(16) アスター王子、結婚願望が先走る
今回の更新分は明日が最後です。また次のまとめ更新を楽しみにしていただけたら幸いです。ありがとうございました。
アスターは初めて自分から王に謁見を申し出た。返答は早く、学園から馬車で王宮に出向く。
着替えの最中、宰相に会いたい旨を伝えてもらってから、アスターは深呼吸をして、謁見の場へ赴いた。
階段の上に据えられた玉座に、王がどっかりと腰をおろしている。彼のそばには杖持ちの使用人が控えている。
王はどことなく不機嫌なように見えるが、それをしっかり確かめる前に、アスターは視線が合わないよう目を伏せた。
「前置きはよい。先に要件を述べよ」
「ベラドンナ・オータム嬢を妻に迎えさせていただきたいのです」
言った。言ってしまった。
「……確かにお前には、そんな名前の信奉者がいるそうだな。舞踏会で踊ったのだろう。楽しかったか? 顔色がよい」
「は……」
さあ勝ち目の薄い説得を始めるぞと神経を尖らせていたアスターに、王の言葉はどことなく間延びしたように聞こえた。状況にそぐわぬ声音と、こちらの一挙手一投足を確認していることをわざわざ教えてくる意味を必死で考える。
「そうだろうそうだろう。だがな、王女でない妻を娶るなら、貴様の子には王位の継承を認められんのだ」
「恐れながら陛下」
「黙れ。察しの悪い。お前の後ろ盾はコルチカム公爵。さらに娘を妻にするのは、公爵の派閥に王家が進んで力を与えることになる。違う女を選べ。娘にはよい縁談を用意してやる。それで報いは足りるであろう」
王の纏った寛大という毛皮が剥がれつつある。どく、どく、と心臓が大きく動く。背筋に寒気が走る。慣れ親しんだ恐怖がこのまま黙って服従しろと優しくアスターの肩を抱くが、アスターはその腕を払った。
「陛下。私は真剣なのです。何を引き換えにしても、彼女を妻にしたいのです。公爵の影響力を削ぐ方法は他にもあるでしょう、それに跡継ぎとてバーチ殿下はお若いのだからこれからっ」
とっさに顔を守った腕に鈍痛が走り、大広間に物がぶつかる嫌な音が響き渡った。
王が杖をむしり取って投げたのだ。
「――情け深い妃が懇願するゆえ、貴様に流れる血の半分に寛容にも目をつぶり、最高の栄誉を与えてやった。その慈悲に感謝して余とこの国に報いるどころか、増長して厚かましい要求をするとはな。孫がかような忘恩の徒と知れば無道の祖父君もさぞお喜びになられるだろうが、この父だけは許さぬぞ」
王が近づいてくる。滲む怒りが地を這ってアスターの足を絡め取り、動けないでいるアスターを見て、恐怖が楽しげに笑っている。
あーあ、アスター、また余計なことをした。
「ローレルさえ生きていれば、貴様の願いも叶ったものを」
アスターはだらりと腕を垂らし、王を見上げた。ローレルは存命だったら三十の半ばである。さらに長生きしていたら、こんな顔になっていただろう。
しかし、いつかのローレルの笑顔に、王の血走った目はどうにも重ならなかった。
「教師には荷が重かろう。余が直々に罰を与える。光栄に思え。――鞭をもて。そやつを脱がせよ」
使用人が馬に使う鞭を捧げ持って現れた。早い仕事に感動できるはずもなかったが、アスターは、上着を脱いで肌着のシャツになるのに別の使用人に助けてもらいながらも、まるで彼らの存在を認識していないようにふるまい、恨みがましい視線を向けないよう努力した。
「手を前に。動くなよ」
薄着に冷気がこたえる。呼吸がうまくできない。自分の手首をきつく、きつく握りしめる。
ついに、空気を切る音がして、背中が一直線に弾けた。
その一打で悲鳴をあげなかったのは全身が硬直して喉も締まったためだった。
二、三と続く衝撃に、意地は何の役もなさず、呻き声が漏れ、噴き出した汗が顎からたれた。
