6 あふれる想い
濁った水の中で、金魚はまだ泳いでいた。
餌もあげていないのに。水も取り替えていないのに。
早く、早く死んでしまえばいい。
そうしたら僕も死ねるから。
朝早い時間に、甲高い女の声で目が覚めた。僕が部屋を出て下に降りると、雪香の母親が蒼白い顔で玄関先に立っていた。
「雪香は? ここにいるの?」
僕に掴みかかるような勢いで、母親が部屋の中を覗き込む。
「雪香なんていませんよ」
「嘘よ! あんたが女の子といるところを、見たって言う人がいるのよ!」
「それ僕の彼女でしょ? 昨日彼女と、公園のベンチでキスしてたから」
母親は、不潔なものでも見るような目つきで僕を見た。
「僕の部屋、確かめてもいいですよ? 彼女、まだ寝てるけど」
「汚らしい子」
僕から顔をそむけて、そう言い放つ母親。
勝手にいやらしいことを想像してればいい。だけどあんたは何にもわかってない。
雪香が今考えていること。雪香がずっと求めていたもの。
それをあんたにわかるわけない。
「あの女と同じね」
雪香の母親がつぶやいた。僕はゆっくりと顔を上げる。
「あんたを産んだ、汚らしいあの女と同じ」
汚らしいあの女って……僕の母さんのこと?
雪香の母親が勝ち誇ったような顔でふっと笑う。
「あんたのお父さんと最初に付き合ってたのは私。それなのにあの女が手を出して来て……病弱だかなんだか知らないけど、それを武器に男を横取りするのって、卑怯じゃないかしら?」
何を言っているのかわからない。そんな話聞いたこともないし、聞きたくもない。
「罰が当たったのよ。自業自得ってやつね」
僕の前で乾いた笑い声が響き、それと同時に布団の中で苦しんでいた僕の母親の姿が浮かんだ。
罰ってなんだよ? 自業自得ってなんだよ?
あんたにも、僕の母さんと同じ苦しみを与えてやろうか?
きゃあっという悲鳴が響く。僕はその女の胸元を右手で掴んで、水槽に頭を叩きつけてやった。
「何するの! やめて!」
水槽の水が波を打つ。金魚が跳ねて水があふれる。
死ねばいい。こんな女、金魚と一緒に死ねばいい。
「お兄ちゃん! もうやめて!」
雪香の声が聞こえて、僕の身体が押さえつけられる。
手を離すと、ぐったりとした目の前の女が、水槽から床へと崩れ落ちた。
「お母さん! お母さん! 大丈夫!」
「雪香……」
母親の震える手が伸び、雪香の身体に触れる。
昨日の夜、僕が何度も何度も抱きしめた、雪香の細い身体に。
「雪香……あなたやっぱりここに……」
「お母さん、あたしね……」
「帰るわよ」
ふらふらと立ち上がった母親が雪香の手を引き、僕に振り返って言う。
「お父さんに全部話します。あんたみたいな恐ろしい子は、もう家族と思いたくないわ」
最初から家族だなんて思ってなかったくせに。
僕のTシャツを着たままの、雪香の背中が遠ざかる。いつものように一瞬だけ振り返って、雪香は僕のことを見る。
雪香の潤んだ瞳に映った僕は、その時どんな顔をしていただろうか。