八話 『 想いと思い出と、寂しい気持ち 1 』
何処かで狼人間でも吠えだしそうな満月が中天より西に傾きだした頃、ようやく馬鹿騒ぎを切り上げて宿に戻ったミーナとアグニ。
国営商会が用意した宿は極めて立派な物で、各部屋に風呂が設置されている所だった。個人の住宅でも風呂がある家はまだまだ珍しく贅沢品だというのに、さすがは王都といったところ。
そんな贅沢な一品に湯を張って、「……ふう、湯につかるなんて久しぶりだ」と五分前まで気持ちの良い溜息を吐いていたのはアグニの方。宿に戻って、風呂を見つけて、笑顔になったミーナより先にアグニが風呂に入ったのは、単純に先を譲られたから。アグニは「めずらしい事もあるもんだ」と思いながらもミーナの言葉を素直に受け取り、久々の湯あみに心も傷痕だらけの体も脱力して、淡い暖色系の魔法の光が満たす浴場で閉じた目の上にタオルを乗せて数分、何も考えず湯につかっていた。
それが失敗だと気付いた時には、文字通り時すでに遅し。
「あーーーーぎゅーーーーぬぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
酔っぱらったミーナがタオル片手にバスタブへダイブした後だった。
ドッパァーンッッッ! とバスタブから水柱が上がる。
突然の事にさっきまでの心地よさがすべて吹き飛び、ガボガバッ、と湯を飲み込むアグニ。数秒溺れそうになりつつも数秒が立てばバスタブのお湯も落ち着きをみせ、何が起きたのか把握できるようになる。
であれば、先ずは一言。
「殺す気かオコチャマン」
そこには、半分ほど湯の減ったバスタブに身を浸しながら、アグニの胸に体を寄せる形で頬ずりをしているミーナがいた。
「殺さないよ殺せないよ殺す訳ないよ。アグニはバカだなー。あははははっ」
長い髪を湯に広げながら、細い腕をアグニの背中に回して「馬鹿なアグニで、ばぐにー!」と笑い続ける。完璧な笑顔を張り付けた表情でケラケラと。
アグニは自分の胸にグリグリと押し付けられる顔と笑い声が収まるまでされるがままでいた。湯から出る頭を、肩を、そして浮き島の様に顔を出す白い尻を視界に収めながら、気の抜けた息を鼻から抜く。髪に隠れて所々しか見えない背中には、極力意識を向けない。――何故? ミーナの柔肌を醜く裂く大きな傷があるからだ。約一年の間一緒に居て、詳しい話しを一度もしない大きな傷が。
アグニはミーナの頭に手を置いて聞く。
「酔ってるのか?」
「えっと……ううん、酔ってないよー?」
「そうか。なら、どうした?」
僅かな沈黙が挟まり、二人の視線が絡まる。
「だめ……?」
ミーナは上目づかいで尋ねた。アグニは力を抜く。
「……、好きにしろ」
「にへへー」
完璧な笑顔が張り付くミーナの顔を見下ろし、それから黙って天井を見上げた。
(そりゃ……ここまで十か月、其処には触れてこなかったんだから、当たり前か)
つまりは両親の事。
通りがかりの人間に突然横っ面を引っ叩かれた様な今日の情報は、ここまでの十か月の間にゆっくりと沈静してきたあの日の記憶を強引に引っ張りだして、否応なしにミーナの心をかき乱したのだろうとアグニは思う。
しかも、ゲールーゲの山でミーナと出会った時に、追ってきた暗殺者の言葉を思い返せば、それも仕方ないと考えられた。
『アルマディウス家は裏切った。制裁を加えるのはその為だ』
それは部外者であるアグニが聞いても、幾つかの内容を察せる言葉だ。
例えば、ミーナの両親と暗殺者ないしそれを雇っていた黒幕は、裏切ることの出来るような間柄だったという事。そして、仲違いした程度で暗殺者を差し向けてくるような相手と懇意的繋がりがあったという事は、もしかしたらミーナの両親も世間で言うところの『悪者』だった可能性がある、と。
貴族社会に生まれたはずのミーナの言葉やしぐさ、食事の時の礼儀作法といった所作を見れば、ミーナがどれほど自由に育てられてきたかが分かる。それは、両親が育児にいい加減だったという事ではなく、世間の目に負けずにミーナを愛してきたということの表れだ。
そんな環境、両親の想いを一身に受けてきたミーナが、両親の死の真相に十カ月たった今になって近づいている。〝生きろ〟と言って逃がしてくれた優しい両親の、裏側を見る事になるかもしれない。
それはどう考えたって、怖いはずだ。
(本当に今更、だ。けど、本当に吹っ切れていたなら、帰り際の国営商会でわざわざ質問なんてぶつけてねぇんだよな)
『勅命ってなんですか』と『貴族の家名は知っていますか』
アグニはあの時のミーナの顔を思い出して、湯にのぼせたような溜息を静かに吐いた。
ぴちゃん、と水滴が天井からアグニの鼻先を掠め、ミーナの眼尻に落ちてきた。
それが契機になったのか、ミーナは不意にアグニの体に付いた傷を撫でた。
次回 「 想いと思い出と、寂しい気持ち 2 」