辺境伯が隠していた後悔
母の原簿を箱へ戻したあとも、ローデンは動かなかった。
夕暮れはとうに過ぎ、崩れた測量所の窓から、森の闇がゆっくり室内へ入り込んでいる。トゥーリは村へ知らせを持って先に戻った。残ったのは、卓上の古い原簿と、金属板と、沈黙を挟んで向かい合う二人だけだった。
「俺の父は、イレナ殿の申請を受け取ったあと、再確認を命じた」
ローデンが低い声で言った。
「命令書の日付は、原簿にある受領控えの三日後だ。ノクタの存在を疑ったのではない。登録を確定させるための確認だった」
ミレイは黙って聞いた。彼の言葉が、隠された頁を一枚ずつめくっていくように感じられた。
「俺は当時、父の補佐を始めたばかりだった。父から現地へ行けと言われた」
「では、ローデン様が調査を?」
「いや。行かなかった」
短い答えのあと、ローデンは手袋を外した。いつも剣を握っている右手の指に、古い傷が走っている。
「北の砦で騎獣の群れが襲われた。俺はそちらへ向かうことを選んだ。ノクタへは、父の部下である測量補佐官を派遣した。雪が深くなる前に戻れ、と命じて」
彼は金属板の脇から、折り畳まれた紙を取り出した。何年も胸元にしまわれていたのだろう。端は擦り切れ、封蝋は割れている。
そこには、再確認の命令書と、調査隊の帰還報告があった。
『該当区域に居住地を確認できず。道標もなく、村落の存在は認められない』
報告の末尾には、若いローデンの署名がある。父の命令を執行した者として、報告を受理した署名だった。
「俺は、この報告を見て、調査は終わったと思った。いや、終わらせた。砦の件が片づいたあとも、再確認へ戻ろうとはしなかった」
ミレイの耳の奥で、原簿の音がざらついた。ノクタ。畑。水場。そこに暮らす人々の声が、紙の下から押し返してくる。
「その報告が偽りだったと、いつ知ったのですか」
「三年後だ。王都から届いた新しい地図に、北境第七測量区が空白地として載っていた。父に尋ねたが、すでに病床にいてな。役所へ確認を求めた記録も、俺が見た報告以外には残っていなかった」
ローデンは一度、目を閉じた。
「それでも俺は、報告を書いた者の責任だと思った。自分が現地へ行かなかったことを認めるより、そのほうが楽だった」
「だから、私にも話さなかったのですね」
責めるつもりで言ったわけではない。けれど声は冷たくなった。
「はい。君が母上の仕事を継ごうとしていると知ったとき、俺はこの件を終わらせたいと思った。ノクタを地図へ戻すためでもある。だが同時に、昔の自分の判断から逃げるためでもあった」
「私を雇ったのは、罪滅ぼしのためですか」
「最初は、そうだったかもしれない」
率直な答えに、ミレイの胸が痛んだ。けれどローデンは視線をそらさなかった。
「今は違う。君の力と仕事が必要だから頼んでいる。だが、最初に理由をすべて話さなかったことは、俺の落ち度だ」
風が壁の隙間を鳴らした。ミレイは原簿の表紙へ手を置く。母の署名は、誰かの後悔を慰めるために残されたものではない。事実を確認し、そこに住む人々の権利を守るための署名だ。
「後悔しているなら、私たちだけに告白して終わりにしないでください」
「どうしろと?」
「王都の地図会へ、この命令書と報告書を提出します。ローデン様が現地へ行かなかったことも、報告を受理したことも、隠さずに」
「俺の家の責任を、公の記録にするのか」
「はい。責任を隠したまま村を救えば、また誰かが同じ空白を作れます」
ローデンの眉間に深い皺が寄った。しばらくして、彼は命令書をミレイの前へ押し出した。
「分かった。俺が証人になる。父の判断だけでなく、俺自身の判断も話す」
「それで、免罪されるとは限りません」
「望んでいない。免罪符が欲しいなら、君には頼まない」
その言葉に、ミレイはようやく息を吐いた。痛みのない過去には戻れない。けれど、痛みを記録に変えることはできる。
「では、明日から村の人たちにこの報告を見せます。誰が何を覚えているか、証言を集め直しましょう。ローデン様の記憶も、調査資料の一部です」
「俺の記憶に価値があるのか」
「あります。間違いを含んでいるからこそ、どこで空白が作られたかを示せる」
ローデンは、微かに目を見開いた。やがて、いつもの無愛想な顔へ戻る。
「君は厳しいな、ミレイ」
「地図は、都合のいい部分だけを残せませんから」
彼は小さく息を吐き、命令書を包み直した。その手が、ミレイの手の甲に触れる。すぐに離れたが、謝罪よりも確かな温度が残った。
「君に話してよかった」
「話しただけでは足りません。これから、記録にしてください」
「ああ。君の隣で」
窓の外で、遠く狼の声がした。二人は灯りを掲げ、ノクタへ続く暗い道を歩き出す。
後悔は、消せない印だった。
ならばそれを地図の端に刻み、二度と同じ土地を見落とさないための目印にする。ミレイはそう決めて、ローデンの歩幅に合わせた。




