9 夜明けの涙
鍵を開けて誰もいない家に帰る。むっとした匂いを鼻先に感じながら、玄関の灯りをつけると、水面にぷっかりと浮かんだ金魚の姿が見えた。
死んだんだ……やっと。
遠い夏の日、雪香が夜店ですくった金魚が死んだ。たった一匹だけ残っていた金魚が、とうとう死んだ。
薄暗い和室の灯りを頼りに、真夜中の庭にシャベルで穴を掘る。
僕の手のひらに乗る、金魚のぬるぬるとした感触。それを確かめるように一回だけ左手で撫でてから、僕は金魚を土の中に埋めた。
この金魚は、もう二度と戻らない。
小二の夏にすくった金魚が、生き返らなかったように。同じ日に死んだ母さんが、二度と僕の頭を撫でてくれないように……。
――もう二度と……お兄ちゃんには会わない。
ふと、さっき聞いた雪香の声を思い出す。
「雪香……」
つぶやいた僕の声に、あの女の声が重なった。
「雪香はどこにいるの!」
血相を変えた雪香の母親が、庭に入ってくるなりそう言った。
「ここに来てるんでしょ! 雪香を返してよ!」
「……雪香なんて、いません」
「嘘!」
母親は乱暴に窓を開け、縁側から部屋の中に入り込む。バタバタと二階まで駆け上がり、家中を捜しまわった後、がっくりした様子で外へ出てきた。
「雪香はどこに行っちゃったの?」
憔悴しきったような顔つきで、母親がつぶやく。
「大事に大事に育ててきたのよ。あんなことがあってから、あの子少しおかしかったから……」
僕は真っ暗な庭に立ち、自分のことを壊れていると言った、雪香の顔を思い出す。
「病院でカウンセリングも受けたし、へんな男が寄り付かないように有名な女子校にも入れた。それなのにあの子は、うわ言みたいにいつも同じことを言う」
母親が冷たい視線で僕を見る。
「お兄ちゃんに会いたい……って」
あの夏の日。宿題を教えてと言って、僕の部屋に入ってきた雪香。
雪香の身体を、乱暴に弄んだ僕。
なのに雪香は、四年間ずっと僕のことを想っていた。
――お兄ちゃんに会いに来たんだもの。
いつかの雪香の言葉は、気まぐれなんかじゃなかった。
「だけどあんたたちは……もう会ってはいけなかったのよ」
僕から視線をそらした母親が、疲れたように息を吐く。僕はゆっくりと顔を上げ、次の声を聞く。
「雪香の父親は死んでなんかいない。あの子の父親は生きてるの。だってあんたの父親なんだから」
頭がうまく働かない。胸の奥がざわざわして、額から汗が流れる。
「……嘘だ」
「嘘じゃないわよ。あんたたちは決して一緒にはなれないの。半分だけ血のつながった兄妹なんだから」
真夜中の道を一人で歩く。
雪香と僕は他人じゃなかった。
母が生きていた頃に、父があの女としていたことを想像して、なぜだか笑いたくなる。
汚い。汚い。汚いのはお前たちのほうだ。
そして僕は、純粋で真っ直ぐな雪香の視線を思い出す。
「雪香は……知ってるのか?」
崩れ落ちるように座り込んだ雪香の母親に聞いた。
「知らないわよ。言えるわけないじゃない」
うなだれたままの雪香の母親を残し、僕は庭の外へ出た。
雪香を……雪香を捜さなきゃ……。
生ぬるい空気の中を歩きながら、その想いだけがどんどん膨らむ。
だけど僕には、雪香の行き場所なんてわからなかった。
いつだって雪香は、僕が呼ばなくてもそばに来てくれたから。
遠い夏に、浴衣を着た雪香と歩いた神社に行ってみる。暗闇の中にやぐらが組まれていて、もう夏祭りの時期だということを知る。
僕の家の近くの、雪香とキスをした公園にも行ってみた。甘くてふんわりとした、綿菓子みたいな雪香の唇を思い出す。
他には? 他には? 僕は雪香のことを何も知らない。
やみくもに捜しまわって、最後に雪香の家に行った。真っ暗な部屋に父が一人でいて、雪香はまだ帰ってないと、背中を向けたまま僕に言った。
どこにいるんだよ? 本当に僕に二度と会わないつもりなのか?
一晩中歩き回って、家に戻った頃には夜が明けていた。
僕は誰もいない家に入り、階段をのぼって自分の部屋を開ける。
朝の日差しを浴びた僕のベッドに、雪香が蒼白い顔をして横たわっていた。
「……雪香?」
錆びた鉄のような匂い。シーツについた赤い染み。
亡くなった母の布団が、僕の頭に浮かぶ。
「雪香?」
もう一度声をかけると、雪香が閉じていた目をうっすらと開けた。
「……やっぱりこのくらいじゃ死ねないね?」
僕はだらんとした雪香の手をとり、血の滲んだ手首に口づけた。雪香が僕にしてくれたように。
「あたしが死ねば、二度とお兄ちゃんに会わなくて済むと思って……だからあたし……」
「もういいよ……」
血の気の引いた真っ白な雪香の額に触れ、そっと前髪を梳いてやる。安心したように目を閉じたその唇に、僕は静かにキスをする。
会いたくないなんて思っていない。他の誰かと幸せになれなんて、うわべだけの綺麗ごとだ。
あの夏の日、初めて雪香の身体に触れてから、僕はずっと思っていた。
雪香を自分だけのものにしたいと、僕はずっと思っていた。
「今夜、あの神社で夏祭りがあるんだ。一緒に行こうよ」
「……うん」
「綿菓子買ってやる。金魚すくいもやろう」
「うん」
ゆっくりと目を開いた雪香が僕に笑いかけ、そしてその瞳から涙をこぼした。