3 再会
ベッドの上に寝転んだまま、読み終わった漫画雑誌を投げ捨てる。
フローリングに落ちる雑誌の音が、真っ昼間の静まり返った部屋の中に響く。
退屈だった。この部屋にある本も漫画も全て読んでしまったし、テレビをつけてもくだらないワイドショーか、暇な主婦が喜びそうな海外ドラマしかやっていない。
しばらくぼんやりした後、僕は起き上がって部屋を出た。
階段を下り、一階にある和室に入り、庭に面した窓を開ける。
蒸し暑い風が入り込み、斜め上から差す眩しすぎる太陽の光に、僕は思わず目を細めた。
畳の上に座り、草の生い茂った狭い庭を一人で眺める。
小さい頃もよく、僕はこうやってここに座っていた。日当たりのよいこの窓辺には、一組の布団が敷かれ、そこに僕の母がいつも蒼白い顔で横たわっていた。
「ごめんね、結月」
つらそうな笑顔で、まだ小学二年生だった僕に母が言う。
「今夜のお祭り、一緒に行く約束してたのにね」
僕は黙ったまま、母の前で首を横に振った。母の具合が悪くなって僕との約束が破られるのは、いつものことだったから。
「お姉ちゃんと一緒に、これで好きなもの買ってきてね」
白い寝間着姿の母が、ゆっくりと起き上がって僕の手をとる。母の手はものすごく冷たくて、僕は幽霊みたいだと思った。
母はそんな僕に笑いかけ、お小遣いを握らせると、その冷たい手で僕の頭を撫でた。ゆっくりとゆっくりと、僕のぬくもりを感じ取ろうとするかのように。
「結月……愛してるわ」
窓辺の風鈴がちりんと鳴る。庭先から生ぬるい風が入り込む。かすかに盆踊りの音が流れてきて、玄関で僕の名前を呼ぶ美月の声がする。
「行ってくる」
僕は母の手から逃げるように、そう言って立ち上がった。母は少し悲しそうな顔で、僕に「行ってらっしゃい」とつぶやいた。
美月と一緒に行った、近所の神社の夏祭りは楽しかった。僕はすっかり母のことなど忘れて、はしゃぎまわった。
綿菓子を食べながらラムネを飲む。盆踊りを踊ってお土産に花火をもらう。金魚すくいをやったら、赤い金魚を一匹だけすくえた。
的屋のおじさんがビニール袋に入れてくれた金魚を、目の高さに掲げて見た。金魚は狭くて生ぬるい水の中を、息苦しそうに泳いでいる。
その時僕はなぜか母のことを思い出し、気づくと美月の腕を引っ張っていた。
「帰ろうよ。お姉ちゃん」
「え、もう?」
不満そうな美月をせかすように神社を出る。得体の知れない何かが、僕の背中を強く押す。
途中でサイレンを鳴らして走る救急車とすれ違った。僕の胸がぎゅっと痛む。
美月と二人で走って家につくと、隣のおばさんが哀れむような顔で僕たちを見た。
「今ね、お母さんが血を吐いて……救急車で運ばれたの」
僕は金魚の袋がぶら下がった糸を握り締めた。隣に立つ美月は真っ青な顔をしている。
おばさんはそんな僕たちを慰めるように、笑顔を作って言う。
「心配しなくて大丈夫よ。お父さんがついて行ったから。帰ってくるまで美月ちゃんたちは、おばさんの家で待ってましょうね」
だけどそれから何日経っても、母は帰ってこなかった。
父は入院した母に付き添って、ほとんど家に戻らない。美月はしくしく泣いてばかりいる。
僕は毎日、金魚鉢に入れた金魚を見ていた。
お母さん、僕金魚をすくったよ。赤い金魚だよ。ねぇ早く家に帰って、僕の金魚を見てよ。
物音一つしない家の中。泣き疲れて、ソファーの上で眠っている美月を横目に、僕は母がいつも寝ていた和室に入った。
その部屋は、母が救急車で運ばれた日のままだった。
赤く染まった母の布団。窓の外では、母が大切に育てていた花が枯れている。
僕はゆっくりとその布団に近寄り、そのまま中にもぐりこんだ。
少しでも、ほんの少しでもいい。母の匂いを感じたかったのだ。
だけどすでに母の匂いは薄れていて、鉄の錆びたような匂いだけが、僕の鼻を覆った。
ごめんなさい。ごめんなさい、お母さん。
あの日、僕は冷たいお母さんの手から逃げようとした。幽霊みたいな手が怖かったんだ。
だけどお母さんは悲しそうな顔をしていた。そんなお母さんを残して僕はお祭りではしゃいでいた。
その頃お母さんは、この布団の中で苦しんでいたのに。血を吐くほど、苦しんでいたのに。
今まで出なかった涙が出てきた。美月に泣き声を聞かれるのが恥ずかしくて、僕は布団に顔を押し付けて泣いた。
次の日の朝、僕の金魚はぷかりと水の上に浮いていた。
――金魚が死んだ。
そしてその日の午後、僕を産んでくれた母も死んでしまった。
ふと玄関から物音が聞こえた。鍵は開けっ放しだから、誰かが入って来たのだろうか。
美月がこの時間に帰るわけはないし、父も母もいないこの家に、訪ねて来る人もめったにいないけれど。
重たい腰を上げて和室を出る。静まり返ったリビングを抜けて玄関に向かう。
水槽の中の金魚がぴしゃりと跳ねた。僕は裸足の足を止めて目を見張る。
水槽の前に立ち、一人の女の子が、じっと金魚を見つめていた。
「もう一匹の金魚は……?」
お嬢さん学校として有名な、私立中学の制服を着たその子が振り返る。
白い肌に映える長い黒髪。真っ直ぐ僕を見つめる強い視線。思わず目をそらしたくなる衝動をぐっとこらえて、僕は答える。
「死んだよ」
「死んじゃったの? 寂しいね」
寂しいもんか。僕にも金魚にも、そんな感情はないのだから。
「何しに来たんだよ?」
すべてを押し殺すような声で僕は聞く。
「何しに来たんだよ、雪香」
僕の声に雪香がほんの少し微笑んだ。
「お兄ちゃん、S高行ってるんでしょ? さすがだね。昔から頭良かったもんね」
こいつ、わざと話をそらしやがって。まさか、あの日のことを忘れたわけじゃないだろうな?
そんなのはありえない。雪香はそんな馬鹿な女じゃなかったはずだ。
「頭いい上にイケメンだしね。女の子にモテるでしょ? お兄ちゃん」
「帰れよ」
僕の声が狭い玄関に響く。四年ぶりに会った妹と僕の距離は、一メートルもない。
「帰れ」
もう一度言った僕の言葉に、雪香が小さく笑って反論した。
「やだ。帰らないよ。だってあたし、お兄ちゃんに会いに来たんだもの」
そう言って僕を見つめる雪香のそばで、金魚が水面で溺れるように跳ねあがった。