夢解け水の流るゝ黎明
プラトニックですが、百合が苦手な方はご注意ください。
1月、
ふと見上げた山の上に、うすい碧が滲んでいた。すぐに橙が顔をだして、あいまいな境界線は空に溶けた。じわりじわりと闇を呑んで、音もなく広がっていく彩り。ほのかにグラデーションがかった暖色は、どんどん色鮮やかに、力強く夜を裂いていって――。
ああ、年が明ける。
十二時を過ぎたって解けなかった魔法が、いまさらのように現実をつきつけた。
ずるいなあ。
期待させるから、こんなにも寂しくなる。
あいまいに滲んで消えてしまうから、はじめから境界なんてなかったように、錯覚してしまう。
ほんとうに、ずるい。心のなかで、つぶやいて。つないだ手のひらを、そっと外して。心を蝕む光から、逃れるように眼を閉じた。夢の時間は終わりを告げて、ゆっくりゆっくり溶けていく。
はた、と足を止めたきみが、すこし怯えたようにふり向くから。どうしようもない寂寥を抱いても、表に出すわけにはいかなくなった。
しがみつくのは情けないな。意地っぱりな私は、涙なんて流せない。――だから、代わりに。
「なんでもないよ。ただ、まぶしいなって、思っただけ」
目一杯に眼を細めて、私を選べない王子様に、ほほ笑んだ。
「あの太陽が昇ったら、初雪は、淡く溶けて消えていくね」
――さよならは言わないと、約束したから。
2月、
ちょうど、一年前のことだ。
いつもの公園で、いつものベンチに座って、本当になにげなく、きみは言った。
「ちょっとだけ、つきあってくれない?」
あんまりにも、さらりと告げられたものだから、私も、なにも考えずにうなずいた。
「いいよ」
凍りつくように冷たいベンチから、早く離れたくて必死だったせいかもしれない。一面の雪景色が、なんだかすこし、うらめしくて。純粋によろこびいさめるほど、若くはないのだと、知った。
「……どこへ?」
なにかがおかしいぞ、と気づいたのは、まぬけな問いを返したあとで。
「浅い夢のなかへ?」
やっぱりなにかがおかしい返答に、私は「なにそれ」と噴きだした。
となりに座るきみは、心外そうにくちびるを尖らせる。
「すこしのあいだだけでいいから、一緒にいてほしいんだ」
「あさきゆめみし?」
「酔いもせず。そう、そんなかんじ」
「わかんないよ」
わが意を得たり、というドヤ顔はすぐに消えて、立ちあがったきみは、真顔でふり向く。
「雪と炎って似てない?」
「はあ」
「とても、綺麗で。惹かれてやまないのに、触れたら傷つくのはわかってるんだ。どうあがいたって、ほんのつかの間しか寄りそえないから」
雪を両手一杯に掬い上げて、きみがいう。
「溶けてなくなる前の、みじかい逢瀬でかまわない」
みるみる色を失くす手のひら。シャーベット状の雪を、きみはグッと握りこんで。指のあいだからこぼれ落ちる雫が、青白い甲を伝って、袖を濡らした。
「ほどよい距離をたもっていれば、お互い傷つかずにいられるって、わかってるけど。それでも、寄りそいたいと、思ったんだ」
だって、せつないくらい、必死な顔するから。
泣きそうな目をして、「ごめんね」と、ふるえた声をして、笑うから。
「……いいよ、溶けるまでだったら、一緒にいてあげる」
もう一度、なにも考えずに、私はうなずいたのだ。
3月、
袴を着こんだ華やかな列のなかで、ぽつりと、ひとり。スーツを着こんだ学生がいる。女学生がまとう、色とりどりの晴れ着が目を引くなかで、たったひとりだけ、鴉羽色のリクルートスーツ。これから社会に飛びたつ若人には、なるほど違和感なく似合ってはいるのだけれど。やはり、異質感は否めない。
でも、きみは、引いたところもなく凛と背筋を伸ばして、誰よりもまっすぐに、先をみつめていた。そんなところを、格好いいと感じたのだったと、ふいに思いだす。
「いってらっしゃい」
一歩、先に巣立つきみへ。
口のなかでエールを送って、先立つ若鳥を、静かにみつめる。桜吹雪の舞うなか、華やぐ空気を悠々とさいて歩みさる卒業生の隊列を、老木の下、ただ、ただ、みつめていた。
左様ならば――あきらめの心を添えた言葉を、きみは嫌いだと言っていた。どうせ離れるさだめならば、諦観よりも再会への祈りを、すごした時への感謝を、交わしたいのだと。
