(17) アスター王子、王を疎む
泣き疲れて眠る歳ではない。アスターは早々に涙を拭い、バーチの回復を祈った。
足を引きずるようにして部屋に戻ると、宰相のマジュス卿がすでに来ていた。アスターが使用人へ目を向けると、マジュス卿が先回りして答えた。
「殿下。待つと私が言ったのです。時間の余裕はありますが、日を改めるべきでしょうな」
宰相の視線を追って手の甲を額にあてると湿っている。
「ありがとう。でもすぐにすむ話なんだ」
手早くハンカチで拭いて、アスターは座った。使用人を下がらせて、マジュス卿を見やる。
王妃との縁談を纏めてアプレ王の信を勝ち取り、宰相に任じられた時の人。細かい幸運を的確に拾って、アスターの王位継承権を復活させるという大逆転を成し遂げた立役者の一人でもある。
「コルチカム公爵にバンナンに好意的な勢力の旗頭になるよう唆された。私を玉座に、娘を妃の座に座らせようとしている印象だった。考え過ぎであればいいと思うが」
「心に留めておきます。殿下もどうぞご身辺にお気をつけを。ああいう手合いが腹の中を口に出すのは自信の現れでございます」
「うん。それで話は変わるが、マジュス卿。私はあえて宮廷の沙汰からは遠ざかっていて、つい先日兄上のご近況をうかがったのだが……兄上はそんなに危ういのか」
王族の生死に関わる会話は反逆罪に抵触しうる。アスターが声を潜めると、マジュス卿も意味もなく自分たちしかいない部屋に視線を走らせ、身を乗り出した。
「典医の見解では、おそらく肺だと。養生以外に手の打ち様がない例の病です」
「……子供たちが心配だな。それは血筋のものだと聞くぞ。義姉上もどれほど気を揉んでいらっしゃることか」
「つききりで手ずから看病をなさっておいでです」
「お労しい」
我ながら声がふらふらしている。
それは、つまり、不治ということだ。バーチは長生きできない、そういう意味だ。
「いや、大丈夫だろ。治るだろう?」
マジュス卿は黙っている。落ち着き払った様子に、アスターは、彼はこうなることを予期していたのではないかと思った。
「なあ、兄上は三年前からご病気だったのか? だから僕は戻されたのか?」
「我々がこのような状況を想定して継承権に関して奏上したのは事実です。が、王太子殿下が病を召された兆候があったわけではありませんでした」
思考が一瞬空白になる。
「――ならなぜ僕をそっとしておいてくれなかったんだ?」
馬鹿なことを言っている。王と母が離婚した当時、アスターも含めた誰もが、これでアスターは王族を永遠に離脱したとみなした。やがて王と王妃の間や、その頃はまだ独身だったバーチのもとに男子が生まれるから、アスターには逆転の目もないと思われていた。アスターを手元に確保した公爵とて、王位継承権が戻るとまで賭けていなかったはずだ。それがマジュス卿たちのおかげで王位が転がりこんでくるのだから、すべきは感謝であって、恨むのは筋違い甚だしい。
頭ではわかる。しかし、バーチに問題がなかったなら、アスターをとりあえずの予備にするのがもっと遅くてもよかっただろうと、たとえばこれから王の説得にかかっていたなら、アスターがまだ一臣下であるうちに、ベラドンナと滑り込むように結婚できていた可能性がか細くともあったのではないかと思うと、アスターは平静ではいられない。
「外にはちゃんと嫡出の男がいただろう……」
他国に嫁いだアプレの王女たちの子は、アプレの継承権を主張できる。アスターはそれを長じてから調べて知った。
「殿下は王宮とコルチカム公の別荘とどちらに親しみがありますか」
「……後者だ」
「そこに比べると王宮は悪いところばかりだ。そう思われませんか」
「何の話だ」
「同じことです。遡れば祖が共通であっても、外で育った方々はこの国には真に馴染むことはありません。生まれ育った国に親しみを持てば、そちらとこちらの差異に敏感になり、日々生じる小さな摩擦を優劣の表出と感じ、自然とそちらへ憧憬を抱き、傾いてしまうのです。人は、違う土地から持ち込まれても黙って根付く花とは違います。それゆえに陛下も、お世継ぎはこの土地に愛着をお持ちである方をと強く願っていらっしゃるのです」
我らはどこまでもバンナンの人間なのです。この国の誰にとっても。
アルメリアの言葉だ。母も確か、この地で死んでもバンナンの王女だとローレルに向かって言っていた。
「……卿の考えはわかった。だが、僕がこの国をめちゃくちゃにする心配しないのか? あのバンナンの孫なのに」
「いえ。あなたはそんなことをなさらない」
「なぜそう言える!」
恋に溺れて国を傾けた王や皇帝の訓話はしつこく聞かされたが、ベラドンナにしなだれかかられたら、公爵の甘言に乗らない自信はない。それにマジュス卿ごときに自分の何がわかるのだ。ベラドンナでもないくせに、よくもまあアスターの理解者であるような口をきく。
