桜トレイン
二月後半。その日は珍しく、朗らかな天気だった。
入学式でもない。卒業式でもない。そんな、普通の生徒には何でもない日。俺は、学校を後にした。
HRの始まる五分前のグラウンドは誰もいない。そよ風に身を任せて揺れる芝生が単純で、それが妙に哀しかった。
「おい、知ってるか?」
読書をしていた私に、岸野が聞いてきた。
「桃井の奴、転校したらしいぜ」
一瞬、耳を疑う。どういう事かと尋ねたら、岸野は驚きと同情が混ざった表情を見せた。
「知らなかったのか!
今朝、退学届をもって校長室に入ったのを見た奴がいるんだよ」
そして彼は腕組み、何かを考えるように唸った。
私は、何の反応も出来ないままでいた。
ふいに岸野は屈み込んだ。
彼は苦笑しながら、私の読んでいた本を机の上に置く。私は、自分でも気がつかないうちに本を床に落としていたらしい。
「あいつなに考えてんだろうな。 彼女のお前にも教えなかったなんて………」
次に、彼は慰めの言葉でもかけるつもりだったのだろうか。
しかし、私の思考回路は正常に機能していなかった。
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。
「櫻井?」
私は岸野の話など聞いていなかった。
気がつくと、席を立って歩き出していた。
「おい、どこ行くんだよ」岸野は慌てて呼び止める。
途中、担任の先生にぶつかりそうになった。
それでも私は、足を止めない。
いつもよりずっと早い帰宅道。
学校からから佐久間駅まで十分かかる道のりは、駆け足で五分だった。
別に急いでいた訳じゃない。ただ、一刻も早くここ、思い出のある地から離れたかった。
定期は昨日までで切れていたから、切符を買うことにする。普通のうすいピンク色の切符だった。その時、ボタン近くの点字が目に入った。途端に俺の顔は恐怖でこわばりる。しかし、それを振り払うように首をふった。
通勤ラッシュ時を過ぎたホームは閑散としていた。次の電車が来る時刻を調べる為にダイヤをみたら溜め息が出た。九時代に来るのは十八分のみ。腕時計を確認したところ、あと一時間以上は待たなくてはいけないことがわかった。田舎の駅だから仕方ないとは思うけど……。そう思いながら適当にベンチに探した。一つポツンとあったベンチは年期が入っていて、腰を下ろしたらミシミシと音がなった。
せっかく走ったのに、結局待つ事に変わりはなかった。そして皮肉な事に、ベンチに座ってから視界に入ってきたのは、さっきまで歩いていた通学路だった。
思い出したくないのに、思い出が頭の中に流れ出す。
岸野達と買い食いしながら帰った事。電車に遅れそうでみんなで走った事。運動会や文化祭の帰り道。そして………佐奈と一緒に帰った事。はじめて手をつないだ事。はじめて…………。
嫌でも頭の中をぐるぐる回る。すべての、本当に普通の事が全部、鮮明に思い出せる。
もう、何回ため息をついただろう。もう泣く気力さえない。
そんなけじめがつけれない自分にうんざりして、またため息をついた……その時だった。
遠くから電車の来る音が聞こえた。空耳かと思った。だって、まだ十八分まで時間はたっぷりあるのだから。
しかし、だんだんとその音は近づいてきて、俺が呆気にとられているうちにホームに入ってきた。
それはとても変わった電車だった。
桜色の外見に、全く人影がない車内。 なにより一番の違和感は、止まっているのに一向に車掌が降りてこないことだ。
『各停・瑞大崎』と表示してあった。きっと俺の住む最寄り駅にも着くだろう。
乗ろうか迷っている間に、出発のベルが鳴ってしまった。
俺は乗った。
車内は淡いクリーム色で装飾されていて、入ってくる光を温かく迎えた。
車内に入った分だけ、通学路の風景が近づいてくる。早くここを離れたいと思っても、やっぱり悲しさが残る。本当に最期のつもりで、俺は思い出と向きあうことにした。窓に手を置いて食い入るようにして風景を眺める。改めて見るとなんにもない。自宅のコンクリートに囲まれた塀ぐらいしかない。けれど……すごく懐かしい。
今にでもあの角から、懐かしい誰かが歩いてきそうだ。懐かしい誰………………。
本当に誰かが曲がってきた。その姿にハッと息を飲んだ。
黒く長い髪を真っすぐに伸ばしたのが特徴で、細い体にセーラー服を身に纏った女の子が、辺りをキョロキョロと見ながら走っていた。
紛れもない、佐奈の姿。
佐奈が電車に気づいた。目が合ったような気がした。彼女の口元が動いた。そして……走り出した。
俺の目には、すべてがスローモーションのように映った。
一心不乱に窓を叩いて名前を叫んだ。けど、その時にはもう遅くて、電車はゆっくりと……二人を引き離すように動き出した。
*
『このままでは、失明は免れないでしょうね』
そう医者から宣告されたのは夏休み後半の事だった。
交通事故の後遺症だそうだ。トラックにはねられた俺は、夏休みの間、ずっと入院していた。九月の二学期からは完全復活という形で学校に通ったが、このことは誰にもいわなかった。岸野にも、つるんでる友達にも。勿論、彼女である櫻井佐奈にも。
みんなの前で弱音を吐くのが嫌だった。かっこわるいと思った。
そんな俺のことを両親は心底心配して、なんとかしてくれようと様々な手段を尽くしてくれた。
そして、アメリカで俺みたいなこれから失明を待つ人が通う専門学校を見つけたのだった。
今日の午後、アメリカに旅立つ。何かの運命か、父さんの転勤と重なっていたから、アメリカに住む事は家としては好都合だった。
俺も高三だ。本当は卒業まで待ってあげたかったと両親はいうが、ほぼ奇跡的に編入が許された学校とのこともあって、選択の余地等無い状態だった。だから俺はあえて誰にもいわず、ひっそりと出て行く事を望んだ。
変に同情される事も、心配される事も望まなかった。それに、最期のみんなの顔はいつもと変わらない笑顔のままで覚えておきたかった。
…………なのに。
どうして? なんであそこに佐奈がいたんだ?