400メートルの桜並木を、ずぅっと向こうまでいって、袴の一団は、ふりかえった。それから、無言のまま、ス――と頭を下げて。もう一度、彼らが前をむいたときには、儀式めいた神聖感は霧散していた。
まるで夢の終わり。在校生が解散する。桜木のもと、最後まで見送りつづけた私をみつけて、泣き笑いのような表情で、きみは、笑んだ。
――それは雪の溶け残った、いつかの春の日。
4月、
「……あ」
チリン、と涼しげなベルを鳴らして、車輪を止めたのはきみの方だった。川のせせらぎに混ざったその音が、なんだか妙に美しく洗練されて聞こえたこと、よく覚えている。
白いタンポポをみつけた。そう言ってうれしそうに笑うから、私も後につづいて、河原に降りた。辺りに充満する、草と、花と、太陽の匂い。きらきらとした水面がまぶしくて、右手でそっと影をつくった。
綺麗なものを素直に綺麗だと思えないのは、自然の美しさに反する、引け目があるからだろうか。そんな殊勝な心、持っていたようには思えないのだけれど。
私の服の袖をひいて、きみが、清流を指さす。
「ねぇ、飛びこんできてよ!」
「やだよ。なんで?」
空気はすこしずつぬかるみつつあるけれど、川の水はまだ冷たくて。着替えもないまま飛びこんだりすれば、大量の水を吸った衣服が、手のひらを返して体温を奪いだすに決まっている。
「だってさ、それで、風邪でもひいたら、きみを独占できるじゃん。正々堂々と囲いこめる」
「馬鹿じゃないの」
「えー」
不満げに草をちぎっていたきみが、ああ、そうか! と突然たちあがって、目を輝かせる。
「きみが飛びこまないなら、代わりに飛びこめばいいんだ。そしたら看病してくれる?」
にっこりと笑って、私の両手をつかむ。そのまま、川にむかって真っしぐらに駆けていこうとするから、あわてて全体重を後ろにかけた。
けれど、川べりの傾斜は、私に味方してくれなくて。
うっかりバランスを崩した拍子に、ふたりそろって川に落ちる。私は、思いっきりうった腰を撫でながら、きみを恨めしげに睨みあげた。
「ほんと馬鹿」
「あはは。ふたりで風邪引いたらどうしようか」
ヘラヘラ笑いつづけるきみがムカついて、私は、きみの顔面めがけて水をかけた。
「つめた!」
「……馬鹿は風邪ひかないんでしょ」
責任とってよ。ボソボソと告げた次の日、ほんとうに学校を休む羽目になるなんて、まさか思っていなかったのだけれど。
5月、
あれは、いつだったろう。片田舎の田園に、みごとなレンゲ畑があると聞きつけて、きみは私を引っぱっていった。いつものように強引に、ひとの都合どころか、話も碌に聞かないで。
その頃には慣れたもので、なんだかんだあきれながら、おとなしく荷物をまとめる自分がいた。はりきって先導する背中を追いかけて、靴を履きかえる。
――けれど、外に出た途端、急に雨が降りだしたんだ。
雨のあぜ道なんて、絶対に歩きたくない。一転して断固拒否した私に、きみは仕方ないねと肩を落として。
鞄に入っていた、ちいさな折りたたみ傘ひとつを広げて、ふたり。窮屈に身を寄せながら、黙々と帰り路を歩いた。骨の先からしたたり落ちた雫が、制服の肩で跳ねる。
体温が伝わるほどに寄りそっても、私の左隣は、いつも冷たい。触れあっても、不思議と熱は生まれない。ため息を吐いて、私よりもずっと拾い範囲を濡らした馬鹿に、傘の傾きを押しかえした。
ちょうど真ん中。あいまいになりつつある境界線を、わざと明確に示すように、柄がゆれる。
「あのさ」
急に口を開いたきみを、ふりあおいで、すぐに視線を正面にもどす。
「……なに、行かないよ」
「レンゲはいいよ」
警戒する私に、くすりと喉をならして笑う気配。
「雨の匂い、きらいなんだ。今日いっても、花の香りなんてわからないから、べつにいい」
「ふぅん」
「代わりにいいもの嗅げたしね」
きみの香りで埋まったから、もういい。心底満足そうに言うきみは、みょうに優しげな眼をしていて。
「……変態くさい」
なんだかムカついたので、水たまりをはねとばして、わざと足を濡らしてやった。
6月、
