1 外れたネジ
水槽の中を一匹の金魚が泳いでいる。
ひらひらと赤い尾びれを揺らして、狭い水の中を意味もなく動き回る。
寂しくないのだろうか。前は二匹だったのに。たった一匹になって、寂しくないのだろうか。
そんなことを考えている自分に気づき、馬鹿馬鹿しくて吹き出しそうになる。
金魚が寂しいはずなんてない。そのような感情を、夜店ですくった安物の魚が持っているわけはない。
餌の入った瓶を開け、さらさらと振る。細かくて茶色い粒が舞い落ち、金魚が水面にぱくぱくと口を開く。
まるで水の中でもがいて、溺れているかのように――。
僕はそんな金魚の様子を黙って見ていた。
「そこ、どいてよ」
振り向くと、姉の美月が僕のことを睨んでいた。
念入りに巻かれた髪と、派手な色に塗られた長い爪。胸元の大きく開いた服に、短いスカート。
男に媚を売るような、全身から漂う甘ったるい匂いに吐き気がする。
「あんたさ。学校行かないなら、バイトでもやったらどうなのよ? 一日中家の中にこもってて、うざいったらないわ、ホントに」
「誰にも迷惑かけてないだろ」
こんっとガラスに瓶を当て、水の中に餌をばら撒くと、狭い水槽の中がみるみる茶色く濁っていった。
あたふたしながら餌に食いつく赤い金魚。その姿が滑稽で、僕の口元がふっと緩む。
美月はそんな様子を、気持ち悪いものでも見るような目つきで見ていた。
「結月、あんたやっぱおかしいわ」
水槽の前に立つ僕の身体を押しのけるようにして、美月が玄関に向かいパンプスを履く。
「勉強が出来て、トップクラスの学校に行ったってさ。人間が壊れてたらどうしようもないね」
美月はバッグを肩にかけドアノブに手をかけると、振り返って僕に言った。
「あんたは、ネジが一本外れちゃってるから」
目の前で乱暴に閉まるドア。鼻先に残る甘い匂い。
僕は瓶を振り、中身を全部水槽の中に撒き散らした。
大学生の美月が出かけると、この家は僕一人になる。
数年前、母と妹は、僕から逃げるようにこの家を出て、母の実家に帰ってしまった。
父はそんな二人を説得しながら、しばらく家と実家を行き来していたけれど、やがてこの家には帰ってこなくなった。
きっと今ごろ三人で、家族ごっこでもしているのだろう。
父は残された僕と美月に、十分すぎるほどの金を送ってくれるし、4LDKの家は使い放題。だから僕はこの生活に満足していた。美月がどう思っているのかは知らないけれど。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、そのまま口をつけ一気に飲む。胃の中に流れ込む冷たい感触を確かめながら、空になった牛乳パックをぐしゃりと押しつぶす。
電車で一時間あまりの、文武両道を謳っている有名な進学校へは、もう何か月も行っていない。
あの高校の人間は子供っぽくて馬鹿ばかりだ。
最初のうちはあいつらに合わせて付き合っていたけど、それに疲れて距離を置いたら、僕のことを変人扱いしてきた。
変人なのは承知だから、別にかまわないけど。
僕は美月が言うように、ネジが一本外れている。
きっと幼い頃、どこかに落としてしまったのだろう。人間にとって一番大事な、心のネジを。
玄関に戻って水槽を見ると、濁った水の中で金魚がパクパクと口を動かしていた。
もうすぐこの金魚も死ぬかもしれない。ずいぶん長く生きたからな。
金魚の分際で長生きなんてするもんじゃない。
ただ狭い水槽の中を泳ぐだけの、何の意味もない毎日。そんな毎日を送るくらいなら、早く死んでしまえばいい。
――この僕と同じように。
ゆらゆらと水の中を泳ぐ金魚を見ていたら、この金魚をすくった夏のことを少しだけ思い出した。
盆踊りの音楽が響く中、紺地に朝顔の柄の浴衣を着た妹が、僕の一歩前を歩いている。
提灯の淡い灯りに照らされたその背中は、華奢でまだ幼くて……中学一年だった僕は、歩くたびに揺れる二つに結ばれた髪を、ぼんやりと目で追っていた。
やがて妹が立ち止まり、僕がついてくるのを確かめるように振り返る。そしてほっと小さく息を吐き、金魚が二匹入ったビニール袋を顔の前に掲げ、嬉しそうに僕に微笑みかけた。