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祐希はこの日、世界の全てに違和感を持った。
まずは、家族に対してだ。会話のテンポが噛み合わなかったのだ。齟齬に首を捻りながら高校へ行くと、一年一組の異様さが、祐希の違和感を決定づけた。クラス一のお調子者は参考書に齧りつき、普段は内気なはずの生徒はグループの中心で開けっぴろげに笑っていて、極めつけに見知らぬ生徒がクラスメイトとして席に着き、代わりに何人かの生徒は教室から痕跡ごと消えていた。唖然としていると遅刻魔の友人、堂島旭が欠伸をしながら現れたので、祐希は救いを求めて駆け寄った。
「あ、旭! 教室が変なんだ」
「変?」
眠そうに首をゆらゆらさせて、旭は切れ長の目を細めた。襟足が長めの黒髪も、怠さへ呼応するように揺れている。室内を一望した旭は、ハッと笑って嘯いた。
「別に普通じゃん。それより祐希、昼飯は学食な。今日はあんかけ炒飯の曜日だ」
「僕の話聞いてるっ?」
祐希は必死に訴えたが、無慈悲なチャイムに遮られた。続々と席に着く生徒達を目で追ううちに、またぞろ元はクラスメイトではないはずの人間を一人見つけ、祐希は頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。間違い探しの絵本の中へ、放り込まれた気分だった。
最早、頼りになるのは己だけだ。そう打ちひしがれた瞬間に――頭が痛み、視界が白く発光した。
*
「今朝、教室で僕は思い出したんだ。正確には、思い出したわけじゃない。だけどあれは『思い出した』という風にしか言えないフラッシュバックだった。……記憶の中で、僕は担任のアイラ先生に恋をしてた」
恋という台詞に尻込みしながら、祐希は正直に告白した。
愛良は、生徒達からアイラ先生と親しみを込めて呼ばれる女性教師だ。几帳面で真面目なタイプで、規範から外れた人間も許せないらしく、何事にもルーズな堂島旭との衝突はクラスの名物となっていた。ひたむきなアイラの姿に、祐希も自然と惹かれていた。
だが、その記憶が現実であるわけがないのだ。
「今ここにいる僕は、アイラ先生に恋をしていない」
初夏の暑さに頭をやられたのかもしれないと、祐希も己の正気を疑ってはみたのだ。しかしどう引っくり返しても、今の祐希の心のどこにも、アイラへの恋心は残滓すら見当たらない。にも関わらず断片的な記憶だけは、厳然と存在を主張している。
「担任がアイラだったのは、〝二番目のセカイ〟の時か」
人差し指を唇に当てて、千比呂は言った。「二番目のセカイ?」と硬い声で訊き返したが、千比呂は祐希を見返すだけだ。促された祐希は、仕方なく主張を続けた。
「アイラ先生の件だけじゃない。僕の周りは異常だらけだ。でも一人だけ、正常に見える生徒がいた」
「それが私?」
「僕を林って呼ぶことを除けばね」
幼馴染の千比呂にだけは、祐希は違和感を持たなかった。この場所での生き方を予め知っているかのような動きからは、どんな矛盾も辻褄合わせも撥ねつける凛々しい力強さが感じられた。
「恥を承知で言うけど、SF映画みたいに時間を巻き戻した君は、過去を改竄した。違う?」
「そう訊かれた時は、形式として訊き返すべきだよね。本気で言ってる?」
「本気だよ」
「根拠は?」
「僕の記憶。思い出せないけど、千比呂は他の人には出来ない特別な〝何か〟をした気がする。……本気だよ。だから千比呂も、本気で話してほしい」
笑っていた千比呂は、不意に真顔になった。橙色を帯び始めた日の光が、幼馴染の頬に薄紫色の影を作る。逢魔が時のような色彩が妖しげで、祐希はぞくりとした。
「理科室に呼んだのは、『時をかける少女』みたいだから? 祐希の推測は面白いけど、少し違うよ。私はただ、世界を創りかえただけ」
「世界を、創りかえる?」
「いいよ。教える。力を見破った祐希は君が初めてだし、多分これがラストチャンスだから」
ラストチャンス? その意味を祐希が問い質すよりも早く――理科室で囲われた世界は、文字通り色を変えていった。