第12話 言えなかった言葉
今なら君に手が届く
だから手を伸ばせない
班員たちを見送って扉が閉まると、食堂はふっと静かになった。
さっきまでの笑い声の残り香だけが、まだ天井のあたりに浮いている気がする。
イナクは返ってきた工具箱を壁際に寄せると、そのまま厨房へ向かった。
鍋を出す音、まな板を置く音が、てきぱきと続く。
「イナク、手伝うよ」
ミナが声をかける。
「私も!今日はイナクだって頑張ったのに」
ナルも袖をまくりながら続いた。
イナクは振り向かずに答えた。
「いい。俺がやる」
「でも……」
「もう準備してある、お前らは座ってろ」
追い返すというより気遣っている声だった。
ミナとナルは顔を見合わせて、同時に手伝いを諦める。
「はーい、料理長」
ナルがわざとらしく礼をする。
ミナがくすっと笑って、俺たちは食堂の机に腰を下ろした。
「にしても、うまくいったね」
ナルが両手を広げる。
「こんな事になるなんて…ミナが興奮してたのも分かったよ」
俺はナルが今日頑張っていたのを思い出して、素直に言葉にした。
「ナルの段取りが良かったね」
俺が言うと、ナルは首を振った。
「ソラ君が全部教えてくれて…見つけてくれて……ほんとに、ほんとに、ソラ君のおかげで……わたしは……」
そのやり取りの途中で、ミナが立ち上がって水差しを取りにいった。
戻ってくると、何も言わずに俺の前へ木のコップを置いて注ぐ。
ついでみたいな顔で自分とナルの分も用意して座り直した。
「ナル、 喉、 乾いてそうな声してるよ」
そうミナが付け足すと、ナルは口をつぐむ。
俺も喉が渇いていた、ありがたい。
俺がコップに手を掛けると、ミナの視線が俺の右手で止まった。
「……ソラ、その手」
親指の付け根に、細い切り傷が一本走っていた。今日の作業でやったらしい。
「これくらい、全然…」
言い終わる前に、ミナは立ち上がって棚から小さな陶器の壺を持ってきた。
俺の隣に座って、俺の目を見て言った。
「ちゃんと見せて。じっとして…」
傷薬の匂いがふわっとした。
ミナは指先で丁寧に薄く塗り広げ、最後に布で軽く巻く。
それが終わると、ミナは俺の手にポンと手を置いた。
俺はナルが、なにか冷やかして来るんじゃないかと思ったが、それはなかった。
ナルも、俺を心配そうにみていただけだった。
それからミナは、改めるように姿勢を正してから言った。
「ソラ、ちゃんと話しておきたいことがあるの」
ミナは卓上の帳面を開き、指で数字をなぞる。
「ソラへの依頼で、今日までの報酬は金貨19枚になったの」
一度だけ迷うようにまばたきして、続ける。
「この仕事は、ソラがいなかったら…なくて。それで……報酬の8割をソラの取り分にしたいの」
「残りはギルドで受け取って、みんなへの報酬と、道具の補充に回したいの……ごめん、今日、勝手に皆に報酬を支払っちゃって……全部で金貨1枚の半分位だったんだけど、道具も買ったし、合わせたら金貨4枚位使っちゃって……勝手にだったし…本当はもっと早く話するべきだったんだけど…」
言いながらミナは、申し訳なさそうに俺を見ていた。
8割?ずいぶん俺の取り分が多く感じた。
俺は少し考えてから、はっきり言った。
「俺の取り分も、ギルドで使ってくれ」
ミナの目が困惑するように動く。
「……え? それじゃ…全部じゃない」
ナルも困った顔で身を乗り出した。
「ソラ君、それは……さすがに……」
ミナも、ナルも、困った顔をしていた。
「いいんだ、俺が金を貰っても使い道がないし」
「受け取るのは必要になってからでいいよ」
俺はそう答えた、素直な今の気持ちだった。
ミナは何か言いかけて、それを飲み込んだ。
指先に、わずかに力が入る。
「……わかった。じゃあ、今はギルドで預かるね」
いつもの調子で言ったつもりなのだろう。
けれど声にはどこか、ためらいがあった。
そのとき、厨房の戸が開いた。
イナクが、湯気の立つ皿を両手に持って立っている。
「話は終わったか」
そう言って、机に皿を並べた。
朝のスープ、焼いたパン、そして薄く切った白い果物。
最後に、テーブルの真ん中へ小瓶をひとつ置く。
「冷める前に食え」
「わー、もう限界。お腹すいたー!」
「いただきまーす!」
ミナとナルが同時に声を上げ、さっそく木のスプーンを手に取った。
