過去(1)
この王国の貴族と一言で言っても、家によって天と地ほどの差がある。俺が生まれた子爵家は地の底だった。
昔俺の実の父はギャンブルにはまり、元締めに騙され領地を奪い取られた。奴らからすれば世間知らずのお貴族様など、格好の餌食でしかなかったのだろう。
食うや食わずの生活の中で、母は心労で病死してしまい、後には俺と、父と、借金だけが残された。そして父は借金の返済のために、息子である俺を売り飛ばしたのだ。
売られた先はスラム街の娼館だった。ちょっと見目が良く女顔であったばかりに、男娼に使えると思われたらしい。
――冗談じゃなかった。
そんな運命を受け入れられるはずがなかった。俺はやって来た人買いたちの隙をついて、やつらの馬車から逃げ出した。
走って、走って、走って、どれくらい走っただろうか。俺は息を切らしながら曲がり合角を曲がった。そこへどうにも運が悪いことに、一台の馬車が通り掛かったのだ。
避けようしたけれども間に合わない。馬車は猛スピードでこちらに向かって来る。死を覚悟し目を閉じた次の瞬間――車輪と地面とが強く擦れ、耳をつんざく音が響き渡った。
おそるおそる目を開けると、馬車はほんの少し手前で止まっている。後数秒遅ければ俺はあの世に行っていただろう。
馬車の御者の男は怒り心頭と言った顔だ。怒声を浴びせられるのを覚悟していると、「お願い! ちょっと待って」と、鈴を鳴らすような声が聞こえた。
御者が慌てて馬車から飛び降り扉を開ける。すると中から俺にそっくりな、長い褐色の巻き毛の女の子が現れたのだ。
「ねえ、あなた、大丈夫!? 怪我はない!?」
「えっ……」
俺は女の子が自分にそっくりだったので、返事も忘れてぽかんと口を開けてしまった。
女の子も「そんな」と首を振って口を押える。
「金髪に私と同じ紫の目って……あなた、まさか、攻略対象のジェラール?」
「……? コーリャクタイショー?」
「そうよ、ジェラールだわ。おかしいわね。このイベントはヒロインが出くわすはずなのに」
女の子はぶつぶつと呟きながら、尻餅をつく俺の前にしゃがみ込んだ。
「私の名はアデライード・ドゥ・シャルトル。あなたは私のお父様の遠縁なのよ。だから、顔が良く似ているんだわ」
「シャルトル……。シャルトルって、あのシャルトルか!?」
俺はそんな馬鹿なと目を瞬かせた。シャルトル公爵家は名門中の名門だ。当主の公爵はこの国の宰相にもなる。そんな家と俺の家が親戚だったなんて、今この時になるまで知らなかった。
それ以前にこの子はなぜ俺が誰かを知っている? 俺はまだ一言もどこの誰だとは名乗っていないはずだ。
女の子は、アデライードは首を傾げた。
「あら? その様子じゃあなたは知らないの? シナリオ通りじゃないわね。ねえ、あなたのこれまでってこんな感じじゃなかった?」
彼女の言うしなりおとやらによれば、俺は父に売り飛ばされたのち、身体を売りながら父を、助けてくれなかったシャルトル家を、貴族を恨みながら生きていた。そんな境遇の中でヒロインに出会い、救われ、絶対の愛と忠誠を誓うのだそうだ。
わけがわからなかった。俺はまだ売られたばかりだし、第一ひろいんってなんだよ。
「どういうことなのかしら……? ここでは違う設定になっているの? ううん、でも、いいわ。放っておけないもの」
アデライードはすっと俺に手を差し伸べ、天使だとしか思えない笑顔を見せた。
「ねえ、ジェラール、一緒に来ない?」
「えっ……」
彼女は俺の意志を問うた。シャルトル公爵家の人間なら、命令でも許されてしまうのに――。そんな高位の貴族は初めてだった。当然の高慢さがまったくなかったんだ。
「私、一人っ子なの。もしあなたが来てくれたら、きょうだいができたみたいで、きっと楽しくなるわ」
「あなたがよければだけど」と、最後に少しだけ首を傾げる。
断る選択肢だなんて、あるはずがなかった。




