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シャワーを終えた私はさっきのダイニングルームへと戻る。そこにはさっき洗面台に駆け寄って嘔吐した時に、思いっきり倒した一席の椅子が、元の位置に戻っていた。誰が戻したのかも分からないが、私はまだ乾いていない濡れた髪を、タオルで丁寧に拭きながら、椅子に腰を落ち着かせた。
どうやらこの世界で時間が動いているのは私だけだと思った。現にここから見える向こう側の光景は、見る限りでは全く動いておらず、それにこれから動こうとする様子も見せない。
「これから、いったいどうすればいいのだろう……」
顎に手を置きながら私は無気力に今にも消えてなくなってしまいそうな声で独り言をつぶやいた。
自分がこれからどうすればいいのかを考えてみようか。それともここまでの経緯をもう一度……。いや、それはだめだ。そんなことをしたらまたシャワーを浴びなければいけなくなるし、私の体がもたない。それじゃあいったい何を私はするべきなのだろうか。それにこの空間はや世界は、今の記憶を失ってしまった私に、いったい何を求めているのだろうか……。
ふうっと私は小さく息を吐いた。そんなこと考えても仕方ないことだ。そうも思った。
「溜息をつくと、幸せが逃げていくっていう話、知ってる?」
私はすぐに声がした方を向くと、そこにいたのは人ではなく、カーペットの上でちょこんと姿勢良く座っている、毛並みのきれいな小さな黒猫だった。さっき言葉を話したのは、まさかこの猫なのだろうか。
そう思って猫以外の誰かをきょろきょろと捜しては見るが、この部屋には私と猫以外には誰も居なかった。
「僕だよ。君に話をしているのは僕さっ」
黒猫はそんなことを言いながら私をじっと見て、後ろの尻尾を優雅に振りながら、こちらに歩いてくる。やはり、私に話をしているのは、この猫のようだった。
猫は机の手前まで来ると、ひょいっと上に乗って私の目の前まで来て言う。
「カナン、シャワーは気持ちが良かったかい?」
黒猫は軽く笑いながら私にそう聞いた猫に、私はつい硬直してしまった唇を動かして言う。
「あの服は、もしかしてあなたがやったの……?」
私がそう言うと猫は首を斜めに傾げてとぼけた口調で「さぁ?なんのことか分からないね」と耀様にとぼけた。
「あなたは意地悪なのね……」
「ふふっ、黒猫が人間に忠実なのは魔女の下部だけだよ。それに、そんなことが僕に対する君の質問かい?」
「いや、今、私が知りたいのは自分のことかな?私がどこの誰で何者なのかを……。ねぇ、あなたは私のこと、知ってるの?」
「どうしてそう思うんだい?」
「さっき、私の名前を呼んだから……」
そう私が猫に言うと、猫は軽く鼻で笑った。
「うん。もちろん君のことはよく知ってるよ。でも君のことについて教えてあげるか上げないかは、また別問題かな?ところで君はどう思うんだい?目が覚めたら知らない部屋に、そこから見えた街の風景はどこかおかしい。それにしゃべる猫のことを」
「これは、私の夢の中とか……?」
私がそう言うとまた猫は首を傾げて「さぁ?」ととぼける。その態度にさすがに少しだけ腹が立ったのは事実だ。
「やっぱりあなたは意地悪ね。私に何も教える気、ないじゃない……」
私はそんな猫に、頬を膨らませてむすっとそっぽを向けて言った。
「ごめんごめん。これはさすがに君に対して意地悪過ぎたよ。反省しよう。でもさ、この世界のことだもの、僕にだってわからないことはあるよ。それに物事には必ずしも順序ってものがあるからね」
猫はそう言うと、ひょいと身軽に机の上からフロアに飛び降りて、部屋の出口の方へと歩きだしていく。
「どこ行くの?」
私は立ち上がり猫にそう聞いた。
「カナン。僕に付いて来なよ。僕はこの世界の仕組みなんて知らないけど、僕が君のことについて知っていることなら教えてあげる。それに、これが僕にできる最後のお礼でもあるからね」
「お礼?」
「うん。でもそれはここで話をすることじゃないんだ。さっきも言ったけど物事には必ず、順序ってものがあるから、そのうち分かるよ」
猫はいったん口を噤んだと思うと少しだけ悲しそうな表情で話を続ける。
「もし、君が自分の過去を知りたいというなら、僕に付いて来ればいい。でも、知ったらひどく後悔するかもしれないよ。だからその時は僕を恨まないでね」
猫はそう言い残し、廊下を渡りこの部屋の出入り口である扉の前に立ち、軽快にはねてドアノブを捻って扉を少しだけ開いた。
「待ってよ!」
私は猫の後ろでそう叫ぶが、猫は気にも留めないというように、その開いた扉の隙間から外へ出て行ってしまった。
私はすぐに出口の扉に駆け寄り、ドアノブを捻って開けると、そこは薄気味悪い闇が辺りに広がっていた。視界のすべてが飲み込まれてしまいそうな暗闇。光なんかどこにもなかった。
足はひどくすくんだ。この先に何が待っているのかを知るのが怖くなってきた。それはたぶん私の心の中では知りたいと思っているのだが、体全体が強張っているのだ。手の震えがひどくなってきた。そのたびに思い出すのが、鏡の向こうに見えたカナンの顔だった。
――カナン。私は私のことが知りたいんだ。だからもう少しだけ頑張って。
私はそう自分に言い聞かせて、闇の中へと足を一歩ずつ先へ先へと伸ばして歩きだした。
――この先に何があるのか分からない。でも大丈夫。何も怖くなんかないから……。