4 生クリームの唇
「あーあ、ひどいねぇ。お姉ちゃん、お掃除とかしてくれないの?」
リビングに入るなり、雪香がため息まじりに言う。
僕の家のリビングは散らかり放題だった。最後に掃除をしたのはいつだったか、覚えてもいない。
脱いだ服は脱いだまま、食べたものは食べたまま。着る服がなくなったら近所のコインランドリーに行き、食べるものがなくなったらコンビニに好きなものを買いに行く。
姉の美月だって家事はしない。自分の服は着飾っているくせに、家のことはどうでもいいのだ。
金さえあれば、なんとなく生きてはいける。そんな生き方に、意味があるとは思えないけど。
「ケーキ食べない? お兄ちゃんの好きなモンブラン、買ってきたよ」
テーブルの上の雑誌や空のラーメンカップを端によけ、雪香が小さな白い箱を置いた。雪香と初めて会った日に、雪香の母親が僕に差し出したケーキの箱を思い出す。
「あの人は知らないんだろ? お前がここに来たこと」
リビングの入口に突っ立ったまま僕が聞いた。
あの人とはもちろん雪香の母親だ。僕の住むこの家に雪香が一人で来ることを、あの母親が許すはずはない。
けれど雪香は僕の質問を無視するかのように、黙ってケーキの入った箱を開けた。かすかに甘い匂いが、腐った空気の中に漂い始める。
雪香はじっと中を覗き込んだ後、人差し指でショートケーキのクリームをすくって、それをぺろりと舌で舐めた。
「甘い。おいしいよ? お兄ちゃん」
雪香の細い指先がクリームをすくう。薄桃色の唇から舌を出し、指をしゃぶるようにそれを舐め、僕に向かって笑いかける。
こいつは……何を考えているんだ?
いきなり床に押し倒されて、力づくで自由を奪われて、身体中を舐めまわすようにいじった男のことを、怖いとも憎いとも思わないのだろうか?
「お兄ちゃん」
立ち上がった雪香が僕の前に歩み寄る。思わず握りしめた右手が、汗ばんでいるのはどうしてだろう。
「お兄ちゃん、やっぱり寂しそうな顔してる」
寂しそう? 僕が? まさか。
「初めて会った時と、おんなじ顔してる」
雪香の口元がふわりと緩む。そして大きな瞳で僕を見たまま、その唇を僕の唇に押し当てた。
甘い、甘い、生クリームの匂い。
かすかに感じた味を、もっと深く知りたくなる。
だけど雪香の柔らかな唇は、すぐに僕から離れた。
「誰か来てるの?」
玄関のドアが開き、リビングに足音が近づいてくる。
「雪香?」
向かい合って立っている僕たちを見て、美月は驚いた顔をした。だけどすぐに雪香の腕をつかむと、無理やり自分のほうへ引き寄せた。
「何してるの! こんな男に近寄ったらダメ!」
「お姉ちゃん……」
「大丈夫? 何にもされなかった?」
美月は雪香の身体を上から下まで見下ろした後、僕のことをにらみつける。まるで変質者扱いだ。
「一人で来たの? お母さんは? お姉ちゃんが送ってあげるから、すぐに帰ろう」
美月に背中を押され、しおらしい態度で部屋を出て行く雪香。僕はその場に立ったまま、そんな雪香の姿を見送る。
すると雪香が一瞬だけ振り返り、僕に向かってかすかに口元を動かした。
「またね」――と。