令嬢ではなく、地図師として
大地図会の翌朝、ミレイのもとへ王立地図院の封蝋付きの書状が届いた。
仮認定されたノクタ村について、現地再測量と住民名簿の照合を行う。そのための監査責任者を、正式に任命する――。
書状の末尾には、ミレイ・アウレルの名があった。
昨夜は何度も目を覚ました。空白に銀筆で刻まれた村の名を思い出すたび、胸の奥が熱くなった。けれど朝になっても、これは夢ではなかった。
地図院の中庭へ向かうと、昨日の審査官たちが待っていた。中央に立つ最高監査官が、細長い箱を開く。中には青銅の円盤と、細い銀の針が収められていた。
「これは地図監査官の印です。改訂前後の地図を照合し、現地調査を命じ、記録の不備を差し戻す権限を持ちます」
監査官は円盤をミレイへ差し出した。
「臨時ではありません。王立地図院の正式な職です」
指先が、わずかに震えた。
これまでミレイは、臨時写図師という肩書きを借りて仕事をしていた。伯爵令嬢であることが先に見られ、地図を描く技術はその後ろに隠れていた。婚約者の家と地図院の後援関係を理由に、彼女の仕事を疑う者もいた。
今、手の中にある印は、誰かの婚約者であることを証明しない。
自分が、自分の名前で職務を負うための印だった。
「お受けします」
ミレイは円盤を両手で受け取った。
その場で任命書に署名する。ペン先が紙を滑り、最後の一画を結んだとき、文字の下から小さな音がした。
ミ、レ、イ。
土地ではない自分の名を、地図師として記録する音だった。
中庭を出たところで、見慣れた馬車が止まった。アウレル伯爵家の紋章が側面に描かれている。降りてきた父は、以前より老けて見えた。大地図会で娘が証言する姿を、傍聴席から見ていたらしい。
「地図院から話は聞いた。正式に勤めるそうだな」
「はい。ノクタの再測量を終えた後も、各地の記録を監査します」
「伯爵令嬢が、王立機関の現地仕事を続ける必要があるのか。家に戻れば、相応しい縁談も――」
父の言葉は途中で止まった。カシェルの名を出す必要はなかった。終わった婚約の代わりに、別の婚約を用意すればいい。そう考える人がまだいることを、ミレイは知っている。
「お父さま」
彼女は任命書を胸に抱いたまま、まっすぐ父を見た。
「私は、誰かの婚約者として空いた席を埋めるために生きるつもりはありません。アウレル家の娘であることを捨てる気もありません。でも、私の仕事を家の都合で決めることは、もうしないでください」
父はしばらく黙っていた。やがて、苦い顔で息を吐く。
「お前の母親も、同じ目をしていた」
母の名が出ると、ミレイの胸に柔らかな痛みが広がった。
「お母さまは、地図師だったからです」
「そうだな。私はそれを、最後まで理解できなかった」
父は馬車へ戻りかけ、振り返った。
「せめて、無茶だけはするな。家の名が必要なら使え」
「必要なときは、正式な手続きを通します」
父は少しだけ笑った。寂しそうではあったが、引き止める笑みではなかった。
馬車が去ると、石畳の向こうからローデンが歩いてきた。いつもの濃い外套を着て、片手に封筒を持っている。
「任命されたと聞いた」
「もう、地図院の印を持っています」
ミレイが円盤を見せると、ローデンはそれを一瞥した。
「似合う」
「印がですか」
「持つ人間が」
あまりに自然に言われ、ミレイは返事を失った。ローデンは気にした様子もなく、封筒を差し出す。
「北境領からの正式な依頼書だ。ノクタの再測量と、村の地図を領の公文書へ組み込む作業を、地図監査官として任せたい」
「条件を確認しても?」
「当然だ。報酬、権限、必要な人員、すべて書いた」
ミレイは封を切り、細かな項目へ目を走らせた。測量費は領主家が負担する。判断と記録の最終責任は地図院に置く。村人の証言を採用する手続きも明記されている。ローデンが口を挟まないと言った約束は、書面でも守られていた。
最後の欄に、共同調査責任者としてローデンの署名がある。
「対等な契約ですね」
「そうでなければ、君は受けないだろう」
「ええ。受けません」
ミレイは笑い、依頼書の隣に自分の署名を記した。
令嬢として差し出される手紙なら、何度も受け取ってきた。けれどこれは違う。地図師として求められ、地図師として応じる仕事の約束だ。
「北境へ戻りましょう。ノクタの地図を、仮のまま終わらせないために」
「ああ」
二人は並んで地図院を出た。王都の通りには、昨日までミレイを噂した人々の姿もあった。視線はまだ追ってくる。けれど、もうそれに足を止める理由はない。
彼女の行く先には、測るべき土地があり、聞き取るべき名前がある。
ミレイ・アウレル。
伯爵令嬢という名の前に、地図師としての名を置く。
その最初の一歩を、彼女は自分で選んだ。




