一話 『 ふつう 』
インプの血液は、腐った魚の臓物の臭いがする。
だから森での朝食はなくなったし、だからミーナの頬は膨らんでいるし、だからアグニの表情は冴えていない。
「――ねぇ、アグニ。それ臭いんだけど」
「しょうがねぇだろ。運ばなきゃ売れねぇんだから」
アグニが哭竜の死体を引きずり、ふくれっ面のミーナが鼻を押さえるという格好で森を抜けた二人はいま、草原にただ線を引いたような、舗装されていない街道を歩いていた。
「――ねぇ、アグニ。あたし、蹴り飛ばされたんだけど」
「しょうがねぇだろ。モンスターに襲われたんだから」
視界の先に見えるのは、大きな城の城下町をぐるりと囲む市壁と城壁を兼ねた、山の様に高い壁。トルティーニ大陸の西方の殆どを領地にする国の首都、目的地であるグロウス王都だ。
「――ねぇ、アグニ。すっごいお腹減ったんだけど」
「しょうがねぇだろ。あの臭いの中で飯を食いたかったのか?」
王都であるグロウス城の城下町は大きな港町で、半刻前まで二人が歩いていた森に囲まれている。立地としては、城を真ん中に置いた町が草原にあって、それを中心に西が海、その他が森という具合だ。
「――ねぇ、アグニ。そんなに臭いの、売れるの?」
「しょうがねぇから、香水を使う。あの町なら貴族どもが多いだろうし、そういった嗜好品の店もあるはずだ。だから」
アグニはポケットから金貨を二枚出して、ピピンッとミーナへ弾いた。
「お前は先に行って、香水を買ってこい。金貨でなんて馬鹿みたいな値段だが、通行税も払えば、たぶん釣りで買えるのは麦のパンと濁りの少ない葡萄酒ぐらいだ。その程度だろうが、釣りは小遣いにしてもいい」
言われたミーナは『本当に!』という声が聞こえてきそうな反応を目の中に輝かせた。
「俺は城門の脇、だと臭いで文句言われそうだから少し離れたところで待っ――」
「分かった、すぐに行ってくるっ!」
言葉が終わる前に駆け出して行く少女ミーナ。城門まではまだ少しあったが、それほど臭い場所に居るのが嫌だったのか、すぐにでも小遣いを手にいれたかったのか、それとも手に入る金でパンを食いたかったのか。考えるアグニは少なくないショックを心の奥の方で受けて、やるせない息を吐き出した。
「でも確かに、これは臭ぇよな……」
はあ、ともう一度溜息を吐いて、臭いのきつい三レートルの荷物を引き摺りながら、遠く高い空を見上げるアグニなのだった。
「今日も良い天気だなあ……っと」
†††
この世界は、あまりにも普通だ。
国があり、国を治める王がいて、貴族たちが王から与えられた領地をまた治め、商人や職人、農夫や漁夫という領民がいる。魔力の有る無しから大小様々で、中には、自然界に生息するモンスターを討伐する事で日々の糧を得ている者や、枠にはまらないヤサグレタ連中、それを取り締まる軍隊や自警団というものもあるし、世界の遺跡を巡るトレジャーハンターや、その遺跡を研究する考古学者、一芸を極めた流浪者に、神や悪魔の声を聞くとされる祈祷師魔術師法術士、等々。そんな普通の人々が、普通に生活しているのが、この世界だ。
朝には市が開き、昼には町の工房に活気が出て、夜には母親が子供に寝物語を聞かせる。命の誕生を抱き合って喜び、裏切りを知って唇を噛み切り、最期の時には涙を流す。
この世界には最高の喜びがあり、信じられないほど最低な悲しみもある。
だから、アグニ・セイティフスという、少年というには汚れが付きすぎていて、青年というには青みの無い見た目の若い男が、十年以上も過去に体験したこともまた、普通の事だった。
ただ一つ言えるとすれば、そのときの運が悪かった。
例え、類い稀な魔力量がアグニにはあって幼い時にその魔力を暴走させてしまったとしても――例え、その暴走事故の時に貴族の子にかすり傷程度の怪我を負わせ、その罪で父親が首をはねられたとしても――例え、魔力が強いアグニを産んだ母親が異端審問に掛けられ、魔女として命を落としたとしても。
それが、この世界では普通の事なのだ。誰も悪くない。
貴族の子の親がアグニの父親に罰を与えたのも、そうしなければ領民になめられてしまうからだし、領民になめられた領主やその家族が酷い末路をたどることは、この世界では当たり前に知られる事だ。異端審問を取り仕切る教会も、アグニの魔力量を疎んじる平民から上がる声に否応なくただの女を魔女と認めただけだし、そうしなければ教会という名の権威が落ちてしまう。教会の名が地に落ちれば、地域の風紀が荒廃してしまうのは目に見えているのだ。
だから、誰も悪くない。そんなことは、ただ運が悪かったと割り切るしかない。
獲物に猟銃を向けて引き金を引いたとき、暴発するような確立的な運の悪さ。
