(13) アスター王子、色と恋を自覚する
ところでアプレ王は、離婚した翌年、一刻も早く男子を得たいとばかりにずいぶん年下の王女と結婚していた。
だが妊娠の兆候はないまま四年が過ぎ、王は五十歳を迎え、杖をつき始めた。それで老いを実感したのか、王妃と臣下たちによる熱心な説得に負けたのか、アスターをバーチに次ぐ王位継承権第二位に指定した。アスターが十二歳での異例の事態だった。
アスターとしては、ただ王宮に呼び出されてそうなったと言われ、財産などの説明を受けただけなのだが、その情報が広まるやいなや、笑えるほどの手のひら返しがおこった。
血ゆえに憎まれ、血ゆえに尊ばれる。周囲が見ているのはアスターの人格ではなく、どこまでも血統なのだ。
アスターは納得した。なるほど、宮廷人は人がそういうものだとちゃんと理解しているから力を欲しがるのだろう。
それも一種の正しさだが、アスターは権力に溺れたくない。あくまで手段として冷静に扱いたかった。だから腐りそうな気持ちを叱咤して、自分の立場の確立に励んだ。
何事もなかったかのように平然と接してくる相手への軽蔑は胸に留めた。しかし許されたつもりで図に乗った相手は、実力は示したのだから滑稽にはなるまいと、今度は我慢せずに王子という身分を持ち出してまで謝罪させた。
線引きをはっきりさせて侮りを寄せつけず、すべきときにはやり返す。こうやるんだろうベラドンナと語りかけながら。
そうするうちに周囲とは、また違った意味の距離が生まれた。
圧倒的に息がしやすくなったが、王子に戻ったとたん驕ったと陰口を叩かれ、権威を振りかざす悪役になったようで落ち込む夜は何度もあった。そしてその都度、母の教えを振り返り、それに恥じない生き方をしているか己に問うた。すると、何があっても愛していると、母がアスターに永遠に刻みつけてくれたお守りの意味がわずかに掴めそうな気がするのだった。
「殿下の掌握のご手腕には敬服しました。去年の有り様が嘘のようですね」
「最高の師がいたものでね。それはそうとフロラス、そのよそよそしい物言いは何。君にとって優先されるべきは王子への礼儀か? 友人への親しみか?」
「……友人への礼儀だ。だが人前では譲らんからな、アスター」
わざとらしく顔を顰めるフロラスに笑って頷く。
それでもアスターは、フロラスにベラドンナのことを話すつもりはなかった。
ベラドンナの性別を伏せて語ったら、少女だとは露ほどにも思わず兄貴分だと早合点するだろうと想像して楽しむことはあるのだが、どうしてもその気になれないのだ。
フロラスにはベラドンナの長所がほぼ短所にしか思えないだろうというのがまず一つ。
そして、他の理由に、不安がある。
学園にいる年上の女性たちは、結い上げた髪に、葉っぱや蜘蛛の巣を引っ掛けるのではなく花や宝石を飾り、歯をほとんど見せないように笑う。走るなんてとんでもない。些細な仕草にもゆとりがあるため、彼女たちの周りだけ時間の流れが緩やかなようだ。
これこそが上品、これこそが淑女だと今のアスターには理解できる。美しいと感じる。それでもアスターにとって、ベラドンナの魅力は一匙も減じはしない。
そこが問題なのだ。自分は、記憶の中のベラドンナを年々郷愁と感傷とで飾りたてているのではないか。現実の、髪の色が金から茶に変わっていくアスターのように、今も刻々と変化しているだろうベラドンナに向き合っていないのではないか。
別れて以降、ベラドンナを一目見ることさえ叶っていないのも、アスターの疑いを掻きたてた。
あの屋敷での礼を公爵に言いたいと、公爵にも王宮にも手紙を出して催促しているが、場を設けると言われた以降どちらも梨の礫なのだ。公爵ならアスターが彼ではなくベラドンナに会いたがっているとわかるはずなのに。
焦れたアスターは、オータム家の人間が入学したとき、矢も盾もたまらず食堂へ会いにいった。
新入生は幼い容姿をしているのですぐにわかった。しかし赤毛の子はいても、それらしい子がいない。それにそもそも名前を知らない。
そこでオータムの者はいるかと呼びかけると、一人の少年が出てきた。
「名前は?」
「ソレルと申します」
髪の色は同じだが、彼女より目元が優しい。ベラドンナに似ていない失望を隠し、アスターは食事をしながら話を聞かせてほしいと誘った。フロラスも紹介したが、二人が話すのも待てず、アスターはさっそく本題に入った。