背中が裂けていると本気で思った。肉のかたまりを包む皮膚という袋が破れ、血と脂が流れ出す。あまりに鮮烈な痛みがアスターの脳にそんな絵を描かせる。
いずれ骨が砕けると震えたが、四度目の打撃は、背中ではなく腰のずいぶんずれた位置を焼いた。
「忌々しいこの体。まだ死ねぬと言うに、老いさらばえおって……!」
汗が目に染みる細やかな痛みを感じながら、アスターは薄くまぶたを開き、全方向に憎悪をぶつける男をうかがった。
かつて戦場で馬を駆り槍を振るった戦士は、よろめいたように一歩踏み出した体勢で、錆びついた片膝に爪を立てていた。
「もういい、下がれ! 余の気が変わらぬうちに!」
使用人が杖を拾って王に駆け寄る。アスターは、もう一人に肩を借り、力を入れ過ぎて強張った足を動かす。
終わったと唇から息を漏らしたとき、自分が歯を食いしばっていたことを知った。
使用人にほとんど引きずってもらうように歩いたアスターは、王宮でよく使う部屋に通され、ベッドに誘導された。
うつぶせに倒れても、妙に体のあちこちに力が入って気を緩められなかった。状態が不明な傷が、お前が見ずともここにはあるぞと主張せんばかりにじくじくと痛みと熱を発するのが鬱陶しい。
やがて来た典医が、身動きできないアスターのシャツを切り、治療を始めた。軟膏を塗るための接触すら辛いが、泣いてたまるかとアスターは堪えた。
血が出ているか聞く気にもならない。どうでもいい、跡になろうが知ったことではない。
王にとってアスターがどういう存在なのかこの仕打ちで文字通り痛いほど思い知った。まさしくいつぞやの青年貴族と同じ、鬱憤を晴らすための獲物に過ぎないのだ。
慈悲を見せて庭で生きることを許してやっていただけなのに、図々しくも人間と同じ何かしらの権利があると勘違いした野犬を躾けてやっただけなのだ。これほどの憎悪を、うまく転がしてやろうと企んでいた自分は愚鈍以外の何物でもない。
これできっと王の断固たる拒絶の意思は定まってしまった。もはやアスターとベラドンナの結婚の未来はない。
「殿下、どうか気を落とされませんように。宸襟を拝察するのは僭越だと重々承知で申し上げますが、陛下は殿下に余所心のごときをお持ちではないのです。ただ、いささか、間が悪く……」
「間?」
「バーチ殿下です。咳が長引いていらしたのですが、先日ついに喀血をなさり、未だご容態が思わしくなく」
「……そうか」
得心がいった。病床にあるバーチに言及したのが逆鱗に触れたらしい。知らぬこととはいえ、核心を突く失言だった。
大事な息子が苦しんでいるときに、死ねばいい息子がのこのこと顔を出して結婚の話をすればそれは頭にきて当然だ。
「陛下はどんなにか私と兄上の運命をとりかえてしまいたいとお思いになっただろう」
いっそ薄ら笑いで呟いた。そしてすぐ気づいて続ける。
「すまない。こんなことを言ったらお前を困らせるだけだな」
「……いいえ、殿下……」
体を起こせるかと言われてその通りにすると、典医が端切れと化したシャツを回収し、頭から首までぬめるほどかいた汗を拭いてくれた。
そして包帯を巻かれつつ、アスターは使用人を呼びつけた。
「兄上のご快癒を祈りたいが、私が聖堂に向かえば、何を願うのかと想像を逞しくする者もいるだろう。人払いをしてくれるか。私が戻る前に宰相が来たらすぐ呼んでくれ」
「殿下。今夜はお体がお辛くなりますよ。医師として申し上げますが、聖堂は寒うございますから、日を改められてはいかがか」
「心配してくれてありがとう。でもお前のおかげで楽になったから大丈夫だ。それに、少し一人になりたいんだ」
「は……。おい、暖かいお召し物をお持ちしろ」
典医の指示のもと、背中が痛くて脱ぎ着が辛いというのに厚着をさせられて、苦笑しながらアスターは聖堂にのろのろと歩いていった。
