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10 溺れる金魚たち

 神社から流れる、盆踊りの音に導かれながら、僕と雪香は並んで歩く。

 はしゃいだ小学生が脇を追い越し、浴衣を着た三人組の女の子が僕たちの前を歩いている。

「あたしも……浴衣着たかったな……」

 ひとり言のようにつぶやく雪香。

 雪香は僕が美月の部屋から勝手に借りた、小さな花柄の赤いワンピースを着ていた。そしてその細い手首に巻かれているのは、真っ白な包帯。

「その服もけっこう似合うよ」

「ほんとに? 派手すぎない?」

 そう言いながら、雪香が僕の隣で一回まわった。薄い生地がふわりと揺れる。

 ――金魚みたいだ。

 ひらひらと水の中を泳ぐ赤い金魚。白くて細かい柄は、光る鱗のようだ。

「今度来るときは、絶対浴衣着るからね?」

 僕たちに今度なんてあるのだろうか……そんなことを思いながら、僕は雪香の笑顔を見つめた。


 淡い提灯の灯りが灯った神社に入ると、雪香が一番に綿菓子を買った。

 子供みたいに嬉しそうな顔をして、雪香はそれを一口食べてから僕に差し出す。

「甘いよ?」

 綿菓子に口をつけ、僕は答える。

「うん、甘い」

 雪香が満足そうに微笑んで、人ごみの中を歩き始めた。

 僕はそんな雪香の背中を黙って見つめる。あの日と同じように、僕の一歩前を歩く雪香の背中を。

 その時ふと、雪香の細い身体が、人ごみの中に沈んで消えてしまうような気がして、僕は思わず声をかけた。

「迷子になるぞ」

 雪香が振り向いて僕に笑う。

「もう子供じゃないよ」

 くすくす笑っている雪香の隣に並んで、その手をそっと握る。雪香の手はひんやりと冷たい。いつかの母の手みたいに。

「お兄ちゃん、金魚すくいやろう」

 雪香に手を引かれるようにして、金魚すくいの出店に向かう。

 しゃがみこんで、水面をじっと見つめる雪香。僕もその後ろから、雪香の視線の先を覗き込む。

 赤と黒の小さな金魚が、水の中を泳いでいる。ああ、あの日もこうやって、雪香と一緒に金魚すくいをしたんだ。

 小学五年生だった雪香と中学一年だった僕。金魚すくいなんて子供じみたものに、もう興味はなかったけれど、雪香に誘われて仕方なく付き合った。

 あの日、雪香は一匹すくい僕は一匹もすくえなくて、おじさんは赤い金魚を二匹、ひとつの袋に入れてくれた。

 雪香のすくった金魚と僕がもらった金魚。二匹の金魚は狭い水の中で一緒になって、くっつきあうように泳いでいた。

「下手くそだね? お兄ちゃん」

「うるさいな」

 あの日の短い会話と、雪香の小さな笑い声が、頭の中に浮かんでくる。

「結月!」

 突然後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、美月が人ごみをかき分けこちらに向かってくる。きっと両親にでも頼まれて、僕たちのことを捜しているのだろう。

「雪香、行こう」

 立ち上がった雪香の手をとり、人ごみの中へ逃げる。

「ちょっと結月、待ちなさい! やっぱり雪香も一緒なのね!」

 美月の声が背中に聞こえる。

 嫌だ。待つもんか。汚いのは大人だ。僕たちは何も悪くない。

「結月! あんた自分のしてることわかってんの! あんたのせいなんだからね! こんなふうになっちゃったの、全部あんたのせいなんだからね!」

 うるさい、うるさい。黙れ!

 僕は雪香の手を引いて走る。どこへ行けばいいのか。どこへ逃げればいいのか。

 逃げる場所なんてないって、わかっているのに。


 人ごみを抜け、神社を出て、薄暗い公園で立ち止まる。

 遠くで賑やかな音が響いているだけで、この辺りにひと気はなかった。

「お兄ちゃん」

 ずっと黙ってついてきた雪香が、僕の背中につぶやく。

「金魚……すくえなかったね」

 ゆっくりと振り返ると、雪香が穏やかな顔つきで僕を見ていた。

 あの夏の日。僕に振り返り、金魚の入った袋を目の前に掲げた、雪香の顔を思い出す。

 透明な水の向こうに見えた雪香の澄んだ瞳。あの日と同じ視線で、雪香は今でも僕を見ている。

「お兄ちゃん……泣かないで」

「……泣いてないよ」

 空から冷たいものが落ちてきた。雨だ。一粒一粒降り始めた大きな雫は、やがて突然の夕立となる。

 あっという間に水が染み込む地面。遠くから、悲鳴と歓声の混じり合った声が聞こえてくる。

 雨の中に立つ雪香が小さく微笑んだ。自分の右手で左手に巻かれた包帯をするりとほどく。

 うっすらと血のついた白い包帯が、雪香の腕からぬかるんだ地面に落ちる。

「見て」

 細い腕を夜空に伸ばし、雪香は雨の滴を受けた。まだ治りきっていないその傷口が、じんわりと開き始める。

 雪香の着た、赤いワンピースが濡れていく。黒くて長い髪に水滴が染みこみ、絵の具が滲むように手首に赤い花が咲く。

 僕の前に立つ雪香は綺麗だった。艶やかで妖しげで、そしてものすごく刺激的だった。

「ずっと……好きだったの」

 ゆっくりと腕を下しながら雪香がつぶやく。

「初めて会った時から……ずっと、好きだったの。お兄ちゃんのことが」

 雨音に混じる雪香の声。僕はそっと手を伸ばし、冷えた背中を抱き寄せる。

「あたしのこと、離さないで」

 雪香の両手が僕の背中に回る。

「ずっとずっと……そばにいさせて」

 しがみつく雪香の身体を引き離し、濡れた髪をかき乱すようにキスをする。

 唇をこじ開け、舌と舌を絡ませ合い……深く激しく、息もできないくらいに。

 このまま溺れてしまえばいい。雨の水に溺れて、水面に最後の息を吐きながら、金魚のように死んでしまえばいい。

 そうすれば僕たちは、ずっと一緒にいられる。

「……雪香」

 濡れた唇を離すと、雪香は苦しげに息を吐いた。小さくなっていく雨音の中、僕は雪香の傷口から滴る血の匂いを嗅ぎながら、その腕に口づける。

「いいよ。一緒にいよう」

 祭りの夜はもう終わった。甘くて懐かしい綿菓子の匂いも、胸を躍らせる太鼓の音も、一夜の夢となって消えてゆく。

 雪香の肌を抱いて眠った、あの夜と同じように儚く……。

 僕の前で雪香が微笑んだ。金魚みたいに。雨上がりの夜風に、赤いワンピースを揺らしながら。

「ずっと……一緒にいような」

 金魚が死んだら僕も死のう。

 雪香が静かに目を閉じる。僕は両腕を伸ばし、雪香の濡れた首筋に触れる。僕の手のひらに、死んだ金魚の、ぬるりとした感触が蘇る。

 雪香が最後に僕の名前を呼んだ。

 ――結月……愛してる。

 僕は雪香の細い首に両手を回し、その指先に力を込めた。

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