(11) アスター、別れが近づく
楽園での時間は飛ぶように過ぎた。
あっという間にやってきた、十一歳を迎える年、居間にて、ベラドンナのリュートに耳を傾けながら、アスターは深呼吸をひとつして、告げた。
「秋から学園に行く」
「学園? 学校? 先生がいるのにわざわざ通うの?」
「たくさんの人と知り合うために。これでも僕はずいぶん出遅れているんだ」
「ふーん。ってことは馬車通学するの?」
「寮に入るんだよ。十八歳で卒業するまでずっとそこで暮らすんだ」
音楽が止まる。そしてまた流れ出す。
「あなたがいなくなってしまうのなら、私はきっと家に帰されるんでしょうね」
アスターは黙っていた。ベラドンナもそれ以上何も言わなかった。
それでベラドンナがすんなり別れを受け入れたのだと思い、内心大いに拗ねていたアスターは、二日後、ベラドンナから、公爵にアスターと同じ学園への入学を頼む手紙を送ったと報告されて跳び上がる気持ちになった。
「私の読み書きがあれで手紙だってライアに書いてもらったのは事実だけど、ちゃんと勉強すれば入学試験くらい受かる……はずよ。たぶんね」
「入学試験?」
「ないの? 問題解いて点数つけて並べて、上から数えて何人までは入ってもいいですよーって人数を絞るやつ」
「ない」
知を求める者たちの集まりである大学ですら口利きで入れるのだ。学園も、極論文字が読めずとも、家柄か金か、あるいはその両方が揃った者なら誰だって入れる。
そもそも勉学は精神の修養というごく個人的な目的のためにするもので、それ自体で競うための代物ではない。知識が必要なら専門家に頼ればいいと思う。
三男で当主にならないアスターでさえ、王子の身分にあったときは、学が深いのは美徳だが、人の上に立つ人間に何よりも欠かせないのは、その立場にふさわしい資質をそなえた人を見抜いて配置する能力だと教わった。学園の貴族の子供たちも同じ感覚だろう。
先生の授業でしばしば問題が設定されてそれに答えるが、それで先生が確認しているのはアスターの理解度であって、頭の良さではない。
それに何より、貴族の子が何をどれだけ学んだかに点数をつけて比較するのは、その子が師事した家庭教師の質、すなわちその家の人脈や財政の優劣を決めるも同然。無礼の極みである。
何があったらこんなに突拍子もない発想ができるのだろう。
しみじみ驚き呆れたアスターは、ふと先生の言葉を思い出した。
「あの方は不思議ですね。ご母堂を含めて師についたことはないと仰るのに、教えを乞う者にあるべき態度をご存じだ」
ベラドンナがリュートを習うようになって少しした頃だった。
「学問はその価値が理解できる選ばれし者のみに開かれた門ですが、その基準に血はまったく関係がありません。ご立派なご人脈やご先祖をお持ちの方でも、書斎の本を暖炉に飾ったくだらない絵皿と同じ装飾品と見なす馬鹿がいれば、我が親族にも本を売れと言語道断な世迷言を厚顔無恥に騒ぎたてる阿呆もいます。それに比べればあの方のように自主的に学ぶ女性の方がずっとましだ。彼女らの頭が男と同じ高度な学問に耐えられる作りでさえあれば、この世の知はますます発展したでしょうに」
ベラドンナや母の頭の出来が悪いとの発言が聞き捨てならず、性別による知能の違いの根拠について質問責めにして自明の理だと怒られたのはさておき、大事なのは、少なくともアスターより物知りな先生をして、ベラドンナは何か違うと言わしめた点だ。
だからアスターも公爵にベラドンナを援護する手紙を書いた。一緒に通いたいとの素直な願望が最大の理由だが、素敵に普通じゃないベラドンナにとって、慣れ切った彼女の屋敷にいるより、学園でたくさんの人や物に触れる方が新鮮で楽しいだろうと思ったのだ。
公爵からの返信はすぐに来た。
「やっぱり私もここを出なくちゃいけないのね。学園には十五歳になったら行ってもいいって? 四年も待つの? 長過ぎるわよ」
ベラドンナの軽快な文句を相槌に公爵の手紙を読み上げながら、アスターは、シオン様もお前の入学を望んでいる、期待以上に仲を深めたようで何よりだとの満足気な筆致に、何となく嫌な感じを受けた。
それからベラドンナはいつもと変わらない様子だったのだが、アスター出立の三日前、昼食のあとから姿が見えなくなった。ライアがちょっと目を離した隙に消えてしまったらしい。アスターは玄関のホールから地下の貯蔵庫まで探し、屋敷の中にいないと判断して、ローワンについてこないよう言って外に出た。