王族のための聖堂には、ちゃんと人影がなかったので、アスターの足音だけが響く。祭壇の前で冷たい床に形ばかり跪き、アスターは長々と息を吐いた。
何もかも失敗した。ベラドンナには考えがあると言ったのに、大言壮語になってしまったことを、何と告げればいいものか。
君が僕を熱心に見つめてくれるのは、君の父親の命令だとわかっている。それでも僕は、口説く勇気もないくせに君のことが好きだから、便乗して結婚してしまいたくて、君に断りもなく婚約を纏めようとした。しかし残念ながら親が許してくれないので、僕のことは諦めて他の男と結婚してくれ。
何だこのふざけた男は。百回殴ってもまだ足りない。
憤りは一瞬で沸いて一瞬で静まった。そんなアスターだから、この背に鞭を受けたのだ。ベラドンナの意思を無視して、よりにもよって男女のみが使える方法で囚えようとした罰として。
納得したときにはもう涙が流れていた。
「すまないベラ……ごめんなさい」
聖堂の天井には名うての画家の絵があって、細部までこだわり抜いたレリーフが柱という柱を飾る。金がふんだんに用いられた祭壇は、獣脂でない蝋燭がいくつも灯されて、荘厳に輝いている。
だがここに、アスターの心を慰撫するものは欠片もない。
こんな冷たい場所にベラドンナは来るべきでない。しかしこんな場所だから、許さないわよ馬鹿と怒る姿がこんなにはっきり眼裏に浮かぶ彼女が恋しい。
誰にも指差されずにベラドンナの隣にいる権利が欲しかった。王に頷かせることだけが、その夢を叶える唯一の方法だったのに。
王位継承権があるかぎり、王はアスターに臣下との結婚を許しはしない。反面、公爵がアスターとベラドンナを娶せたがっているのは、アスターが王位に近いからだ。
何人かバーチの子が健康に育ったら、王は喜んでアスターを王族から弾き出すだろうが、そのころにはとっくに公爵はアスターに見切りをつけて、ベラドンナを有効に利用してどこかの貴族と縁を結ぶなりしているはずだ。
駆け落ちは無理だ。貴族の身分を捨てたら、市井の男より財産のないアスターが、ベラドンナを連れて逃げたところで暮らしが成り立つはずがない。捕まったとしても元の生活には戻れない。特にベラドンナには、口に出来ない汚名が着せられてしまうだろう。
どう考えても最後には、永遠に結ばれるためには、この世の誰の手も届かない遥か彼方まで遠ざかる他ないという事実に辿り着く。
いかにアスターが利己的な男であっても、ベラドンナとどこぞの馬の骨との幸せを祈れないからと彼女の命を奪うほど落ちぶれてはいない。いないが、どうしても諦められず、心が千々に乱れる。
「ベラ、嫌だ、僕は嫌だ……」
文通は続けたい。楽観的な予想だが、公爵は望みがあるかぎりアスターとの結婚を諦めず、他の縁談を寄せつけないはずだ。たとえ王がとびきりの相手を用意して、直々に仲人になろうとも。
その万が一を防ぐため、王を刺激しないのも重要だ。王のあの剣幕では、アスターを絶望させるために、ベラドンナを結婚させようとするだけにとどまらず、アスターに婚姻の首輪をつけようとするかもしれない。アスターが不幸になるのは自業自得だが、ベラドンナと、無関係な女性を巻きこむのは違う。
そして祈ろう。他国から縁談が持ち込まれても王がその気にならないことを。少しでも長く、ベラドンナがアスターを見つめ続けてくれることを。
なんという運任せ人任せ。
ベラドンナはいつだって正しい。どうして頼ってくれないなんて嘆く以前の問題だった。こんな情けないやつに窮状を打ち明けて、一体何の意味がある。
つまるところ、アスターが王子として、ベラドンナが公爵の娘として生まれ出でた時点から、明るい未来は閉ざされていたのだ。しかし、そう生まれていなければ二人は出会わなかったのだから、なんという皮肉だろう。
熱い雫が頬をつたう。頭が重い。背中が痛い。
「ベラ」
無力だった。




