2 過去の過ち
「あ……やだぁ、だめ……弟が上にいるの」
「ほっとけよ。ひきこもりの頭がおかしい弟だろ?」
「もう……だめだってばぁ……」
この家に親がいないのをいいことに、姉の美月は外泊ばかりしているし、時々男を連れ込んでくる。
口先だけの拒否の言葉なんか、言うだけ無駄だろ? 最初からやることは決まってるんだから。自分だってそのつもりで、男を誘ってきたくせに。
リビングの声が僕の部屋に丸聞こえだってこと、あの女は知っている。知っててわざとそういうことをするんだ。僕へのあてつけみたいに。
美月の喘ぎ声が聞こえてきて、僕はiPodのボリュームを上げる。
ベッドの上に仰向けになり自分の指先を見つめていたら、忘れようとしていたあの日の出来事が、頭にうっすらと浮かんできた。
父の再婚相手、つまり僕の母親になる人と、その連れ子で二歳年下の妹になる子。二人と初めて会ったのは、僕を産んでくれた母が死んで三度目の夏、僕が五年生の時だった。
「この子、雪香っていうの。美月ちゃんと結月くんの妹になるのよ。よろしくね」
新しい母親が僕と美月の前で、作り物のような笑顔を浮かべ白い歯を見せる。そしてその隣で、雪香という女の子が、緊張した顔つきで僕たちを見上げていた。
「可愛い! 雪香ちゃん、何年生?」
「……三年生」
「こっちおいでよ。お姉ちゃんと一緒に遊ぼう!」
美月が年上ぶって、雪香の手を引く。二人が僕の前を横切って、二階へ上がっていく。
その時見た雪香の横顔は、上機嫌な美月とは対照的に、なんだかものすごく寂しそうに見えた。
「よかったわね、雪香。優しいお姉ちゃんができて」
母親はほっとしたような表情で二人を見送ると、僕の前でまた笑顔を作り、持っていた小さな箱を「どうぞ」と差し出す。
僕の母が生きていた頃、よく買ってきてくれた、近所のケーキ屋の箱だった。
「雪香と仲良くしてね? 結月くん」
その箱を受け取りながら、僕が「はい」と答えると、母親はさらに笑顔でこんなことを言った。
「礼儀正しいのね。結月くんはお勉強もよくできるって、お父さんから聞いてるわ。そんな子のお母さんになれるなんて、すごく嬉しい」
母親の手がすうっと伸びて、僕の頭に触れる。だけど僕は彼女の口から出る言葉に、チクチクとした棘を感じていて、頭を撫でまわすその手を気持ち悪いと思った。
僕の思った通り、母親の言動はいつもどことなく、嫌味のように感じられた。
それに気づかないで、「優しいお母さん」なんて浮かれている美月は、どうしようもない馬鹿だ。
死んだ母が僕たちと暮らしていたこの家に、新しい母親が浸食してくる。
じわりじわりと、作り物の笑顔を浮かべながら。
死んだ人間は忘れなさい。私があなたたちのお母さんよ、とでも言うかのように。
だけど僕は一言も文句を言うことなく暮らしていた。駄々をこねて拗ねたって、どうにもならないことくらい、わかっていたから。
生まれる前に父親を亡くし、ずっと母親と二人暮らしだったという雪香は、小柄で色白で目が大きな、けっこう可愛い女の子だった。
最初の頃、おどおどと不安げだった雪香も、おせっかいな美月と仲良くなるうちに、少しずつ笑顔を見せるようになった。
雪香と遊ぶのは美月の役目。そして勉強を教えてやるのは、なぜか僕の役目。
だけど雪香は、僕の言うことを素直に聞いてくれるし、頭がきれて物わかりも良い。裏がありそうな母親と違ってとても純粋だ。
だから僕は、雪香に勉強を教えてやるのが楽しみになった。雪香も僕のことを「お兄ちゃん」なんて呼ぶようになり、次第に僕になついてきた。
僕たちは仲の良い兄妹だったのだ。二年後の、あの夏までは。
「お兄ちゃん……」
ドアの向こうから、僕を呼ぶ声がする。振り返ると宿題のノートを胸に抱えて、雪香が遠慮がちに部屋の中を覗いていた。
「宿題……教えて欲しいの」
いつものように少し上目づかいで、僕を見る雪香。
窓辺にぶら下がっているガラスの風鈴が、ちりんと安っぽい音を立てる。
「いいよ。どれ?」
「算数なんだけど」
キイッと椅子を回転させた僕のもとへ、雪香が近づいてくる。清潔そうな水色のワンピースが、窓から吹き込む風でかすかに揺れる。
額と額がくっつきそうな距離で五年生の教科書を覗き込むと、雪香のふたつに結んだ長い髪が僕の鼻先をくすぐった。
――匂いがする。
僕が感じたのは、シャンプーの香りでも、石鹸の香りでもない。ましてや美月が最近つけ始めた、香水の香りなんかでもない。
――血の匂いだ。
幼い頃から僕は、人の匂いに敏感だった。それは異常なほどに。
それぞれの身体の中から漂う、微妙に違う匂いを感じ取りながら、僕は人との距離を決めていた。
この人は近づいてもいい人。この人は近づかない方がいい人。
それがある日を境に、ほとんど匂いを感じなくなってしまった。
ただ一つ、特別な匂いを除いては――。
「お兄ちゃん?」
雪香が不思議そうな表情で僕を見た。純粋で何の曇りもないその瞳に、僕の薄汚れた顔が映っている。
「ここ。三番目の問題……」
さりげなく僕から目をそらす雪香の腕をつかみ、その身体を床に押し倒す。
フローリングの上に仰向けになった雪香は、わけのわからない顔で僕を見ている。
やがてその顔がみるみるうちに歪んでいって……声を上げそうになった口元を左手で塞いだ。
「何してるの!」
悲鳴のような声が耳をかすめる。それと同時に、雪香の上に覆いかぶさっていた僕の身体が、強い力で突き飛ばされた。
ひんやりとしたフローリングから身体を起こすと、雪香を胸に抱きしめた母親が、僕のことを睨み付けていた。
「雪香に……何をしたの?」
その声を聞きながら、僕はぼんやりと雪香のことを見る。
震える背中。片方だけほどけた髪。乱れた水色のワンピース。僕の指先にはまだ、雪香の中で一番熱い部分のぬくもりが残っていて、それはうっすらとピンク色に染まっていた。
「恐ろしい子……」
母親がつぶやき、雪香を抱きかかえるようにして部屋を出て行く。ふわりと揺れるワンピースの裾が、雪香の身体の中から滲み出た血で汚れている。
その時一瞬だけ雪香が振り返って、僕と目が合った。
怯えた表情で、だけど真っ直ぐ僕を見つめる雪香の視線は、汗ばんだ肌と赤錆びた鉄のような匂いと一緒に、今でも頭の中にはっきりと残っている。