第1話 後払いでいいよ
目が覚めた瞬間、俺はひとつだけ確信した。
「ここ、俺の部屋じゃない」
天井は木。壁も木。ベッドは藁。
背中がチクチクして痛い。
「……え、なにこれ」
窓の外は青空。見慣れた電線も看板もない。
石畳の細い路地と、古びた家がぎゅうぎゅうに詰まった街並み。
遠くの方で、青白い光が一筋、空を横切っている。
「異世界転生……」
ふいに口から言葉が出た。
俺が起き上がろうとしたとき、ドアがコン、と軽く叩かれた。
「起きてるー? 転生者さん?」
転生者。いま、さらっと言ったな。
「……はい?」
「おじゃましまーす」
入ってきたのは、エプロン姿の女の子だった。茶色い髪をふわっと揺らして、笑顔が先に部屋に入ってくる。
「おはよ! よかった、生きてたね!」
俺は口を開く前に、喉がカラカラに乾いていることに気づいて、変な声が出た。
「……ここ、どこですか」
「ここ? ギルドの泊まり部屋だよ」
ギルド。
聞いたことがあるようで、急に現実味のある単語だ。
女の子は壁に貼ってある地図を指さして、
「旧市街のここ! 王都の端っこで貧民街だね」
貧民街。
少女の口調は明るいのに、その言葉だけが妙に重く響いた。
窓の外を見ると、確かに華やかさはない。建物は古く、道は狭い。
でも、人の気配は濃い。どこかでパンが焼ける匂いがして、誰かの笑い声もする。
貧しいけど、生活が息づいた街のようだ。
女の子は盆を机に置いた。パンとスープ。湯気が上がって美味しそうな香りがする。
「はい、朝ごはん。空腹だと判断ミスするから食べてね」
「判断ミス……?」
「貧民街ってちょっぴり危ない所だから」
言いながら彼女は、俺の顔をまじまじと見て、にこっと笑った。
「あなた転生者さんでしょ?」
俺は、少し言葉に詰まった。
「……なんで分かるんですか」
「だって、その服。こっちの世界で見たことないもん。背広ってやつでしょ?」
そう言って女の子は、俺の胸元を指さした。
「それに、たいてい最初に言うの。『ここどこ?』って」
「言った…」
女の子は楽しそうに笑って、胸の前で小さく手を振った。
「私はミナ。ギルドで働いてる。受付も食堂も、だいたい私が回してる!」
「……俺は」
そこで、自分の名前が思い出せないことに気づいた。
俺がスーツの内側を何となく探ると、裏地に小さく縫い付けた名札が触れた。
「……名前、ある」
「え、ほんと?」
「たぶん……これ」
俺は名札の文字を指でなぞった。
そこに書かれていたのは、たぶん、俺の名前なんだろう。
でもうまく読めない。頭の中で引っかかるだけで、音にならなかった。
「……読めない?」とミナが覗き込む。
俺は名札を見つめたまま、戸惑って小さくうなずいた。
読めるはずなのに、頭の中で文字がすべっていく。音にならない。
「そっか。まあ、転生者さんって最初そういうの多いみたいだよ」
ミナは気にした様子もなく、あっけらかんと笑った。
「時間が経つと、思い出せる人が多いって。だから大丈夫」
そう言って、俺の胸元の名札を指でトン、と軽く叩く。
「それまでは仮の名前つけよ。……ソラ!」
「ソラ……?」
「うん。なんか、雰囲気がソラ」
この子は少し距離が近い。人懐っこい。
この世界に放り出された冷え切った俺に、あったかい毛布を気軽に掛けてくれる感じだ。
俺がもう少し若ければ、勘違いしていたかもしれない。
……いや、待て。
俺、若い。
手を見る。細い。指も、肌も、やけに新しい。鏡がなくても分かる。
なんで今、若ければ…なんて思ったんだ。
ミナが俺を覗き込んで、首をかしげる。
「……大丈夫?」
その一言が、やけに優しく聞こえた。
「……うん」
それだけじゃ足りなくて、俺は続けた。
「あ……ありがとう。いろいろ」
「う、うん、私が助けた! だからさ」
ミナは胸を張って、笑顔のままさらっと言った。
「泊まり代は、働いて払ってね。後払いでいいから」
「後払い……?」
「うん。うちはね、そういうギルドなの」
俺が不安そうな顔をしているのが分かったのか、ミナは声を少しだけ柔らかくした。
「慣れない転生者さんが路頭に迷わないように大切に保護して、仕事の探し方も教えてあげる!」
「それに転生者って稼げるもの。ほぼ確実にお得意様だもの」
言い方が現実的すぎる。
かわいらしい顔で、急に商売人の目をする。
「それにあなた日本人でしょ?」
「……日本!」
急に耳慣れた言葉が出てきて驚いた。
「そう。日本の人って真面目で、逃げたり踏み倒したりしないから人気があるのよ」
そんな評判が、こっちの世界で出来てるのか。
「それに、知らない世界に突然放り込まれたのに、なぜか日本の人は落ち着いてるのよね」
「だから後払いで良いよ! 三食昼寝付きで面倒みてあげるから」
話の内容は、だんだん納得できてきた。
「俺が日本人だからって……信じていいのか、そんな話」
「信じるっていうか、統計だよ、統計」
「あとはあなたの雰囲気かな」
にこやかに言われても、俺は笑うしかない。
その笑いが消えた瞬間、ミナの声がほんの少しだけ落ちた。
「ただね、だからこそ狙う人もいる」
「狙う……?」
「転生者って、身寄りがいないでしょ? 戸籍もないでしょ? そこに付け込む悪い人がいるのよ」
ミナは窓の外をちらっと見る。
通りを歩く男が、こちらを見て、目を逸らす。
「……運が良かったってことか」
確かに、現実的な話に感じた。
「うん。すごく良かった」
ミナはぱっと明るい声に戻した。
「でも安心して!うちはそういうのしない!ちゃんと働いて払ってもらうだけ!」
「それもそれで現実的だな」
「現実的だよ。だってここ、あなたの家になるんだから」
「私、そろそろ行かなくちゃ。食べたら下に降りてきてね」
ミナは念を押すように俺の目を見て、部屋を後にした。
「家、か……」
その言葉が、胸の奥で小さく引っかかった。
俺はスープに口をつけた。温かい旨味が広がる。
喉を通った瞬間、胸の奥の固さが少しだけほどけた。
……旧市街の貧民街にあるギルド、というのは分かった。
でも、この世界で俺がどうなるのかは、まだ何も分からない。
それでも、さっきよりは息ができる。
ミナのおかげだな、とだけ思った。
「……食べたら下に降りろ、か」
俺はパンをちぎって口に入れた。
まずは、そこからだ。