不快に任せて吐き捨てても、マジュス卿は眉すら動かさなかった。
「あなたはかつて己はこの国の盾だと仰った」
そしてそんなことを言う。
「あなたのお人柄は存じ上げています。愚息からも聞いています。たとえあなたが至尊におなりでも、妻を孕ませる代わりに気に入った女を寄越せなどと下劣の極みは仰らないお方だと。公爵は喜んで娘を差し出すでしょうが、あなたは愛した女性が他人の都合の犠牲になることを許容なさるはずがありません。あなたがそのお立場を利用なさるとしたら、もっと純粋で、痛みと引き換えにしても叶えたい小さな願いのためだと、私は確信しております」
「…………卿はひどい。おかげで私は、癇癪を起こした子供だ」
アスターは背を丸め、目元を覆った。
「花だったらよかった。相手も知らずに実をつけられるから」
「しかし人ゆえにあなたは恋をしたのでしょう。お体をお厭いください。不調があると、人間気も沈むものです」
宰相の退室は見もしなかった。
その日アスターは熱が出たので王宮に泊まった。そして翌日、バーチに呼ばれた。
「お加減はいかがですか」
「もう大分いいんだ。そう不安そうにするな」
一目見て痩せたと思った。前に会ったのは秋の王宮での晩餐会だったが、あのときより確実に頬が削げた。そして顔色が悪く、目が潤んでいる。
ベッドでクッションにもたれ、上体を起こしていても紛うかたなき病人のなりだが、来週にも床払いができそうで、滋養のあるものをたっぷり摂れば体重も戻りそうである。
本当に肺からの血を吐いたようには思えない。だがバーチはそのために死ぬという。まだ二十を少し過ぎたばかりなのに、背後から迫る終焉の足音を常に意識させられているのだ。
アスターがそんな人を相手に、通常通りの態度で会うことを選んだのは、熟慮の結果ではなく、ごく単純な現実逃避であった。
「お話とは」
「私の代理で親善のために外国を訪問してほしい。陛下からお前に命じるとうかがっていたが……うん、聞いていない顔だな。陛下を怒らせたというのは話をする前だったらしいな。あの人は激昂すると拳が飛んでくるだろう。大丈夫だったか?」
「……拳とは、つまり罰でしょうか。もしや拳だけでなく、陛下の鞭をお受けになった経験がおありなのですか?」
「まさか! すまない、不安にさせたか。鞭なんてそんな屈辱的なものを使われてはないよ。男同士は少し乱暴なやり方がちょうどいいんだ。私も何度か頬を張られた。兄上など殴り合いになったことすらあるらしい。だが怪我をしていないなら安心したよ。典医が渋い顔でお前がひどく叱責されたと言うから、お前がかわいそうに頬を腫らしていないか心配だったんだ」
「ご高配痛み入ります。この通り無事なのでご安心を。長居もお体に障りますから、それだけなら私は下がりますが」
「そう急くな。本題はそれじゃない。お前に話しておきたいことがあるんだ。まあ座れ」
アスターはおもむろに従った。だが、本当はここから逃げたかった。
「お前には黙っていたが、私は何度もこの病魔をねじ伏せてきた。典医はまだ治ると言う。私もそう感じる。だが以前よりは長くかかる。次はさらに、その次はわからない」
言わないでほしい。
「アスター。私は王冠を戴くことはない」
「いけません。言葉には霊が宿るとも申します」
「事実だアスター。コルチカム公爵には気を許すな。あれはお前を金蔵としか見ておらん。誠意がない。男は結婚してこそ一人前だが、妻はよくよく吟味しろ。いずれこの国を率いるお前を癒やしてくれる女がいいだろう。自分の手で布巾を絞ってくれる優しい女だ。年上はどうだ。容貌が優れているなら年の差など」
「それ以上聞きたくない!」
叫んだ瞬間扉が開き、誰かが駆け込んできた気配がしたが、アスターはそちらを見向きもせず、バーチを睨み据えていた。腸を焼くこの不快感を、死に対する幼い怯えだと思われてはたまらなかった。
バーチが手振りで使用人か衛兵のどちらかに退室を促す。
「どうした。好いた女でもいるのか」
「そういう問題ではありません」
「いるんだな。そちらは妾にしろ」
反論なのか罵倒なのか、自分でも定かではないまま口をつきかけた何かを、何とか歯で潰した。そのまま唸るように答える。
「嫌です。それに陛下は彼女をお許しにならないでしょう」
「ならばバンナンか臣下か……コルチカムの娘だな。まだ嫁いでないで年が合うのは三女か。なぜその娘に拘る」
「母を奪われてなお今の僕があるのは彼女のおかげだからです」
「……参ったな。辛いときにそばにいてくれた人のありがたみは痛いほどわかってしまう。だがアスター、その娘もお前が王になれば喜ぶぞ」