夏の近づきを感じさせる快晴だった。視界のすべては水の底に沈んだように静止していて、前庭の花を気に入った蜂ばかり、羽を唸らせて忙しく飛び回っている。
落ち込んでいるのか悪戯心が騒いだのか、ベラドンナならどこへ行くか、推測してみる。
考えた末、アスターは木々の中でもとりわけ立派な樫の木へまっすぐ向かった。
予想は当たり、地面とほぼ水平に伸びている太い枝にベラドンナはいた。幹に背を預け、枝を跨いで足を垂らし、何を眺めているのか、ぴくりともしない。
「ベラ」
葉擦れはない。声はかき消されてはないはずだ。アスターは返事を待った。
「一人でいいからここにいたい」
やがて、ベラドンナの、木の葉を落とすような呟きを拾った。
「戻りたくない。あそこには。誰も私に興味はないのに私が私でいられなくなる。誰のせいでもないけど辛い」
ベラドンナはこちらを向かない。アスターは幹にかけていた手足を戻した。
「行くなよシオン。行くな」
いっそ落ち着いていたが、それは確かに悲鳴だった。膝を抱えるベラドンナが本当に小さく、小さく見えた。
目頭が熱くなった。
自分は何を勝手に拗ねていたんだろう。性格の似ていない部分なんかいくらでも数え上げられるのに、どうしてベラドンナはこんなところはアスターと同じなんだろう。
アスターも辛い現実には戻りたくない。ここでずっとシオンとしてベラドンナと一緒にいたかった。
でもそれは、ようやく訪れた、ベラドンナが今までで一番広い世界に触れる絶好の機会を我欲のために潰すということだ。ベラドンナに教養も常識も与えず自分の都合に従わせた公爵と同じになるということだ。そして、そんな風に思うのは我ながら驚きだが、アスターとして世に出て汚名をすすぎ、愛する母に誇れる自分になるという険しい道から逃げるということだ。
アスターは衝動のままに叫んだ。
「ベラ。ベラドンナ。僕は君が大好きだよ。ここで君と過ごしたことは僕の宝物だ。離れていても君のことをずっと覚えてる。絶対に忘れない」
言葉を重ねるほど空々しく響く気がして焦る。それでも他に言い様がなくて、アスターは愚直に伝え続けた。
「本当なんだ。だからベラ、僕らはまた会えるから、どうか悲しまないで」
アスターは、軽挙妄動で母と第二の母の思いやりを台無しにして、この国の王太子を殺したバンナンの血を引く者として実父に憎まれ、宮廷人に侮られ、彼らだけでなく使用人にまで怯えてへつらうような情けない庶子である。
それをベラドンナが何のしがらみもないシオンにしてくれた。そしてシオンに教えてくれた。
自分のために生きるということは、極論を言えば我が儘に生きるも同然なこと。目的達成のためには一旦あらゆる手段を検討すべきであること。自分で一番自分を愛すこと。そこまで勝手を通すのに、必要なのは強い意思であり、誰の許しもいらないこと。そうある人は、ときに憎たらしく、ときに眩しく見えること。そして何より、生を謳歌する喜びを。
事ここに至っても、いや、だからむしろベラドンナに真実を告げられない卑怯者の自分だが、感謝の念だけは一切の偽りを受けつけない純白のまことである。この思いをもれなく伝える術をアスターが持たないのがもどかしい。
もし心が手で触れて目に見えるものだったなら、この胸から掴みだして、ベラドンナの前に捧げてみせたのに。ここに来たときの石塊から、蜘蛛の巣についた虹色にきらめく雨の雫、固い芽鱗を破って萌え出づる透き通る新緑の若葉、生まれたての仔馬の繊細な腹の毛のように、柔らかく、だが強く、瑞々しくなったろうこの心を。
今のアスターがいるのは何もかもベラドンナのおかげだとわかってほしい。そしていつものように、得意満面で胸を張ってほしかった。
「お菓子も全部あげるから……!」
「……あんたの中での私の扱いがよーくわかったわ。お菓子って」
だからアスターは、返ってきた声の調子が悲しみではなく呆れに染まっているのを感じて嬉しくなった。ひらりと木から降りて、アスターの鼻先に指を突きつけてきたベラドンナが、ふざけて怒っているような表情をしていたので尚の事。
「くれるんだったら貰うわよ。でも私の好きなやつだけで勘弁してあげるから、自分で言ったことはちゃんと守りなさいよ。でないとほんとに許さないんだから」
「君と僕の名に誓って」
これ以上簡単に守れる誓いもないとアスターは微笑んだ。夕陽を眺めるときだって、シオンは必ずベラドンナを思い出すからだ。