「私はコルチカム公爵と君の姉君であるベラドンナ嬢には言葉に尽くせないほどの恩があるんだ。ベラドンナ嬢はお元気でいらっしゃるのかな。何か私のことを聞いてはいないかな?」
「姉に変わりはないはずですが……殿下、実は、父から殿下と我が家にご縁があることは伺っておりますが、姉からは。言い訳にはなりますが、僕は姉とあまり話したことがないのです。姉は大人しい人です。小さい頃は活発だったそうですが、僕の記憶の限りでは、何事も控えめで。きょうだいといえど男と女ですから、きっとドレスや化粧の話ばかりで話が合わないだろうと会話も稀でして。申し訳ありません」
「そう」
この人は誰の話をしているのだろう。
「お元気ならいいんだ。公爵にもよろしく伝えておいてくれ。それで、君はここでは何を学びたいのかな。相談に乗れると思うんだ」
アスターはそっと話題を変えた。ベラドンナにアスターではなくシオンとして伝言を伝えてもらうつもりだったが、ソレルには触れてほしくなかった。
昔は平気で椅子の上で膝を立てたり猫背で食事をしたりしていたベラドンナが、ソレルの目にはごく普通の女性に映るのなら、きっと礼儀作法を頑張ったのだろう。いいことだ。そのはずだ。
ベラドンナに会いたかった。それがシオンの知るベラドンナに会いたいだけなのか、自分でもよくわからなかった。
もう向こうから音沙汰がないのなら、直接訪問してしまっても構わないのではないかと何度も思った。しかしアスターは王子である。しかも子供ではない。アスターの行動には一々様々な意味がくわわるのだ。身軽ではなくなったことを嘆きながら十四歳を迎えたある日、公爵に礼を述べろと王宮に呼び出された。
そこで着替えさせられながら、礼を、会う口実にしたのはアスターだが、こちらをいっときも心の休まらない窮地に追い込んだのはお前たちだろうにと皮肉に思う。
公爵が後見人に名乗り出なかったらアスターはどうなっていただろう。王位継承権を失ったまま、もし父か、王太子となった兄のバーチのもとに男子が生まれるなどしていたら、悪くすれば、立場の悪い貴族がよくかかる病気で死んでいたかもしれない。
公爵に感謝はあるが、やはり恩人と言ったらベラドンナである。公爵との面会はすぐに終わり、アスターはベラドンナが待っているという部屋に向かった。
膨らむ胸が苦しいのは、そこに期待だけでなく恐怖も詰まっているからだ。
ベラドンナに厚かましくも落胆してしまったらどうする。
エデルワイス邸でのベラドンナは、アスターにとってかけがえのない思い出であり、活力を吹き込んでくれた生命の源であったのに、アスターどころか、誰あろう彼女自身に、みっともない過去だから言及されたくもない、忘れてほしいと否定されたら。
アスターは自分に言い聞かせた。たとえ形だけでなく、彼女があれだけ拒絶していた令嬢らしさを受け入れてベラドンナが変わったのだとしても、寂しいからと彼女に何かを求める権利はアスターにはないし、何か失ったわけではない。
きらめく石が、宝石ではないとわかったとしても、その輝きと素敵だと感じた気持ちは絶対に嘘にはならないのだ、と。
奥歯を噛み締めて、部屋に入り、視界にドレスの裾が入って無意識に目線を下げていたことを知る。
覚悟を決めて相手の顔を見ようとして、アスターは息をのんだ。
美しい人がいた。
かつては肩口で揺れていた髪が艷やかに伸びていた。大人っぽく結ってあるから、青鷺のようにほっそりとした首が際立つ。
立つとアスターより少し背が高かった。耳飾りの重さをこらえる耳たぶが健気だと思い、何を間抜けなことをと心の中で自分の頬を張る。
そんなアスターに、邪魔そうにドレスの裾を蹴りあげていた女の子が、踝も見せない淑やかな所作で礼をした。
動揺していた。ベラドンナが見知らぬ女性のようだったのはもちろん、その雰囲気が信じられなかった。
表情がベラドンナらしくないのだ。美しいのに固く、剥製じみて生気がない。三年間で何があったと思った瞬間、ソレルの言葉と、戻りたくないと言っていたあの日のベラドンナが脳裏をよぎり、悟った。
違う。何もなかったのだ。
アスターはフロラスという新しい友を得、自分の力を示す機会もあった。うんざりすることは多々あったが退屈はしなかった。だがしかし、ベラドンナは。
ベラ、君の真実を知るライアはまだそばにいるか。それとも彼女も君を型に押しこめる圧力となってしまったか。君をベラと呼んだ人はいたのか。君を笑わせた人はいたのか。まだ君の母はソレルに夢中なのか。また公爵は君に何の説明もなくここに連れてきたのか。