「彼女にかぎってはあり得ません。とにかく私は王になどなりたくないのです」
「戯言を。……そこまで陛下を恨んでいるのか」
「恨む? これは異な事を。――当たり前ではないですか」
王位を拒むのは憎い王の後を継ぎたくないがためではない。心の底からいらないのだ。ベラドンナと結ばれるための障害でしかない王冠を一体なぜアスターが欲しがるだろう。母を嘲り、六歳の子供に石を投げて遊ぶ貴族どもが蠢く王宮の主の座を、なぜ自分が。
しかしアスターは、説明しても時間の浪費でしかないのはもはや明らかなので、恋は建前で本音は王へのあてつけだとするバーチの勘違いに乗った。
あながち間違いでもないのだ。アスターが王を恨む理由はいくらでも挙げられる。昔、世を拗ねる気持ちを育てる暇がないほどベラドンナが振り回してくれなかったら、アスターは悲しみにのまれて母の愛を忘れ、捨てられたと恨んだり、公爵に父性を、謀叛に希望と復讐の正義を見いだしたりしただろう。
背中にある傷も理由の一つだが、ここで脱いで見せるのはバーチへの八つ当たりになると思い、違うことを言った。
「私の境遇はさておくとしても、兄上が亡くなった遠因が陛下にあることは許せません。内心がどうあれ体裁を守れる程度に私たちを扱ってくだされば、兄上は危険を冒さずにすみました。幼い頃ならいざ知らず、兄上が撤退を遅らせたのは、私と母のために、バンナンを間に合わせて名誉を回復させようとしたのだとさすがに理解しています。兄上がそのような飛び抜けた義侠心の持ち主だと知らなかったのなら、陛下は父としても王としても目が節穴でおありになるとしか言い様がないでしょう」
「……気づいていたのか」
「ええ。ですが、兄上のご意向を見抜けなかった頃から、私はあの人こそ本当の父のように思っていました。まともに口をきいたのは一度だけであっても」
「なぜその程度で……っ、そこまでお前を、父上は……!」
驚かれることが新鮮だ。数年前まで、学園の子供たちすら、アスターと王の間に親子の情が通っていないと把握していたのに。王は、ローレルやバーチの前で、さぞ立派な父親をやっているのだろう。
アスターは昨日の出来事で完膚なきまでに見切ったし、王の所業はバーチとは一切関係がないのだから、すまなそうにしなくてもいいものを、と思えど、不思議に声に出す気は起こらなかった。
「私ごとき昔のように捨て置いてくださればよかったものを。兄上には何人も嫡出の娘がいるでしょう。そして殿下にも」
「娘など、……いや! いやアスター……むしろお前に継承権を再び手にしたのは運命なのかもしれない」
顔を歪ませていたバーチが、はたと表情を明るくした。
「お前の行くのはトリテレイアだ。知っているか」
「……女王の立つ地ですね」
数多くの領邦から成る帝国チェリット。その中で最もアプレに近い領邦がトリテレイアだ。そして、海風が帝国方面へ吹き寄せる前に、バンナンを通ってもなお落としきれなかった雪を最後に振るっていく山麓の国である。
「そこでよく目と心を開いて過ごすがいい。たったひと月、されどひと月、何を得るかはお前次第だが、それが王になる覚悟であることを私は願っている」
年の始まり、アスターは長い旅路についた。トリテレイアに近づくにつれ、景色に含まれる白が多く厚くなっていく。夜の天幕では指が痛むほどに冷える。天気が曇りか雪でも昼間はもう少しましなので、移動中にペンを取ってベラドンナへの手紙を書いた。この旅で考えたことと、ベラドンナへの返信の二種類のうち、当たり障りのない後者だけを送る。いつか前者も渡せるといい。
一行が無事に到着した日の夜、歓迎の宴が催された。衣装も内装も料理も趣が違う。聞き取れないトリテレイアの言葉の雨を耳で楽しみながら、アスターは広間の奥に座す大公の前へ出て、挨拶を述べた。
通訳が丸顔の大公の労いの言葉を訳してくれ、これで終わりだと思ったアスターは、ざわめきの接近に気づいた。さりげなく目をやると、人波が割れ、金髪の華奢な女性がやってくるではないか。
「さあこちらへおいで! アスター殿下、これは姪のネリネです」
「はじめまして、アスター殿下。ネリネと申します。お目もじが叶いまして光栄でございます」
ネリネは名乗っただけなのに、周囲がやけにアスターの反応をうかがっている気配がする。
その瞬間、直感が働いた。この外交は、最初からアスターの仕事だったのではないか。病身のバーチが冬の長旅に耐えられるか、きっと前々から不安があったのと、ある目的のために、王はアスターを向かわせる予定だった。だが、激昂した王はこれに関して説明せず、後を引き取ったバーチは、アスターに恋い慕う相手がいると知り、そのもう一つの目的を隠す方便で代理と言ったのでは。
すなわち、これは、見合いかもしれない。