俺も器を引き寄せる。場の空気が一気にほどけた。
ナルは中央の小瓶を指さした。
「イナク、それなに?」
イナクは口の端を少しだけ上げると、小瓶を手に取った。
ふたを開け、スプーンで中身をすくう。
透明で、ゆっくり糸を引くような粘りのある液体が入っていた。
「食ってみろ」
差し出されたスプーンを、ナルが受け取る。
鼻先に近づけた瞬間、表情がぴたりと止まった。
「……これ、まさか」
そのまま、そっと口に入れる。
次の瞬間、ナルの目からぽろっと涙が落ちた。
ナルはそれをぬぐいもせず、イナクを見た。
「これ……砂糖?」
「砂糖のシロップだ」
イナクは白い布をナルに差し出しながら短く答える。
「これなら少しずつ使える。果物にかけてもいい」
イナクはミナの前に置いた白い果物にシロップをたらした。
それをミナがひとかけ口に入れた途端、酸味の奥に柔らかい甘さが広がる。
思わず、目を丸くした。
「……おいしい」
ナルは小さく息を吸って、イナクに向き直る。
「ありがと」
その一言だけだった。
でも、イナクはそれで十分だという顔をした。
しばらくして、ミナが「あっ」と思い出したように顔を上げる。
「そうだ。砂糖は買えなかったけど、売ってる場所はわかったよ」
イナクとナルが同時にミナを見る。
イナクは珍しく、食い気味に言葉を返した。
「本当か。どこだ」
ミナはすっと立ち上がり、両手を腰に当てる。
「その前に。ナル、イナク。私に隠してること、あるでしょ?」
ナルが目を泳がせる。
「え、えっと……なんのことかなぁ……」
「とぼけてもだめ。昨日の夜、私、見てたんだから」
ナルの肩がびくりと揺れた。
ミナはイナクへ視線を向ける。
「イナク。あなたが砂糖を欲しがるの、ナルのためなんでしょ?」
少しの沈黙のあと、イナクはうなずいた。
「……そうだ」
俺は事情がわからないまま、黙って二人を見た。
ミナはナルの前にしゃがみ込み、まっすぐ目を合わせた。
「ナル。あなたの口から聞かせて。私たち、家族でしょ」
ナルはしばらく唇を噛んだ。
それから、観念したように小さく息を吐く。
「……わたし、小さいころからずっと変だったの」
「お腹が空く、っていうのと違うの。どれだけ食べても、苦しくて……止まらなくて…」
ミナは何も言わず、うなずくだけで促した。
「孤児院にいたころ、イナクがずっとそばにいてくれた」
「食べ物を探してきて、少しでも楽になるものを探して……いろいろ試して」
「あるとき気づいたの。美味しいものを口にすると、少し落ち着くって」
「それでイナクが……料理を覚えてくれた。わたしが苦しまないようにって」
ナルは視線を落としたまま続ける。
「それから……サラさんが孤児院に来て、わたしとイナクを引き取ってくれたの」
「ギルドに来て、サラさんの料理を食べるようになってから……あの苦しさは、嘘みたいに消えちゃって」
「それで、イナクはサラさんに頭を下げて、料理を教わってくれたの」
「だから、サラさんから教わったイナクの料理を食べていれば、大丈夫だって思ってた」
「でも……あの日。 砂糖を食べたら、 また… 戻っちゃったの」
「それで…… 砂糖を口にすると、 治まるってわかって……」
ミナはゆっくりとうなずいた。
「砂糖を口にすると、その苦しさが引く…」
「だから必要なんだね」
ナルとイナクが、同時にうなずく。
そこから四人で、すぐに作戦会議が始まった。
問題はひとつ。砂糖を売る店は、中央区のきれいな店で。
入るにはそれなりの服装が必要らしい。
「じゃあ、まずはきれいな服を手に入れよう」
「どうやって?」
「きれいな服を売ってるお店で買う」
「そのお店に入るには……きれいな服がいると思う……」
「えぇぇ……そんなぁ……」
あっという間に行き詰まる。
そこまで黙っていた俺が、ふいに口を開いた。
「いや、あるよ。きれいな服」
三人が同時に俺を見る。
「え?」
三人の声がきれいに重なる。
「俺が転生したときに着てた背広。この世界の服とは形が違うけど、中央区でも似た服は見かけた」
ミナの顔がぱっと明るくなった。
「それだーーっ!」
勢いよくソラの手を取って、ミナは高く掲げる。
握る手に、力がこもっていた。
「本当にありがとう!ソラ」
「よし! これより、砂糖を買うぞ大作戦を始めます!」
