第9話 伝統の壁ドン
「あー、クソッ……!」
ある日。俺は例によって神楽坂邸で、神楽坂美織の自室を掃除していたが、この間のことを思い出すと、なかなか身が入らずにいた。
この部屋で、ベッドに押し倒されて、顔を近づけてきたかと思ったら、抵抗する間もなくキスされて。しかも、とびきり深いヤツだ。これで、神楽坂とキスをするのは二度目になる。まあ、初回のヤツは俺の中でもノーカンにしたいくらいなんだが、二度目のアレをノーカンには……流石にできない。
「ダメだダメだ! 集中集中ッ」
俺は自分に喝を入れ、掃除機のスイッチを入れる。
普通、年頃の女子となると、勝手に部屋に入られて勝手に掃除をされるのは嫌がりそうなものだが――というか、以前までの神楽坂なら確実に「変態! 不審者! 不潔よ!!」と大暴れしそうなものだったが、今となっては俺にすべてをさらけ出す覚悟らしかった。もちろん事前に部屋に入って掃除をしてもいいか尋ねてはいるが、あっけらかんと許可されたのでちょっと驚いたものだ。
「……女子のいる空間って、なんでこう、いい匂いがするんだろうなあ……」
部屋に一人なのをいいことに、俺はぽつりと呟く。
これは、香水なのだろうか。それとも、シャンプーとか柔軟剤の香りなのか。どちらにせよ、ふんわりしたほどよいフローラルの香りは、本人が居なくともほのかに空中に漂っている。
一言で表すならばまさに「女の子の匂い」なのだ。そのまんまな説明だが、きっと男子諸君はわかってくれると思う。
「……ん? 本棚、よく見ると小説や参考書の他に、漫画もチラホラあるな……」
ふと、本棚に綺麗に整頓されている書籍に目がいく。基本的には真面目そうな本が多いが、それだけに数冊の漫画が異彩を放っている。タイトルと、ピンク色の背表紙から察するに、少女漫画だろう。そういえば、小学生の時友達に借りていたとか言っていたし、今でもたまに読んでいるのかもしれない。
「……どんな漫画読んでんだ、あいつ」
ごくり、と唾を呑み込む。俺はちょっと躊躇しながらも、恐る恐るピンクの背表紙に手を伸ばした。人のものを勝手に漁るのはどうかと思うが……でも、何もタンスやクローゼットの中をガサゴソやるわけでもないし。本棚にある漫画を少しパラパラ捲るくらいは、許されるだろう、きっと。
俺自身は少女漫画は普段読まないが、こういうのがあいつの愛読書だとすると、あの間違った恋愛知識はここから生まれている可能性が否めない。そうだとすれば、俺もちょっとヤツの教育方針を考えなければ……。
「こ、これは……」
ドキドキと無駄に胸を高鳴らせながらページを繰ると、清純そうだった主人公があれよあれよという間に、相手役の男と恋に落ち、キスをして、服を脱がされ……。
『お前はもう、オレのモノだろ』
『オレ様を満足させてみろよ。身も心も……な?』
『エロい顔しやがって……。悪い子だな』
などという、それはもう、見ているこっちが恥ずかしくなるようなセリフのオンパレードだった。こんな歯の浮くような小恥ずかしいセリフを、平気で言える男がこの世にいるもんか! 壁ドンとか顎クイとか、少女漫画の中では定番のシチュエーションなのかもしれないが、ハッキリ言って普通の男はしないからな! 絶対!
ていうかやっぱり、あいつの変な知識、ここらへんから来てるだろ、確実に!
「……これは没収だな。あいつにはまだ早い」
当然、一般的な読者は、これがフィクションだと理解したうえで、割り切ってストーリーを楽しんでいるのだと思うが、あいつは違う。小説や漫画で得た知識を、100パーセント――いや、120パーセントくらい鵜呑みにしてしまうあいつには、こういった類の本は毒だ。教育に悪い。
「って、教育教育って、いつから俺はあいつの親になったんだ!」
「三崎くん? あ、掃除してくれてるの?」
「うわああ!」
痛々しいセルフツッコミを繰り広げていたところ、いきなり部屋の主が中に入ってきたので、驚いて奇声を発してしまった。
神楽坂はその様子に怪訝そうな顔をしつつも、すぐに口の端に笑みを浮かべ、すかさず俺とスキンシップを取ろうとしてくる。
「ねえ、今日もキスしちゃう? 未来の旦那様」
「しねーよ! ていうか神楽坂! お前、ちょっとそこ座れ!!」
「な、何っ? どうしたの?」
俺は戸惑う神楽坂の腕を引っ掴んで、その場に正座させた。
「お説教タイムだ」
「お、お説教……?」
「まあ、とりあえずこれを見ろ」
「これは、私の持っている漫画ね。本棚にしまっておいたはずだけれど……」
「ああ、綺麗にしまわれていたが、今日からこれは没収だ」
「ど、どうして?!」
まったくわけがわからないといった様子の神楽坂。ガーン、という効果音がつきそうな落胆具合だ。
「お前、こんなもんばっかり読んでるから、脳内ピンク色になるんだよ!」
「そ、そんなことはないわ。少女漫画は素敵な文化よ」
「少女漫画文化自体を否定したいワケじゃねえ。ただ、お前には早い!」
「そんな……! 子供扱い、しないでよ……。私、もう、こんなに大きくなったのに……」
そう言いながら、神楽坂は自らの両手でその豊かな体のシルエットをなぞり、意味深に上目遣いをしてくる。
「ええい! うるさい! とにかく没収といったら没収だッ」
「嫌ぁ! 考え直して、私の人生を変えた一冊もあるのよ?!」
「あっ、バカ、ちょっと、裾を掴むな! 危ないだろ、ッ……?!」
神楽坂は正座をした体勢のまま、目の前で仁王立ちになっている俺のズボンの裾をきゅっと掴み、「おねがいよぉ~!」と、子供が駄々をこねるように上下左右に揺する。そのせいで俺はバランスを崩し、神楽坂を壁際に追いつめるような形で、その場に倒れ込み――。
――ドン!
「!!!」
「……イテ……おい、大丈夫……」
「こっ、こここ、こ……!」
「?」
わなわなと体を震わせる神楽坂を見て、どこか怪我でもしていないかと一瞬心配したが、
「これが伝統の……壁ドン……っ?!」
すぐに、そんな心配は不要だったと思い直した。
「は、はあ? 壁ドンなんて、漫画の中だけだろ。普通の男はやらねえよ」
「でも、現に今、私を壁に追いつめて、ドン!ってやったじゃない、ドンって!」
「う、うるせえ!! なんでそんなに嬉しそうなんだよ!」
俺は慌てて後ずさりし、神楽坂との距離を取るが、神楽坂はキラキラとした眼差しでまっすぐに俺を見ている。
「あー、もう!! 今日は帰るからな!!」
「あっ、待って、三崎くん……!」
あーもう、こいつといると調子を狂わされてばかりだ……。