8 あなたは誰です?
小人に案内されるままに大広間を出た純佳は、ようやく魔王の館内部に意識を向けることができた。
顔を上げれば、黒曜石のような艶を持つ壁と天井が静謐な闇を形作っている。その夜の黒い海に浮かぶのは魔王の瞳を彷彿とさせる黄金の調度品。机も椅子も棚も、すべてが金に統一され、ほのかに灯る間接照明らしきもののもとで柔らかな輝きを放っていた。
天井は高く、どこまでも広がるかのように錯覚させる。空間を彩るのは、時代も国も異なる数々の美術品。壁に掛けられた東洋の掛軸の隣には西洋の古典絵画が並び、繊細な彫刻と異国の陶器が同じ棚に鎮座する。 世界中の名だたる美術館と肩を並べるほど見事だ。すべてが計算された配置でありながら、あたかも時代と文化の狭間に迷い込んだ錯覚を抱かせた。
影絵のような殺風景な外観とは対照的に、内部にはシックな静けさがあった。決して居心地が悪いわけではない。しかし、指一本動かすたびに、空気が金の重みを帯びて絡みついてくる。贅を尽くしたこの館は、美しさと威圧感を同時に孕みながら、訪れる者の心をゆっくりと支配していくようにも思えた。
前を行く小人たちは純佳のことを完全に死神だと認識している。そしてあの魔王もまた、純佳を死神として迎え入れた。死神が姿を頻繁に変えるというのは本当だったのかもしれない。愛想は皆無だったが、彼は疑うことなく「おかえり」と言った。
魔王という単語から連想するに、まさか怒っていて機嫌が悪い、イコール拗ねているとは思わなかったが、そのおかげか、死神への関心も薄かったように思われる。
彼が拗ねていることがラッキーなのか厄介なのか、まだ判断しかねるが、ひとまずのところ初めから偽物だと疑われなかったことは確実にラッキーと断言していいだろう。命を繋ぐことはできた。あとはこの先、いかに疑われずに彼の機嫌を直していくかが問題だ。結構手強そうではあったが。
悶々とした思いを抱えつつ、純佳は心拍が落ち着いていくのを実感する。
洗練された雰囲気をたどたどしく歩きながら、純佳は死神が使っていたという部屋へ迎えられる。
「ヒノメ殿!」
小人は背の高い部屋の扉を開け、中に入ることはなくよく通る声で呼びかける。
「死神様がお戻りになられました。わたくしめはここまで。栄誉ある命をいただき、感謝いたします!」
小人二人はぴょんぴょんと飛び跳ねながら純佳の背を押し、彼女の脚が自発的に動くより先に部屋へ押し入れた。小さな身体からは想像もつかぬほどの力で押され戸惑う純佳をよそに、小人たちは開けたばかりの扉を早々に閉じて駆け足で去って行った。
「──ご苦労」
もう小人にその声は聞こえていないであろう。
小人が呼びかけた相手は、部屋を見渡す純佳を慎重に観察しながら彼らを労った。
「あなたは、死神様ではないですね」
「えっ」
足音もなく純佳の前まで歩み出たのは足首まで伸びた煉瓦色の髪を一束の三つ編みにまとめた麗人だった。星空を織り込んだような袴を身に纏い、手元には扇子を持っている。もしその扇子を開けば彼女の顔が完全に隠れてしまいそうなくらいの小顔が印象的だった。
「あなたは誰です?」
丸く、愛らしいのにどこか涼やかな栗色の瞳に見つめられ純佳は途端に青ざめる。
彼女が誰かは分からない。けれどこれまでで初めて、いやシュモン以来、純佳が死神ではないことを見抜いた。それもたった一目だけで。
「死神様は姿だけでなく髪色もしょっちゅう変えるけれど、青みがかった黒髪は好まない。彼女は黒にだけはこだわりがあるの。真っ黒な──目の前の光すら見えない漆黒を好む」
警戒心に満ちた瞳で純佳の血の気が引いた顔を眺めながら彼女はため息を吐いた。
当の純佳は、もう頭の中が真っ白になって何も考えられなくなっていた。最難関だと思っていた魔王の審査をクリアしたところで油断していたこともある。まさかこんなところで早々に偽物だとバレるとは。
「え……えと……わた、わたしは」
「死神様は、お戻りになりたくないのですね」
「え……?」
「あなたがここにいるということは、それが死神様の御意思ということ」
「えと……あの──?」
「あたしはヒノメ。死神様の側近、いえ、侍女と言った方が分かりやすい?」
「あ、それはどちらでも……」
「そう。あたしは死神様の意向に従うまで。あなたが死神だと名乗るなら、それを受け入れます」
「へっ……?」
淡々と喋るヒノメはこれまた早々に結論に辿り着いていた。美しくも可愛らしい外見とは裏腹に、声は低く、少し掠れている。
「随分と疲労が溜まっている様子。疲れを落とす暇もなかったのでしょう。まずは湯浴みでも如何ですか。お腹も空いているでしょう。湯浴みの間、そちらも用意しておきますゆえ」
「え、ちょ、ちょっと待ってください」
「はい」
「わたしが死神ではないって分かっているのに、どうしてそんなに冷静なんですか? 側近と言うことは、死神はあなたの主のようなものでしょ? その主を、まったくの偽物が名乗っているのに。もっとほら、慌てたり、追放したり、皆に知らせるとか……しないの?」
「なぜその必要が?」
「えっ、だって──」
「聖者たちが召喚に失敗したのであれば、それは死神様の御意思も同然。彼女はまだこちらに帰ってきたくないのでしょう。ならばあたしは、その邪魔をしないようにするのが務め。さぁ、あちらが湯浴み場です。作法は、あなたのいた世界と変わりないですよ」
「えっ、えぇ……?」
「あたしも死神様が帰ってくるのを楽しみにはしていました。でも今は、そんな贅沢も言っていられない状況ですから」
まだ状況の整理がつかない純佳の手を引き、ヒノメは強制的に彼女を湯浴み場へ押し込む。
「温かな湯を浴びれば、少しは気持ちも落ち着くでしょう」
そう言い残し、ヒノメは湯浴み場に純佳を放置して食事の支度へ向かう。
一人取り残された純佳は、高級旅館の温泉のような立派な湯浴み場でしばらくの間ぽつんと佇むことしかできなかった。
どうにか頭を切り替え束の間の温泉を楽しんだ純佳は、いつの間にか用意されていた新しい服をじっと見やる。洋画のプレミア試写会で俳優たちが着ているような非日常的なもので、着るには若干の抵抗があった。でもそれしか着るものもない。渋々着てみるも、やはりお世辞にも似合っているとは言えなかった。
「お召しになりましたか。死神様の服しか用意がないゆえ、寸法に不便があることはご容赦ください」
部屋の中央ではヒノメが長机に豪勢な食事を並べているところだった。和洋中、どれも親しみのある料理がずらりとブッフェのように整列している。
「好みが分からないので、一通りご用意しました。不足があればまだ作れますので、好みを申しつけください」
「いや! もうこれで、充分すぎるほどに充分です!」
「そうですか」
純佳が大袈裟に顔の前で手をブンブンと振るので、ヒノメはぽかんとしながら椅子を引く。
「さぁこちらへ。少しお話でもいたしましょう」
上座に純佳を座らせたヒノメは、向かい合った席に腰を下ろして机の上で指を組んだ。彼女は食事するつもりがないらしい。




