婚約破棄されたので従っただけですが、すでに詰んでいるのはあちら側です〜気づくのが遅すぎます〜
「エレノア・グレイ。——お前との婚約は、ここで破棄する」
その宣告は、満ちていたざわめきを一瞬で切り裂き、夜会の中心に静寂を落とした。
無数の視線が、値踏みするようにこちらへと注がれる。
グレイ家は確かに名門ではあるが、その実態を正確に理解している者は、王城内でもごくわずかだった。
ゆえに——この場にいる大半の者にとって、私は“都合のいい婚約者”に過ぎない。
私はゆっくりと顔を上げ、王太子殿下をまっすぐ見据える。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
静かに問いかけると、殿下は当然だと言わんばかりに顎を上げた。
「私は彼女を愛している。ゆえに、お前との婚約は不要だ」
その隣で微笑む令嬢。
あまりにも分かりやすい構図に、胸が痛むことはなかった。
浮かんだのは、ただ一つ。
——予定通り。
「……承知いたしました」
ゆっくりと頭を下げると、周囲からどよめきが広がる。
泣き崩れることも、取り乱すこともない私の反応に、期待していた“見世物”が裏切られたのだろう。
「……ずいぶんと素直だな」
わずかな苛立ちを滲ませた声に、私はほんの少しだけ微笑んだ。
「ええ。すべて、予定通りですので」
「……何?」
殿下の眉がわずかに寄る。
「——殿下が、それを選ぶことも含めて」
その一言に、空気がわずかに揺らいだ。
だが私は、それ以上何も言わない。
ただ優雅に一礼し、静かにその場を後にした。
扉を抜けた瞬間、張り詰めていた空気がほどける。
「——三日」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
「あと三日で、すべてが終わる」
夜空を見上げながら、私は静かに息を吐いた。
もう、準備はすべて整っている。
⸻
それから三日後。
——表に出始めた“歪み”は、すでに止められない段階に達していた。
王城は、目に見えて狂い始める。
契約は次々に打ち切られ、資金の流れは滞り、長年築かれてきた信用は音を立てて崩れていく。
「……どういうことだ!」
王太子の怒声が、謁見の間に響き渡る。
だが、誰も答えられない。
いや——答えは、すでに目の前にあった。
「……グレイ家との取引が、すべて停止しています」
「なに……?」
報告を受けた瞬間、王太子の顔色が変わる。
「馬鹿な……あれはただの一貴族に過ぎないはずだ」
「いえ……グレイ家は、王国の流通と資金の大半を担っておりました」
空気が凍りつく。
その場にいた誰もが、理解していなかったのだ。
——彼女が、何をしていたのかを。
「……エレノアを呼べ」
絞り出すような声。
「すぐに連れ戻せ!」
命令は即座に下された。
だが。
「お断りいたします」
その返答は、あまりにも簡単だった。
⸻
数日後、王太子は自ら私のもとを訪れていた。
「戻れ」
その声には、すでに余裕はない。
「お前が必要だ……あれは間違いだった」
必死に取り繕うその姿を見つめながら、私は静かに首を横に振る。
「いいえ。間違ってなどいません」
微笑む。
「すべて、予定通りですから」
「……なに?」
理解が追いつかない表情。
「婚約破棄されることも、その後の崩壊も」
一歩、距離を取る。
「すべて、こちらの想定内です」
沈黙。
やがて、彼の中で点と点が繋がる。
「……最初から、か」
「ええ」
迷いなく頷く。
「最初から、すべて終わっていたのは——そちら側です」
彼は、すべてを手にしていた。
——理解しないまま、手放した。
そして今になって、ようやく知る。
それが、何であったのかを。
けれど。
気づいた時には、もう遅い。
私はもう、振り返らない。
——振り返る必要など、最初からなかったのだから。




