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7 赤い筋

 制服を着て、朝の駅のホームに立つ。同じような服装に紛れ、騒々しい音と汗臭い匂いに包まれていると、どんどん気分が悪くなる。

 快速電車が風を立てて通り過ぎた。このままここから飛び降りたら、バラバラに砕けて死ぬんだろうな……なんとなくそんなことを考えながら、電車を見送る。

「結月。電車来たぞ」

 父に声をかけられ、背中を押されるようにして、混み合った電車に乗る。

 明日から夏休みだっていうのに、わざわざ一日だけ登校するなんて馬鹿げている。しかも父親同伴で。

 昨日の夜、久しぶりに家に戻ってきた父は、僕を目の前に座らせて長い時間説教をした。

 美月はそれを遠くから眺め、ざまあみろって顔をしていたけど、そんなことはどうでもいい。

 父の言うことはすべてもっともで、それができない僕はやっぱり壊れた人間だ。

 だけど僕は思うのだ。母さんが死んだ途端に昔の女とよりを戻して、平気な顔で再婚した父さんだって、人間的におかしいんじゃないかって。

「とにかく学校には行きなさい。明日父さんも一緒に行くから」

 妹に手を出して、母親を殴り殺そうとしたこんな僕を、たった一人で世間に放り込むのは危険だと感じたのかもしれない。

 僕は父親について学校に行った。長い間登校していなかった僕は、そのまま父と一緒に相談室へ案内され、待っていたスクールカウンセラーと面談させられた。

 たぶん父が、自分の手には負えなくなった息子を、学校で何とかして欲しいと頼み込んだのだろうけど。


 父が帰った一人ぼっちの家の中で、僕は金魚の水槽を眺める。

 西側の窓からオレンジ色の夕陽が差し込み、部屋の中が懐かしい匂いに包まれる。

 金魚はまだ生きていた。鱗に夕陽を浴びながら、生ぬるい水の中を泳いでいる。

 本当にしぶとい奴だな……あきれたように僕は笑うと、自分の部屋に入り、机の引き出しからカッターナイフを取り出した。

 金魚は自分で死ねないけれど、人間は自分で死ねるじゃないか。

 こんな小さなカッター一本で、本当に死ねるとは思っていないけれど。


 カチカチと刃を伸ばして、それを自分の手首に当てる。

 すうっと一本の筋がついて、赤い血が滲んできた。

 そして僕は、雪香とセックスしたあの夜を思い出す。

 自分のことを壊れていると言った雪香は、名前の通り雪のように白く、透き通った肌を僕の前にさらけ出し、そして小さく微笑んだ。

 僕はそんな雪香の肌に、髪に、唇に、キスを落とす。

 ひとつひとつ、雪香の身体のすべてを確認するかのように。

 僕の指先が、雪香の胸のふくらみをゆっくりとなぞる。深い吐息が耳元で聞こえる。

 そのままなめらかな肌の上を滑らせて、湿り気を帯びた部分に指を這わすと、雪香がかすかな声でつぶやいた。

「あたし生理なの」

「知ってる」

「興奮する?」

 僕たちは壊れている。

 僕はその夜、何度も何度も雪香の身体を抱いた。


 洗面所で手を洗う。僕の手首から流れる赤い筋が、排水溝に向かって流れてゆく。

「痛い? 大丈夫?」

 僕の隣で心配そうな顔つきをしている雪香が、可愛くておかしい。

「このくらいじゃ死なないよ」

 黙って僕のことを見上げる雪香。

「それよりまたこんな所に来たら、めんどくさいことになるだろ?」

 雪香はそれには答えずに、濡れた僕の手首をそっと持ち上げ、唇を当てる。雪香の柔らかくて、しっとりとした唇の感触。

「ダメだよ、お兄ちゃん。死んだりしたら」

「だから死なないって。このくらいじゃ」

「一人で死んだらダメ。あたしも一緒じゃないと」

 隣に立つ雪香を見る。ふっとかすかに微笑んで、雪香が言う。

「お兄ちゃんが死ぬときは、あたしも死ぬ」

「冗談だろ?」

「言ったでしょ? あたしも壊れてるって」

 雪香は僕に笑いかけ、洗面所に置いてあったカッターを手に取った。

 僕が自分自身を傷つけた、血の付いたままのカッターだ。

「ねぇ、見て」

 雪香の指が何のためらいもなく動いて、手首に赤い筋がつく。

「興奮する?」

 僕は黙って雪香を見た。

「興奮したなら、あたしのこと抱いて?」

 こいつ……やっぱりおかしい。

 そのまま冷たい床に、雪香の身体を押し倒す。貪るようにキスをして、お互いの体温を確かめ合う。

 ――お兄ちゃん、やっぱり寂しそうな顔してる。

 ああ、そうなのかもしれないな。一人でいるのが寂しくて、誰かのことが恋しくて、こんな温かな肌のぬくもりをずっと探し求めていた――僕も雪香も。

 僕の首に回された雪香の腕からは、母の赤く染まった布団の匂いがした。

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