も私の意見など聞いてはいなかった。こんなにお前を愛してくれる人は他にはいないよ、なんて言って。

 嫌悪感しかなかった。ストレスで月経が止まったとき、この男の子供を身ごもったのかと思い吐いた。実際は違ったが、私は体調不良を理由に彼と寝所を同じにすることを拒んだ。

 それでも向けられる視線が嫌だった。恋なのか、愛なのか、肉欲なのか、どれも気持ちが悪い。

 あの男に向けられるものだけではない。昔からそう思っていた私は肌の露出を一切しなかったし、自分の体型をなるべく隠すようにつとめていた。前夫はそれを加速させた。

「私は彼を憎んでいましたし、あんな生活には耐えられませんでした。欲を向けられるのが果てしなく気持ち悪かった。それは彼以外の誰でも同じです」

 私は多分、そういうふうにできているのだ。恋も愛も欲も向けられたくない人間なのだ。貴族の女としてはどうしようもなく欠陥品で、母にも妻にもなれない女だった。

「それで、君は……」

「追い詰められて、死のうとしました」

 街を歩いているときに思ったのだ。今この馬車の前に身を投げれば楽になれると気づいたその瞬間、私はそうしていた。前夫はそんな私を庇って死んだ。即死だった。

「そのとき、思ったのです。どうして早くこうしなかったのだろうと」

 殺せばよかったのだと、気がつかなかった。周りは私がこんな目に遭っているのは、きちんと拒否しなかったのが悪いというかもしれない。だからなんだというのか。

 ――お前が悪いのに殺すのか?

 ――私が悪かろうと殺すのよ。

 死体の前で殺意を抱いた。自分の手で意図的に殺せなかったことを悔やむほど、私はあの男を憎んでいた。

「私はあの男を愛しているフリをして、二度と結婚をすまいと思っていました。どんなに屈辱だとしても、あんな思いをするくらいなら我慢できると思っていました。でもそうはならなかった」

 旦那様が持ちかけた話は、今日まで続いている。私はこの居場所を手放すことが恐ろしいと思った。

「ルシールさんに言われました。私に好きな人ができたら応援すると」

「それは……」

「彼女は善意で言ってくれています。ですから、私ははっきりさせたい」

 怖いのは、悪意ではない。善意だ。ルシールが私に『幸せ』を追い求めてほしいと思ったのは善意で、だからこそ恐怖した。

「あなたには二つ、伝えさせてください。一つ、私はあの男を愛してなどいません。そしてもう一つ。私は生まれつき誰を愛することも愛されることも厭う、そんな女なのです」

 わかってくれなくてもいい。ただ知ってもらっておかないと、彼も私の『幸せ』を勝手にでっち上げる可能性がある。

 ――本当は、わかってほしいのだけれど。

 愛はないが、情はあった。信頼もあった。彼にわかってほしいと願うくらいには私と彼の間の関係性は深くなっていた。夫婦という仮面の下で、命を賭した【誓約】で結ばれる私たち。

「――正直なところ、私は君に申し訳なく思うことがあった」

 旦那様がうつむきがちだった顔を上げて告げた。指はためらいがちにソーサーをなぞる。

「君がランドンを愛していないということは早々に想像がついていた。だから、君を自由にすべきかも悩んだんだ。私は愛する人を手に入れたのに、君には利益がないと思っていたから」

【誓約】には、ルシールがやってきても私と離婚はしないことが盛り込まれている。これは私が死んだ夫を想い続けているという前提で、いくら世間的に子どもが産めない妻だとしても、追い出さず私の生活を保障するというものだった。この条項のおかげで旦那様は勘違いで私を自由にせずに済んでくれていたというわけだ。

「私は愛を重んじる方だと思う。だから君が言う、『生まれつき誰も愛せない』というのを理解できているかはわからない。けれど腑に落ちたよ。ランドンに心を捧げたわけではない君がルシールや子どもたちによくしてくれている理由が」

 呼吸が置かれる。私は続きを待った。

「ここは君の居場所なんだね。君の心は、君だけのものだ。私は君に愛されているわけではなく、君を愛してはいないが、私たちは家族なんだろう」

「家族……ですか」

 書面上はそうだが、そういうことではない。彼の言うそれは心の繋がりのようなものだろう。

「そういう形であっても構わないと思わないかい?こんなに長く共にいるのだから」

「私はあなたを戦友だと思っていました」

「戦友とはものものしいね。君にとっては戦いだったということか」

 そうなのだろう。でも、こうして打ち明けて、ある程度地盤が固まった今、以前のように戦わなくてもいいような気がした。

「家族。夫でも兄でもないけれど、そうですね。その言葉で表すのは、いいかもしれません」

 旦那様もルシールも他人だと思っていた。私は彼らの輪に入ることのない他人であり、誰かを愛することができない以上、一人きりで生きていくのだと思っていた。

 けれど、その輪に入れてもらうことは可能らしい。少なくとも旦那様はそうしようと思っているようだ。

「ルシールには言っておくよ。君は誰かが君に懸想していると勘ぐられるのも嫌なのだろう?」

「はい、嫌です」

「言い訳にはランドンを使うことになるが、いいかな」

「仕方ありませんから。ルシールさんに分かりやすいように伝えてください」

 ルシールが私のこの性質を理解できるかは微妙だ。私は彼女をその点では信頼していないし、旦那様も同じように思っているらしい。愛する女性に何もかも伝えようとしない理性的な彼は、やはり信頼できる人だった。

「メイベル。君が誰かを愛することができなくとも、それは私にとっては欠点ではない。君は理知的で有能な女主人だ。これからもよろしく頼むよ」

「はい、ケイシー。あなたを信頼しています」

 私たちは握手を交わした。

 旦那様――ケイシーに打ち明けたことで、肩の荷が下りた気分だった。私は誰かを愛せないが、一人で生きるには弱すぎる人間だったのだろう。

 その私が、居場所を得られたのは奇跡に近い。そう思う。


 ◇


 メイベル・ダンヴァースはウィンストン侯爵の第二子として生を受けた。学園を卒業してすぐ結婚したが、夫が一年で事故死したことで未亡人となる。その二年後、ケイシー・ダンヴァース伯爵の妻として迎えられる。

 メイベルの論文のほとんどは、ダンヴァース伯爵と愛妾の間に子どもが生まれてから書かれたものだ。メイベルが研究に没頭したのは夫が愛妾に夢中になったことからの逃避と揶揄されることもあるが、彼女の残した手記やダンヴァース家の者の証言によると、メイベルは夫や愛妾、その子どもらとの関係はすこぶるよかったと言える。むしろダンヴァース伯爵が聡明なメイベルを手放さず、彼女の論文の発表を積極的にサポートしていたようだ。

 女性研究者が少なかった時代、ダンヴァース伯爵のような理解者を得られたメイベルは非常に幸運な女性だったと言えるだろう。

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[良い点] 主人公はアセクシャル(無性愛)かつアロマンティック(無恋愛)ということでいいのかな。 現代では核家族が基本だの当たり前だのって考え方が多いけど、昔は大家族で祖父母〜曽祖父母世代が5〜6人も…
[一言] これは!間違いなくアセクシャルだ!よくわかる!ずっとこういう主人公を見ていたかった!短編で悲しいな。性欲が持たなければ、どうやって男と信任関係が建築してくれるのか、特に結婚社会にいるなら現代…
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