しんみりした空気は、居心地がわるい。収まりづらいような、微妙にすっきりとはまらない、違和がある。凍える冷たさとはちがって。でも、暖かいとは、言えなくて。ジメジメと、まさに梅雨時という湿った大気こそが、私たちのあいだを繋いでいる。
「……花、好きだね」
神社の境内に、大ぶりの紫陽花をみつけて、きみはそそくさと階段を駆け上っていった。鳥居をくぐって、砂利を散らしながら、一目散に駆けた。並んで歩いていた私のことなんて、見向きもしないで。
「え?」
鮮やかな花――正確にいうと「がく」らしいけれど――を咲かせる紫陽花を、ゆるんだ顔で眺めていたきみが、キョトンとした眼でふりむく。
「ああ、ごめん。つい」
「いいけど」
となりに座りこんで、みごとな一葉を手にとり、撫でてみた。ざらついた感触。プリザーブドフラワーのような死んだハリボテじゃなくて、生気に満ちた葉っぱ特有の瑞々しさが伝わってくる。
わからなくもない。完璧じゃないけど完璧。不完全な生の美しさは、どんなものをも凌駕する。
「やっぱり、花は、生まれたままの姿が美しいね」
目を細めたきみが、うっとりとつぶやく。
「陽の光も、朝露も、群がる羽虫ですら、飾りにして。凛と咲き誇る様は、ただひたすらに美しい。ありのままの姿で完璧なんだ。地に足をついて、明日をみつめる瞳に、惹かれてやまない」
「……なんの話してるの」
「一番好きな花の話、かな」
きみは、もう紫陽花なんて見ていやしなかった。いたずらっぽく眼を輝かせて、ほほ笑む。そのなかに映っているのがなにかなんて、とっくに知っていたけれど。
私は、なにも答えずに、ふいと視線を逸らせて立ちあがる。
「もういくよ」
きみは、くすくすと笑って、了解、と腰をあげた。――紫陽花に嫉妬した、ある初夏の朝のこと。
7月、海が見える夜の民宿で.
8月、夏祭りの最中に人気のいない所で.
9月、食べごろになった果物を狩りながら.
10月、山奥で真っ赤な夕焼けを見ながら.
11月、紅葉が舞い散る遊歩道を歩きながら.
12月、
キラキラと輝くイルミネーションが、目に痛い。町中が華やぐ、恋人たちのためのお祭り騒ぎ。電灯の明かりは、綺麗だけど、どこか無機質で冷たい。
「ありがとう」
白い吐息を泳がせて、きみが笑う。
「きてくれないかと思った」
すこし寂しげに、嬉しげに。そんな表情をされたら、となりに添わずにはいられない。
だけど、きみは、それを知らない。
「……用事もなかったから」
可愛げのないセリフを口にして、そっぽを向く。ショーウィンドウに映る自分の顔は、緩みきらずにぐしゃりとゆがんで。苦みと甘みをほどよくまぜた、ブラックチョコレートのような表情をしていた。
ふふ。と喉を鳴らして、きみは左手を差しだした。私は、なにも言わずに、そっと手を重ねて。雑踏のなかに混ざっていく。おなじ歩幅で、おなじ景色をみる。恋人のいない寂しい友人同士で、いたずらに寄りそっているようなフリをして。
――雪はいつ溶けるの?
幾度も、聞けないまま、呑みこんできた疑問。口を開いて、だけどまた、白い霧だけを吐いて、すぐに閉じる。そんなことをくり返すうちに、すこしずつ熱が消えていく。
きみは、はじめから、選んでいた。永遠よりも刹那を。きみは、はじめから、望んでいた。いつか終わる、つながりを。
だから私は、いつか離さなければならないのだ。彼女の心が溶けて、ゆるやかに流れだす、そのときに。広い海に流れていく、その道すじを、隔ててはならないのだ。
あと、すこし。
きみが決められないのなら、私が決めよう。
年が明けて、昇る朝陽が、白雪に彩りを添えたなら。
私は、わがままな王子様を解放して、代わりに生涯の親友を手にするのだ。いびつな器を棄てて、漏れだせば二度と還ることのない水を、それでも留めおきたいのだと、身勝手に抱えこむのだ。
いつか、すべてこぼれ落ちるときまで。
「――初詣いこうよ。それから、一緒に日の出がみたい」
7〜11月は、ショートカット……
いつ公開できるかわからなくなりそうだったので、ひとまず、このまま投稿いたしました。
※時系列:
2→4→5→6→(7→8→9→10→11)→12→1→3
追記:一月が抜けていました。すみません。