自分勝手だとわかっている。けど、君の泣き顔だけは見たくなかった。
もう時間は迫ってきている。引き返す事はできない。
それなのに………もう二度と会えない君は、泣きながら、俺の名前を呼んでいた。
後悔してもしきれない。全てが狂ってしまった。
自分のなかで何かが切れてしまった。気づくと俺は、電車のドアに背をもたれて泣いていた。拭っても拭っても、あふれる涙が止まらなかった。この六ヶ月、影で散々泣いたのに、もう泣きはらしたと思ってたのに……。まだ涙が出てくる事に、腹が立って、悔しくて……あのグラウンドの芝のように単純で、自分の事が情けなかった。
泣き虫な自分も、心が弱い自分もムカついた。
けど、本当に、本心から、心のそこからムカついてるのは、みんなを、佐奈を信用しなかった自分自身の事だった。
本当の事を言えなかった自分の弱さ、勇気のなさだった。
みんなならきっと、佐奈だって、ちゃんと自分の意志を告げたら、笑って見送ってくれたはずなのに……。
怖かった。
もう一度会いたい。
せめて、佐奈の笑顔がみたい。
打ち明けたい。心配してもらいたい。そして……
笑って見送ってもらいたい。
そして俺はしばらく、身動き一つすることなく、息を殺して泣いていた。
*
コツコツと革靴の音がこっちに向かっている音が聞こえた。それで、ここが電車の中だと思い出す。
もし誰かがいたのだとしたら………。だとしたら、すごく恥ずかしい。
涙を拭いて恐る恐る車内をみたが、自分以外の乗客はいないようでホッとした。しかし、人がいなかったわけではない。その革靴の音は深い藍色の制服と帽子をかぶった車掌らしき人のものだった。
その車掌は、しゃがみ込んでいる俺の前で立ち止まった。
そして、微笑んで……実際は逆光でよくわからなかったが、俺にはそう見えた。
やさしい、けどどこか懐かしいような不思議な声で、その人は言った。
「乗車券 拝見します」
「乗車券 拝見します」
そういわれて、俺は制服の胸ポケットに手を入れた。しかし………
探したけどどこにもない。確かにポケットに入れたはずなのに。
慌てて切符を探したが、その時に一瞬、頭に引っかかることがあった。その車掌はまるでわかっていたかのように、さっきとは違う微笑みを浮かべていたのだった。
「……券が無いと、降りてもらうしかないですね」
簡単な意味のはずなのに、その言葉の意味がすぐに理解が出来なかった。
え?と駅員のほうに顔を向けた。
その次の瞬間だった、
男の背中と背後の大木の桜が重なった。
────────突風が吹いた。
気がつくと、俺は駅へと続く踏切の近くに、ぺたんと座り込んでいた。
『あれ、俺、確か電車に……』
考えている暇はなかった。
「桃井君!」
誰かが俺を呼ぶ声がした。声のする方向を見なくてわかった。
一番聞きたい声だったから。
俺は走った。後悔しない為に。
そして、彼女に抱きつこう。
そのあとで、ちゃんと、気持ちを伝えよう……。
後悔しない為に。
電車は行ってしまった。そこには間違いなく桃井君の姿があったのに。
走っても追いつかなかった。無駄だってわかってた。
何で?
なんで教えてくれなかったんだろう
何で?
なんで気づいてあげられなかったんだろう
二学期から、なにか様子が変だってこと、わかってたのに……
ごめん………ごめんね
私、あなたが信用できる人になれなくて
けど……会いたい
あふれる涙が止まらない。拭っても拭っても止まらなかった。
ふと、目の前に一枚の桜の花びらが落ちて来た。
ひらひらとゆれて、手の平を広げたら簡単に捕まえられた。
今までに見た事もないような、切符ぐらいの大きさの、うすいピンクの花びらだった。
────────突風が吹いた。
風が強くて目をつぶった。
その目を開けた時だった。
駅へと続く踏切の先に、会いたいと思った人がいた。
後悔しない為に、名前を呼んだ。
なにがあったのかわからないけど、ちゃんと話を聞いてあげよう。
そして、君のすべてを受け入れよう。
後悔しない為に。