「なにそれー」とナルが笑い、
イナクも鼻で笑っていた。
そんな彼らを見て、力になれることが俺は嬉しかった。
笑い声の混じる食卓で、温かいスープはあっという間に空になっていった。
俺は眠ろうと部屋へ戻ってきた。
夜はもうだいぶ更け、建物はしんと静まり返っていた。
わらのベッドに腰を下ろし、今日のことをぼんやりと思い返す。
すると、扉を小さく叩く音が二回した。
「はい」
返事をすると、扉がゆっくり開く。
立っていたのはミナだった。白い寝巻き姿で、寝帽子はかぶっていない。
少し体のラインが見えるその姿に、俺は反射的に視線をそらして言った。
「どうしたの?」
ミナは扉のところで指を組み、ためらうように言った。
「……入って、いい?」
「え? あ、うん。いいよ」
ミナは静かに入ってきて、扉を閉める。
小さく扉が閉まる音がして、ミナとの距離が急に近くなった気がした。
思わず喉が鳴ってしまう。
「それで、どうしたの?」
ミナはうつむいたまま、少し間を置いた。
「ね、ソラ」
「うん」
「隣……座ってもいい?」
「え……あ、いいけど」
ミナはそっと俺の隣に腰を下ろした。
肩が触れそうな距離だ。甘い匂いがふわりと届く。
胸の奥で、鼓動がやけに大きくなった。
「ほんとにどうしたの?」
「ううん。なんでもない」
小さな声でそう言って、ミナは俺の左腕に身を寄せてきた。
服越しに体温がじわっと移って、柔らかい感触が肘のあたりに触れる。
頭の中が一瞬で真っ白になる。
なにが起きてる?
これって、そういうことなのか?
ミナが、ささやくように言う。
「一緒にいちゃ……だめ?」
胸の奥で、浮ついた期待が、一気にふくらんだ。
俺の頭はもう、冷静じゃなかった。
「ど、どうして急に……」
声がうまく出ない。
ミナは目を伏せたまま、かすれるような声で聞いてきた。
「急じゃ……だめ? 私じゃ、いや?」
俺は思わずミナの肩に手を置いた。
そのまま言いかける。
「ち、違う。俺は君のこと――」
俺はミナの顔を見て、そこで息が止まった。
頭を殴られたみたいに熱が引き、出しかけた言葉が、喉の奥で砕けて消えた。
ミナの瞳にあふれた涙は、明らかに喜びで揺れるものじゃなかった。
受け入れるしかない……そんな諦めの色をしていた。
体は細かく震え、やがて糸が切れたように力が抜けた。抵抗はなく、彼女は自分のすべてを俺に預けるみたいだった。
違う。
これは、俺が思ったようなものじゃない。
俺は声を絞り出した。
「……どうしたの、ミナ」
「なんでもない」
「なんでもないはずないだろ。お願いだから、本当のことを言って」
長い沈黙のあと、ミナは唇をきゅっと噛んだ。
何度か息を継いでから、震える声を押し出した。
「だって……」
ミナの声は細く、震えていた。
「だって……ソラがいてくれないと……」
「…… ソラがずっといてくれないと……ナルが…………みんな不幸になっちゃう……」
俺の背中に、冷たいものが走る。
ようやく、腑に落ちた。
ミナは恐れている、俺を失うことじゃない。
俺のスキルがなくなることをだ。
金を稼げる方法が途切れたら、全部が崩れてしまう。
ナルの砂糖だって……買う金がなくなったら、彼女はどうなるんだろう。
だからミナは、俺を繋ぎ止めるために。
自分の身体を、俺に差し出そうとしている。
……きっと…………
俺の気持ちを…分かったうえで。
俺は、そっと、ミナの肩から手を離した。
「私じゃ……だめなんだ……」
「違う。違うよ、ミナ」
「俺は……」
駄目だ、いまのミナには言えない、言いたくない。
今、俺の気持ちを伝えれば、彼女は必ず受け入れてくれるだろう。
でも……それは…………違うんだ。
俺は……そんなのは嫌だ。
改めて言い直した。
「俺は、君に幸せになってほしいんだ。だから……」
その続きを、口に出すことを躊躇した。
……認めたくなかった。
でも、彼女の目と涙は、俺に全てを語っていた。
「だから……”好きでもない男”と寝るなんて……そんなこと、してほしくない」
ミナは立ち上がり、扉へ向かった。
振り返らないまま、小さく言う。
「……ごめん」
扉が静かに閉まる。
しばらく茫然として、俺はぽつりとつぶやく。
「…は…ミナのことが……好きだ」
部屋に残ったのは、ミナの甘い香りと、言えなかった言葉だった。




