三話 『 覚悟と決意と、少しの甘え 』
そんな瞳を向けられて、ミーナは気付く。
「……あ」
アグニが、自分に何を思って見つめているのか。なぜ手を貸してくれないのか。
ミーナは俯き、心を決める為にむっと口を引き結ぶ。
(そっか。そう、だよね。これはあたしが……決める事なんだ)
大きく息を吸って、掴むアグニの服の裾を見て、眼を閉じた。
本来ならば。
これは、ヘルズネクトに行く必要なんてない、忘れて然るべき事柄だ。
約一年前に死んだ貴族が自分の両親で、その死の秘密につながるかもしれない何かがヘルズネクトに隠されている。それは昨日のマグティーノの言葉から考えると間違いないことだ。
けれどそれは、別に知らずとも良い事だろう。
だって、十カ月の間でその秘密を知らずに困ったことなど一度もなく、知った所でこれからの旅が楽になる事も無い。自分たちはそれ程の金を手に入れたばかりで、このまま旅を続けるのことが賢い選択であり、世に言う『大人の判断』と言うものだ。
しかも受付の男が言うとおり、ヘルズネクトという谷は危険な魔物が徘徊する場所でもある。それはこの世界に住む人間なら誰もが知っている事実だ。
そんな場所にわざわざ行って、両親が死んだ理由を暴く行為にどんな意味があるのか。まさか、親が生き返って笑ってくれるとでも思っている訳でもないのに。
むしろ、今度はそれが切っ掛けで、両親を殺した暗殺者集団に本格的に狙われる可能性だってあるかもしれない。もしそうなった時、自分は責任が取れるだろうか。自分が狙われれば、今まで一緒に旅をしてきたアグニも狙われるだろう。以前は圧倒的な戦闘力の差で退けることが出来た暗殺者だが、今度もそうなるとは限らない。暗殺の名がつく通り、偶然立ち寄った店のスープに毒が盛られていた、なんて可能性だってあるかもしれない。
なら『ヘルズネクトへ向かう』という判断は、果たして正しいものだろうか。
そもそも、ヘルズネクトへ行くという行動を取ろうとしているのは、自分自身の考えではなく、昨日アグニが国営商会のマグティーノから自分の口下手をフォローする際に出た『不意の言い訳』だったはずだ。
だったら『行く』という答えは、その言葉に流されているだけではないのか?
ミーナは考える。
降りかかる危険を、自分が本当はどうしたいのかを、自分のみならず十か月の間を一緒に旅をしてきたアグニにも危険が及ぶだろう事を、きちんと全部考える。
考えて、考えて、考えた上で――思い出した。
昨夜、アグニが言った『俺は、いつでもお前の隣に居るんだから』という言葉。
だから心が決まる。それは心の弱さかも知れない。
でも、一人でないからこそ、成し遂げられることだってある。
「ありがとう、おじさん」
ミーナはアグニの手を優しく握って受付の男に笑いかけた。
「おじさんの心配は嬉しいです。危ない事には関わらない方が良いいいですよね」
「おお! そうですか。なら代金を受け取って――」
「でもね、おじさん」
「え……?」
ミーナは柔らかく言葉を紡ぎ、しかし断固と言葉を続けて瞳の中の決意を見せつける。
「あたしたちは……ううん、あたしは行かなきゃダメなんです。きっと理由は、他の人から見れば『もう昔の事でしょ』って言われるようなことかもしれないけど……それでも、あたしには大切なことだから。だから、あたしは行かなきゃダメなんです」
確かめる様に。自分を納得させるように。
それは、胸に下がる隠れたネックレスをギュッと握り、ずんぐりとした受付の男をまっすぐ見たうえでの言葉だった。笑みさえ浮かんだ、頑なな拒絶だった。
「だから、ごめんなさい。おじさんの心配を聞き入れる事は出来ません」
そして、強い感情が籠った言葉は、たった数言で相手を納得させてしまえる、あるいは諦めさせてしまえる、不思議な力を持つものだ。女の子であるミーナの真剣さがその瞳に映っていればなおの事、人の心を動かす力を生み出してしまう。
「そう、ですか……」
受付の男は少しのあいだ押し黙り、スンと鼻から息を抜いてから、苦く笑んだ。
「ミーナ様には、商人が商売に命を懸ける様に、他人には分からない何らかの目的が、確固としてあるのでございますね。そしてそれは、私の言葉程度では譲れない物なのでございましょう」
言いながら、ずんぐりとした受付の男は腰をかがめて、カウンターの引き出しから一枚の用紙を取り出すとサラサラと文字を書き始めた。
「ならば、私から言える事は一つしかございません」
用紙に書かれた文言に沿って日付や担当者である自分の名前、ピーター・キューピッグを書き記し、最後に〝契約の印〟が彫られた直径三センチほどの判を用紙の上段は中央に設けられたスペースに押し付けて、アグニの前にするりと滑らせて言う。
「お二人に史上最高の幸運と、至高最強のご武運を」
初めに目につくのは『お預かり仔細書』の一文。
アグニは羽ペンをインク壺から引き抜いて必要事項を書きながら、ミーナには聞こえない様、けれどたった一人に聞こえる様に、言葉を漏らすのだった。
「すまねぇな。助かったよ」
次回 「 露天のせんべいとおっかない場所 」