8 もう会わない
夏休みだというのに電車に乗って、僕は補習を受けに学校へ行く。
死のうとしている人間が勉強なんかしたって、無意味だってわかっているのに。
冷房のない四階の教室から、梅雨の明けた空が見える。教師の声をぼんやりと聞き流しながら、僕は青い空に浮かぶ、綿菓子みたいな雲をずっと眺めていた。
「結月くん」
チャイムが鳴って教室を出ようとした僕に、誰かが声をかけてきた。振り向くと僕を見ながら、にこにこと微笑んでいる女子生徒がいる。
「結月くん。あたしのことわかる?」
「わからない」
僕は正直にそう答えた。茶色く染めた髪の彼女は、ぷっと吹き出すように笑って僕に言う。
「同じクラスの橘沙映子。一年の時も一緒だったんだけどなぁ」
悪いけど本当に知らないんだ。クラスに誰がいるかなんて、全く興味がなかったから。
「二年になってまた結月くんと同じクラスで、あたしすごく嬉しくて。なのに結月くん全然学校来なくなっちゃったから、ずっと心配してたんだよぉ?」
「それはどうも」
適当に返事をして廊下へ出る。沙映子って子がくすくす笑いながら、僕の後をついてくる。
「結月くんはもちろん大学行くんでしょ? 実は学校来ないで、予備校にでも行って勉強してるんじゃないかって、噂してたんだよ」
大学か……そんなものに興味を持っていた頃も確かにあった。
だけど今の僕にとっては、音楽室から流れる楽器の音も、グラウンドから聞こえる運動部の掛け声も、鞄の中に詰め込んだ教科書もノートも、すべてどうでもいいものだった。
「ねえ、結月くん」
沙映子が僕を追い抜いて、行き先を塞ぐようにして声をかける。
「このあと暇? 一緒にご飯でも食べに行かない?」
顔は可愛らしいけど、馬鹿っぽくて軽い女。なのに僕は立ち止まり、彼女に「いいよ」と答えていた。
この女の匂いが、確実に僕のことを誘っていたから。
学校の近くのファーストフード店でハンバーガーを食べて、沙映子のくだらないおしゃべりを聞く。
「でもあたし、赤点取ってよかったぁ。だって結月くんに会えたから」
こんな僕に会えて嬉しいなんて、この女もどうかしている。
「あたし一年の頃からずっと、結月くんのこといいなって思ってたんだよ?」
沙映子がほんの少し頬を赤らめて、そんなことを言う。
しゃべったこともないのに、僕のどこがいいんだよ? 僕の何を知っているんだよ?
何も知らないくせに……やっぱりこいつは馬鹿な女だ。
「ねぇ、結月くんは彼女いるの?」
「いない」
「好きな子とかは?」
僕はなんとなく雪香のことを思い出す。
雪香の肌に唇を這わせた時の、ため息のような深い吐息を思い出す。
「いないよ。そんなの」
「マジで? あたし立候補しちゃおうかなぁ、なんて」
一人ではしゃいでいる沙映子に合わせて、一緒に笑ってやる。
食べ物と、汗と、香水の入り混じったような匂いの店内で、僕は沙映子の中から漂うその匂いに、たまらなく興奮していた。
ひと気のない公園に誘ってキスをする。
慣れた感じですぐに舌を絡めてきた沙映子を、襲ったって罪にはならないだろう。
「や、やだぁ……それ以上はだめぇ」
太ももに指を這わせ、スカートの中をまさぐろうとする僕の手を沙映子が止める。
「なんで?」
「だって……あたし今日……」
「関係ないよ」
狭いベンチの背もたれに、沙映子の身体を押し付ける。短く声を上げたその唇を、黙らせるためにキスで塞ぐ。
嫌がる足と足の間をこじ開け、僕の指がそこへ届くと、沙映子は耐え切れないように声を漏らした。
感じてるくせに。僕のことが好きなんだろ? 好きな男に触られて、気持ちいいんだろ?
沙映子から唇を離して、ふと顔を上げる。薄暗くなったひっそりとした公園に、こちらをじっと見つめている人影が見えた。
「……雪香?」
そこにいたのは雪香だった。声も立てずに、存在を消すように、ただ黙ってそこにいた。
「雪香……なんで」
雪香が僕から目をそらし、背中を向けて歩き出す。
「ちょっ……誰なの? あの子」
僕の視線に気づいた沙映子が、慌てた様子で服を整えながら聞く。
「妹だよ」
「妹?」
「ごめん。もう帰る」
「ちょっと! 何なの、それ!」
怒鳴りつけるような沙映子の声を背中に、僕は雪香を追いかける。
公園を出て、住宅街を抜け、広い道路で信号待ちしている雪香をつかまえた。
「なんでこんな所にいるんだよ?」
ここは僕の学校の近くだ。家から一時間はかかる。
すると雪香がゆっくりと顔を持ち上げ、僕を見つめて答えた。
「後をつけてきたの」
「え?」
「朝からずっと……お兄ちゃんの後をつけてきたの」
そこまで言うと、雪香がふっと息を吐いて微笑んだ。だけどその笑みはどこか寂しげで儚く見えた。
「お兄ちゃんのためなら、あたし、何でもしてあげるのに」
雪香の声が生ぬるい空気に浮かぶ。
「あたしに言えばいいのに。あんな女じゃなくて……あたしに言えばいいのに」
歩道の上で、雪香の身体が僕にしがみつく。熱を帯びた肌と肌を合わせながら、僕は忘れようとしていた過去を思い出す。
ためらいがちに「お兄ちゃん」と呼んだ、雪香の幼い声を。
浴衣を着て振り返った、雪香のはにかんだ笑顔を。
宿題を持って僕の部屋を覗く、雪香の少し上目使いな視線を。
けれど、あの頃の雪香はもういない。僕が――僕が雪香をこんなふうにしてしまった。
「ごめん……」
そっと身体を離した僕に雪香がつぶやく。
「なんで謝るの?」
「もう……会わない方がいい」
「……どうして?」
これ以上雪香を、壊したくはないから。
黙っている僕の前で信号が変わる。だけど僕も雪香も、時間が止まったように動けない。
やがて雪香が、ぽつりと僕に言った。
「お兄ちゃんがそう言うなら……もう会わない」
顔を上げて雪香を見る。
「もう二度と……お兄ちゃんには会わない」
雪香が僕の前で微笑む。真っ直ぐ僕の目を見つめ、だけど今にも泣き出しそうな表情で。
ごめん――雪香にあんなことをしておいて、今さら虫のいいこと言って……。
だけど僕は、雪香にだけは普通に幸せになってもらいたいんだ。
普通に学校へ行って、普通の家庭で暮らして、普通に好きな人と付き合って……そういう生き方をしてもらいたいんだ。
僕ではない他の誰かと――。
信号がもう一度青になり、雪香がゆっくりと歩き出す。僕はその場に立ったまま、そんな雪香の背中を見送る。
いつまでもいつまでも……その背中が見えなくなるまで。
そして雪香は一度も僕に、振り返ろうとはしなかった。