この世界は、そういった良いことと悪いことが天秤の皿に乗っているだけの世界だ。
ふとした切っ掛けで、良くも悪くもなる。
けれど、そんな普通に納得できていれば、アグニも父や母の様に殺されていたはずだ。街から迫害を受け、追い出され、どこかで死んで、魔物や獣に喰われていただろう。
けれど、アグニは生きている。
そして、そんな普通に納得できなかったのが、父と母だ。
アグニが貴族の子に怪我を負わせたと知ると頬を打ち、抱き寄せ、涙を流して、たった一言〝逃げなさい〟と言った。自分がどんなことをしてしまったのか、アグニ自身が気付いたときには、アグニの体は父親の知人に連れられて山を越えていた。
ただ、それだけの過去。特別なわけじゃない。条件こそ違うが、この世界でアグニのような不運な子供など、数えきれないほどいる。生まれて言葉を喋り出す前に命を落とす子供の数なんて、誰だって考えたくもない。
その中で運がよかったのは、一年前まで、手を引いて山を越えてくれた父親の知人が面倒を見てくれたことだろう。その知人も今では他界しているが、アグニにとって保護者がいたことは幸運なことだった。いまでは〝喧嘩士〟などと呼ばれるほどには体を鍛えることが出来たし、商人と高貴な人間くらいしか出来ない文字の読み書きも教えてもらえた。
もし、育て親の彼がいなければ、今頃アグニはどうなっていたか分からないのだから。
†††
城壁の際に着いたアグニは、強烈な臭いのする竜の死体を尻の下に敷いて、もうかれこれ三十分はぼうっと昔のことを思い返しながら、さっき道端で摘んだ『氷草』という香りの強いハーブを噛んでいた。
「……って、らしくねぇよな」
郷愁的な感情を気持ちの悪い溜息と一緒に吐き出して、竜の死体に目を向ける。眼窩をぽっかりと開けた竜をペシペシと叩きながら、気分を変える為に話しかけた。
「つーかよ、お前をどっかの商会に売り込めば金貨にして千枚はあるだろうが、どうして欲しい? 俺は、三年くらい前に教会が発行した『紙幣』って物も見てみたいんだ。いまでは国を跨いでもそのまま使えるってンで、流通量も伸びてるし、その方が持ち運びも楽だ。けどやっぱり、金貨かねぇ。つか、千枚の金貨っていうの、いいよな。ずっしりとした重みを味わって、あー金貨で肩がこるー、なんて言ってみた――」
「寂しいねぇ~、ドラゴンの亡骸に話しかけるなんて」
「うわあ!」
悲鳴を上げた拍子にメルトの葉を飲み込んでしまい、ゴホゴホとむせ返るアグニ。
振り返って見れば、香水瓶を手にするミーナがケラケラと笑っていた。
「アグニ慌て過ぎ」
「なんだ、ミーナか。脅かすなよ」
「脅かしてないよ。金貨の重みを想像して変な顔になったアグニを見てはいたけど」
「見てたのかよ」
「アグニの顔を見ちゃいけない法律はないのだよ? 法律があっても見ちゃうけど」
「見るのかよ」
「ふっふー、あたしに見てもらえるだけで感謝するのだな。フィアンセのアグニ君?」
ミーナは胸を張って「エッヘン!」と何故か偉そうだった。
「フィアンセって……、婚約なんてしてねぇだろうに」
「むぅ、アグニはまたそんなことを言うんだ?」
「またと言われても。俺はお前にそういうのを求めてねぇんだ。確かにそういう事をするときもあるが、求めてくるのは全部お前の方からじゃップルギョッサアアァアッ!」
ズドォンッ! と。アグニの横っ面に鉄拳がめり込んだ。
「そ、そそ、それはどの口が言うのか分からないけどあたしばっかり求めてるんじゃないんだからねっ! あたしはそんなんじゃないんだからねーっ!」
半分以上本気の攻撃がアグニの体に突き刺さり、城壁の一部を崩壊させていく。
「ふふー……もう怒ったもんね。そんなこと言うアグニなんてお仕置きだもんねっ!」
耳まで赤くして涙を浮かべるミーナは言葉を終えると、自身の能力である進化式高等魔法――〝銃火器精製魔法〟を発動させた。新緑色という、緑系統の中でも物体生成に特化するアウラが全身から立ち昇っていく。辺りが薄暗くなるのは、壮絶壮大な魔方陣と共に大小様々な銃器が空一面を覆っているからだ。
「ちょ、まっ! そんな魔法を俺に向けるんじゃねぇ!」
「ダメだもんっ! 怒ったんだもん! だからお仕置きするんだもんーっ!」
「ギャー、わかった。俺が悪かったっ! だからもうゆるし――!」
アグニの言葉が言いきられる前に、空に浮かぶ銃は、その撃鉄を振り下ろした。
「反省しなさ――――――――――――いッ!」
『銃華大乱――究極の流星群』
それは、天から火の雨が降り注ぐという聖典的な光景をその場に描き出した。
そして大爆発を引き起こすと、アグニという女性に不誠実な男を焼くのだった。
「うっぎゃ―――――――――――――――――ッ!」
次回 「 ご飯はきちんと食べましょう 」