過去(2)
それからのアデライードとの日々は、夢の中のように幸せだった。子爵家にいたころには考えられない暮らしだ。空腹をごまかすために蹲ることもない。苛立った父に殴られることもない。……死んでいく母さんを一人で見守ることもない。
何よりそこにはアデライードが、アディがいたんだ。アディは一緒に勉強までさせてくれた。閣下に「俺と一緒じゃないと嫌だ」と、珍しくも駄々を捏ねたんだそうだ。「娘の我が侭は初めてだったんだ」と、閣下は後から笑いながら教えてくれた。
シャルトル家に来て数年になると、俺たちは勉強だけではなく、遊びも、食事も、昼寝も、一日のほとんどを一緒に過ごした。二人の間に知らないことなんてなかった。そう、あの日になるまではなかったんだ。
あれは勉強が終わって家庭教師が帰ったあと、他愛ない話をしていた時のことだっただろうか。アディが突然「ねえ、男の子から見ると、私って可愛いのかな?」と言い出したんだ。どうしてそんなことを尋ねるのかと、少しドキドキしてしまったっけ。
俺は照れ隠しで教科書の角を揃ながら、「そんなの、知るかよ」と答えてしまった。本当は世界で一番可愛いと言いたかったのに。するとアディはふうと溜め息を吐いて、「そっか。やっぱり私じゃダメなのかな」、とがっかりしてしまった。「前世でも全然モテなかったものね」とも。
俺はゼンセってなんだと不思議に思いながらも、「どうしたんだ?」とアディの顔を覗き込んだ。
「う……ん。ジェラールになら言ってもいいかな。私ね、婚約が決まったの」
一瞬、世界から色が消えた。
「王太子のフィリップ様よ。とっても素敵で昔から好きだったの。けど、私は悪役令嬢だから、十六になったら断罪されちゃう……。どうすれば好きになってもらえるのかなって……」
俺はアディの声を遠くに聞きながら、そうだったんだとその時実感した。
俺はアディが好きなんだ。婚約者がいると知っただけで、こんなに胸が焦げ付いて、死んでしまいそうになるくらい――。
それでも俺はぐっとその思いを抑えた。アディを困らせたくはなかった。だから、笑顔で「何言っているんだよ」と、小さな頭に手を乗せたんだ。
「じゅうぶん可愛いって! 自信持てよ」
「ほ、本当に……?」
「だって俺と同じ顔だろ? これでブスだって言ったら、俺もブサイクになるし」
「ちょっ……。待ってよ。何よそれっ!」
ぽかぽかと俺を殴るアディの攻撃を、俺は笑いながら教科書で遮った。
「あっ、ジェラール、それずるい!」
「バーカ、戦いに卑怯もクソもあるか!」
アディにはこんなふうにずっと幸せで、ずっと笑っていて欲しかった。例えその隣に並ぶ男が、俺ではない他の誰かでも――。
だから、アディが十二の時に病に倒れて、王家に婚約を破棄されるかもしれない、フィリップに嫌われるかもしれないと、ベッドで顔を覆って泣いていた時にも、迷わずに閣下に身代わりを申し出たんだ。