ベラ。
喉元までこみ上げた思いを、アスターはぐっと飲みこんだ。曖昧に微笑むベラドンナは明らかにシオンを忘れているからだ。
傷ついたが、髪が茶色になったし、背も伸びたからわからないのかもしれない。縋る思いで言う。
「三年前までエデルワイス邸で一緒だった。覚えていないかな。それとも、シオンって言ったらわかる?」
――彼女の記憶が蘇る瞬間といったら。
眉宇に漂っていた警戒がさっと消え、見開かれた瞳に光の粒が散り、青ざめていた頬にみるみる生気が差し、引き結ばれていた唇が柔らかくほころぶ。
一瞬が永遠にも感じた。花が開いたようだった。大切な友人が自分との思い出でこんな表情をしてくれるのは、この世で最高の栄誉のひとつと言っても過言ではなかった。
アスターは彼女に少しでも長く明るい気持ちでいてほしくて全力でおどけた。
ベラドンナが子供のように笑ってくれるとこちらまで笑顔になった。彼女の笑い声は天上の鈴の音に勝るとも本気で思った。
だから、笑い方について謝られたのは、遠回しな見過ぎとの指摘かもと焦った。おかげで口を滑らせてしまったのが恥ずかしい。
美化などまったく杞憂だった。何度もベラドンナに驚かされたことをすっかり忘れ、自分の想像力を過信していたのだ。
アスターが王子としてのふるまいを覚えたように、ベラドンナも淑女の仮面を被るようになっただけのこと。中身の変化だって、ただ少し気が長くなって、それを見せる相手や場所を選ぶようになっただけだ。
きっとベラドンナはまだ速く走るのだ。裸足のままブランコをこいでライアに怒られているのかもしれない。
ベラドンナだった。無邪気に遊んでと笑いかけてきたあの少女だった。
最後にそれとなく、ソレルたち家族と距離があることも確かめて、今度こそ文通の約束を取りつけて、名残惜しくベラドンナと別れた。
なぜ偽名を名乗っていたか説明していなかったが、そういえばベラドンナにも嘘つきだと罵られるどころか聞かれなかった。
窮地だったという説明から、世を忍ぶ仮の姿とでも解釈してくれたのだろう。アスターと同じように、再会の喜びで忘れていたのなら、嬉しいのだが。
その夜、指先まで宿った熱が引かないまま眠ったせいか、アスターはこんな夢を見た。
ベラドンナがベッドに座っている。暗闇の中なのに、なぜかその姿が浮き上がるようくっきり見える。至極くつろいだ白い寝衣も、解かれた髪の毛が世にも珍しい紅の川の流れをつくっているのも。
なんという親密な姿だろう。赤面を禁じ得ない。ずり上がった裾からのぞく素足から、ある種の強烈な力を感じ取り、アスターの血が騒ぐ。
そこに熱風が吹いた。ベラドンナが砂像のようにさらさらと崩れて消えたかと思うと、同じ場所に同じ姿勢で、首から上が曖昧な逞しい男が形作られた。
兄のように思ったこともあるからか、不思議とそれもベラドンナだとわかった。もしベラドンナが男だったら、彼女の父に似て、こんな体格になったかもしれない。本人はこんな容姿になったら喜びそうだ。
などと考えつつ、アスターは変わらずに熱心な眼差しを注いでしまわずにはいられない。
先ほどとは異なり何もかもが剥き出しだったので、礼儀からして目をそらすべきだったのに。
「アスター」
低いとだけわかる声に咎められた気がして、顔が、これ以上はないと思っていた温度よりさらに熱くなる。それでも頑固にしていると、ベラドンナが視線から逃れるように身を捩った。すると、今度はベッドごと崩れ、馬になった。かと思えば鳥になり、犬になり、羊になりと崩壊と変化を繰り返し、それぞれのやり方で鳴く。
それが本物と同じ鳴き声なのか判断がつかない。しかし、彼女らが一様にアスターと呼びかけてきているのだけはなぜか理解できた。
もう一度座った男になって、それから最初の女のベラドンナになって、動物たちの展覧会の終焉を知る。
「アスター」
ベラドンナは笑っていた。
その微笑みに未知の色を見、耳慣れた声に覚えのない黄金蜜の甘さを聞き取ったとき、アスターは悟った。
たとえベラドンナが人ではなくとも、アスターの傷ついて縮んだ心を癒してくれただろう。
だがこの肉体、皮一枚の下に煮え滾ってどこか暗い荒波を巻き起こすのは、人の姿をしたベラドンナだけなのだ。
目覚めたとき、アスターは一つ大人になっていた。




