表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

2 過去の過ち

「あ……やだぁ、だめ……弟が上にいるの」

「ほっとけよ。ひきこもりの頭がおかしい弟だろ?」

「もう……だめだってばぁ……」

 この家に親がいないのをいいことに、姉の美月は外泊ばかりしているし、時々男を連れ込んでくる。

 口先だけの拒否の言葉なんか、言うだけ無駄だろ? 最初からやることは決まってるんだから。自分だってそのつもりで、男を誘ってきたくせに。

 リビングの声が僕の部屋に丸聞こえだってこと、あの女は知っている。知っててわざとそういうことをするんだ。僕へのあてつけみたいに。

 美月の喘ぎ声が聞こえてきて、僕はiPodのボリュームを上げる。

 ベッドの上に仰向けになり自分の指先を見つめていたら、忘れようとしていたあの日の出来事が、頭にうっすらと浮かんできた。


 父の再婚相手、つまり僕の母親になる人と、その連れ子で二歳年下の妹になる子。二人と初めて会ったのは、僕を産んでくれた母が死んで三度目の夏、僕が五年生の時だった。

「この子、雪香っていうの。美月ちゃんと結月くんの妹になるのよ。よろしくね」

 新しい母親が僕と美月の前で、作り物のような笑顔を浮かべ白い歯を見せる。そしてその隣で、雪香という女の子が、緊張した顔つきで僕たちを見上げていた。

「可愛い! 雪香ちゃん、何年生?」

「……三年生」

「こっちおいでよ。お姉ちゃんと一緒に遊ぼう!」

 美月が年上ぶって、雪香の手を引く。二人が僕の前を横切って、二階へ上がっていく。

 その時見た雪香の横顔は、上機嫌な美月とは対照的に、なんだかものすごく寂しそうに見えた。

「よかったわね、雪香。優しいお姉ちゃんができて」

 母親はほっとしたような表情で二人を見送ると、僕の前でまた笑顔を作り、持っていた小さな箱を「どうぞ」と差し出す。

 僕の母が生きていた頃、よく買ってきてくれた、近所のケーキ屋の箱だった。

「雪香と仲良くしてね? 結月くん」

 その箱を受け取りながら、僕が「はい」と答えると、母親はさらに笑顔でこんなことを言った。

「礼儀正しいのね。結月くんはお勉強もよくできるって、お父さんから聞いてるわ。そんな子のお母さんになれるなんて、すごく嬉しい」

 母親の手がすうっと伸びて、僕の頭に触れる。だけど僕は彼女の口から出る言葉に、チクチクとした棘を感じていて、頭を撫でまわすその手を気持ち悪いと思った。


 僕の思った通り、母親の言動はいつもどことなく、嫌味のように感じられた。

 それに気づかないで、「優しいお母さん」なんて浮かれている美月は、どうしようもない馬鹿だ。

 死んだ母が僕たちと暮らしていたこの家に、新しい母親が浸食してくる。

 じわりじわりと、作り物の笑顔を浮かべながら。

 死んだ人間は忘れなさい。私があなたたちのお母さんよ、とでも言うかのように。

 だけど僕は一言も文句を言うことなく暮らしていた。駄々をこねて拗ねたって、どうにもならないことくらい、わかっていたから。


 生まれる前に父親を亡くし、ずっと母親と二人暮らしだったという雪香は、小柄で色白で目が大きな、けっこう可愛い女の子だった。

 最初の頃、おどおどと不安げだった雪香も、おせっかいな美月と仲良くなるうちに、少しずつ笑顔を見せるようになった。

 雪香と遊ぶのは美月の役目。そして勉強を教えてやるのは、なぜか僕の役目。

 だけど雪香は、僕の言うことを素直に聞いてくれるし、頭がきれて物わかりも良い。裏がありそうな母親と違ってとても純粋だ。

 だから僕は、雪香に勉強を教えてやるのが楽しみになった。雪香も僕のことを「お兄ちゃん」なんて呼ぶようになり、次第に僕になついてきた。

 僕たちは仲の良い兄妹だったのだ。二年後の、あの夏までは。


「お兄ちゃん……」

 ドアの向こうから、僕を呼ぶ声がする。振り返ると宿題のノートを胸に抱えて、雪香が遠慮がちに部屋の中を覗いていた。

「宿題……教えて欲しいの」

 いつものように少し上目づかいで、僕を見る雪香。

 窓辺にぶら下がっているガラスの風鈴が、ちりんと安っぽい音を立てる。

「いいよ。どれ?」

「算数なんだけど」

 キイッと椅子を回転させた僕のもとへ、雪香が近づいてくる。清潔そうな水色のワンピースが、窓から吹き込む風でかすかに揺れる。

 額と額がくっつきそうな距離で五年生の教科書を覗き込むと、雪香のふたつに結んだ長い髪が僕の鼻先をくすぐった。

 ――匂いがする。

 僕が感じたのは、シャンプーの香りでも、石鹸の香りでもない。ましてや美月が最近つけ始めた、香水の香りなんかでもない。

 ――血の匂いだ。

 幼い頃から僕は、人の匂いに敏感だった。それは異常なほどに。

 それぞれの身体の中から漂う、微妙に違う匂いを感じ取りながら、僕は人との距離を決めていた。

 この人は近づいてもいい人。この人は近づかない方がいい人。

 それがある日を境に、ほとんど匂いを感じなくなってしまった。

 ただ一つ、特別な匂いを除いては――。

「お兄ちゃん?」

 雪香が不思議そうな表情で僕を見た。純粋で何の曇りもないその瞳に、僕の薄汚れた顔が映っている。

「ここ。三番目の問題……」

 さりげなく僕から目をそらす雪香の腕をつかみ、その身体を床に押し倒す。

 フローリングの上に仰向けになった雪香は、わけのわからない顔で僕を見ている。

 やがてその顔がみるみるうちに歪んでいって……声を上げそうになった口元を左手で塞いだ。


「何してるの!」

 悲鳴のような声が耳をかすめる。それと同時に、雪香の上に覆いかぶさっていた僕の身体が、強い力で突き飛ばされた。

 ひんやりとしたフローリングから身体を起こすと、雪香を胸に抱きしめた母親が、僕のことを睨み付けていた。

「雪香に……何をしたの?」

 その声を聞きながら、僕はぼんやりと雪香のことを見る。

 震える背中。片方だけほどけた髪。乱れた水色のワンピース。僕の指先にはまだ、雪香の中で一番熱い部分のぬくもりが残っていて、それはうっすらとピンク色に染まっていた。

「恐ろしい子……」

 母親がつぶやき、雪香を抱きかかえるようにして部屋を出て行く。ふわりと揺れるワンピースの裾が、雪香の身体の中から滲み出た血で汚れている。

 その時一瞬だけ雪香が振り返って、僕と目が合った。

 怯えた表情で、だけど真っ直ぐ僕を見つめる雪香の視線は、汗ばんだ肌と赤錆びた鉄のような匂いと一緒に、今でも頭の中にはっきりと残っている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