5 秘め事
小さい頃から勉強が出来た僕は、答えがわからなくて悩んだ経験があまりない。
それなのに今になって、こんな難問にぶち当たるとは……全くの想定外だった。
夕暮れの公園のベンチに一人で座る。子供たちがボール遊びをしながら、僕の前を走り回っている。
空を流れる茜色の雲。僕に触れた雪香の唇。
雪香は……どうして僕にキスなんてしたのだろう。
お兄ちゃんに会いに来たんだもの――どうして? なんで? 何のために?
考えれば考えるほど、雪香の気持ちがさっぱりわからない。
目の前を走っていた女の子が転んだ。膝小僧をすりむいて、半べそになっている。
僕はその子の膝から滲み出る血を、ぼんやりと見ていた。
赤い色と錆びたような匂いが、僕の身体の奥をじわじわと刺激する。
やがてどこからか母親らしき人が駆け寄ってきて、その子の手を引いて行ってしまった。
僕は深く息を吐く。自分で自分の手を、爪痕が残るほど抑えつけていたことに気づき、ふっと力を抜く。
「お兄ちゃん」
ベンチに腰かけたまま、ゆっくりと声の方向に顔を向ける。
「見て。駅前で小さなお祭りやってたの。美味しそうだから買ってきちゃった」
雪香がそう言って笑いかける。夕焼け空の下、制服姿の雪香の手には、真っ白な綿菓子が握られていた。
「懐かしいね。昔二人で、神社の夏祭りに行ったね」
待ち合わせをしたわけでもないのに、雪香はどこからともなく僕の前に現れた。
白いセーラーカラーの制服は、男子の間で清純派と人気がある、あの私学のものだ。
「お姉ちゃんの都合が悪くなって、仕方なくお兄ちゃんが付き合ってくれたんだよね」
僕の前を歩く雪香は紺色の浴衣を着ていたっけ。綿菓子が好きだと言って、一番最初に僕が買ってあげたんだ。
「食べる? おいしいよ」
雪香が僕の前に綿菓子を差し出す。その瞬間、すべてが馬鹿馬鹿しくなって、思わず笑いが漏れた。
「馬鹿だな。お前」
「え?」
「馬鹿だよ。本当に」
考えたってわかるわけがない。こいつは初めから何にも考えてないんだ。
何年も会っていなかった血のつながらない兄に、ちょっと気が向いたから会いに来た。そしてちょっと気が向いたからキスをした。
それだけなんだ。たったそれだけのことなんだ。
雪香の持っている綿菓子を口に含む。人工的な甘さが気持ち悪い。
小さい頃、こんなもののどこが美味しかったのかと不思議に思いながら、僕はその唇で雪香の唇にキスをした。
「甘い?」
この前のお返しだ。雪香はきょとんとした顔をしてから、同じように綿菓子を口にしてから僕にキスする。
柔らかい唇。甘くてとろけるような舌。
その味を確かめるように、お互いの舌と舌を絡ませ合う。
そして僕は、雪香の身体の中から漂う匂いを、はっきりと感じていた。
「お前、生理だろ?」
唇を離して僕は言う。
「なんでわかるの?」
驚いたふうもなく、ただ不思議そうに雪香が聞く。
「わかるんだ。匂いで」
「ふうん……」
「ついでにもっとすごいこと、教えてやろうか?」
雪香が黙って僕を見ている。僕は小さく笑うと、今まで誰にも話していなかった秘密を口にした。
「血の匂いに興奮するんだ。性的な意味で。自分を抑えられないくらいに」
いつからだろう。いつからこんなふうにネジが外れてしまったのだろう。
「女の子に手を出したのは、雪香が初めてじゃない。もう少し前にもあった。未遂だったけど」
夕暮れの誰もいない公園で、遊具から落ちた女の子を見かけた。女の子の額はぱっくり割れて、真っ赤な血が流れていた。
救急車を呼ばなくちゃ……そう思って駆け寄った時、僕は別の意味で興奮していることに気がついた。
女の子を草むらに連れ込んだ。僕は中一で、その子は小三くらいだった。
まだ幼くて、柔らかい肌に触れる。額から流れる血の匂いを嗅ぎながら、スカートの中に手を入れる。
その時女の子が叫び声をあげた。僕は驚いてしりもちをついて、そしてそのまま逃げ出した。
自分で自分がわからなかった。怖くて身体中が震えていた。
本当に怖かったのは僕じゃなくて、その子だったはずなのに。
僕の身体が柔らかいものに包まれる。気づくと雪香に抱きしめられていた。
「お兄ちゃん、あたしとセックスしたい?」
雪香の胸の中でその声を聞く。
「あの日の続き……したい?」
顔を上げて雪香を見た。中学生とは思えないほど穏やかな表情で、雪香が僕のことを見つめている。
「……おかしいよ。お前」
「うん。おかしい」
雪香がふっと微笑んだ。
「あたしもきっと壊れちゃったんだ。あの夏の日に」
だとしたら、壊したのは僕だ。僕が、雪香を壊した。
「してもいいよ? あたし、ずっとそれを待ってたの」
――ずっと、ずっと待ってたの。
蒸し暑い風が、僕たちの間を吹き抜ける。青い草の匂いと、遠くから流れる子供たちの声。
雪香の唇が僕に触れた。
僕たちはそのまま、長い長いキスをした。