(10) アスター、思い出を重ねる
それからの毎日は何にたとえられるだろう。
やってきた教師は最初の授業で開口一番「公爵閣下にはなるべくアプレが悪い国でバンナンがいい国だと誘導するよう頼まれたので、何か聞かれたらそういう授業を受けている体で受け答えしてください。さもないと私が路頭に迷うので、伏してお願い申し上げます」と言い放ったつわものだったので、アスターはあれこれと情報を疑いながら勉学に励んだ。
「一緒に勉強しない? 先生のお話はとても面白いよ」
「いいことを教えてあげる。勉強は大事だけど、それを楽しめるのは才能なのよ。そしてあなたはその素晴らしい才能を持った人。誇りなさい」
「となると君の才能は、思ってもないことをもっともらしく言うことかな」
「決まってるでしょ、足の速さとこの美貌よ。でも音楽は楽しそうだからやってみたいかも。そっちの才能も開花するかもしれないわ」
「それもいいな! ベラの歌ならぜひ聞きたい」
「流したな? まあいいけど、お父様には内緒ね。私のために女の先生を呼ばれたら、たぶんその人授業どころじゃなくなるでしょうし。それであなたの勉強以外に無関心な素晴らしい先生に聞いてみてよ。友達を誘ってもいいですかってね」
先生は承諾してくれたので、アスターとベラドンナは肩を並べてリュートを爪弾いた。たまの雨の日に一緒に練習することもあった。
木々が紅葉する季節には、羊を始め家畜の世話をしている村の子供たちと知り合った。ベラドンナとの散歩中に彼らが、ローワンたちもいたのにこちらの身分がわからないのか、柵の向こうからお似合いだとからかってきたのを、ベラドンナがひょいと柵を乗り越えて猛然と追いかけ回したことがきっかけだった。
その乱闘から何日かたったある日、こっちの始まりは何だったか、十中八九ベラドンナがケンカを売るか買うかしたのだと思うが、いつの間にか羊乗り対決をやる話が進んでいて、アスターもベラドンナ陣営での参加が勝手に決まっていた。
雄羊になるべく長く乗っていられた人が勝ちという度胸試しだ。この時期の雄羊は気が立ってるから、アスターは近づいて乗るだけでも苦労したのだが、乗ったあとでも後ろ足を跳ね上げたと思えば胴を振るい、とにかく背の腹立だしい荷物を捨ててやらねば気がすまぬと暴れに暴れて大変だった。
あとからベラドンナに興奮気味に言われたことによると、全員アスターの奮闘に勝負を忘れ、一丸となって応援していたらしい。
アスター自身としては、命の危険をひしひしと感じて無我夢中だったのでそれどころではなかった。とうとう手が緩んで落下し、その勢いのまま転がり逃げた先で、ようやくベラドンナたちの喝采が耳に届いたのだった。
「わはは! 最高よシオーン! 私たちの勝ち!」
「すげえよお前! かっけえ!」
アスターは芝の上に寝たまま片手を上げた。達成感を味わいながら見る空はひたすら高く澄んでいた。
曇天ばかりの気鬱な季節には、朝も夜も、石材がせっせと放ってくる冷気と真正面から組み合ってくれるローワンたちの存在がしみじみとありがたかった。
雪にはしゃぐ動物たちをベラドンナと眺めていたら、村の子供たちとかち会い、追いかけっこが始まった。
最初は平和にやっていたのだが、だんだん雪玉が飛び交うようになり、最終的にはアスターとベラドンナがその他全員から集中的に雪玉を浴びる羽目になった。
髪を濡らして顔のあちこちを真っ赤に染めたベラドンナが、不意にキッと子供たちを睨みすえ、大音声で叫んだ。
「ライア! ローワン! 加勢しなさい!」
間を置かず登場した二人を見て、向こうのリーダーが目を丸くした。
「大人呼ぶなよ! ずるいぞ!」
「うるさいバーカ! 先に仁義を欠いて多勢に無勢の状況に持ち込もうとしたのはそっちでしょ。私悪くなーいすごく賢ーいそんであんたはアホのアホ」
「はあーっ!? ふざけんな! おいシオン、そいつ何とかしとけよ!」
「ごめん。僕の手には余る。それに僕も助かるんでね」
二人に割を食わせるのはアスターも申し訳ないと思ったが、ライアは意外な特技で雪玉を叩き落とすのがうまく、ローワンは背が高く身なりも良く年もそれなりにいった男で子供たちには狙いにくいらしく、どちらも盾として優秀だったので、アスターはやがて反撃に熱中してその気持ちもどこかへいってしまった。
そうなると狙った通りに当てられるアスターが有利で、とうとう最後の一人も降参し、ベラドンナが高笑いする。
「またまた私たちの勝ち! わかる、シオン! ケンカってのはこうやってするの! 人に頼る! 使えるものは使う! 勝てば官軍、全部許される!」
「参考にするよ。君もローワンとライアにお礼を言って」
「そうね、言ってくる!」
子羊や子馬が生まれる時期には、アスターの遠回しの拒絶を自分の都合のいいように解釈するベラドンナの自己中心的な部分が目に余り、喧嘩になった。
「あのさあ、言いたいことはわかったけど、正論って耳に痛いのよ。もっと私が聞く気になるように言って」
アスターは唖然とした。非があるのは間違いなくベラドンナなのに、このふてぶてしさと偉そうな要求はどうしたことか。彼女に驚かされるのはこれで一体何度目だ。
「改善するべきは君のその、僕が正しいと理解していながら反省のない態度だろ。自分にとって不快なものを尽く拒絶することを良しとするのは自尊の履き違えであって」
「あーあー正しい正しい。正しくて聞こえなーい」
「嘘だろ……」
「言っておきますけど残念ながら世の中には私みたいな人間性の人はわんさかおりますからね。シオンは相手が善良で聞き分けのいい人だって前提で話すのやめた方がいいよ。傷つくだけだから」
「そうやって助言のふりで僕の口を塞ごうとするのもやめた方がいい」
「いやまあ、確かにそのつもりもないではないけど。でも頭の片隅にその可能性を置いといて。変わるつもりもない、変わることができない人間もいるってことを。そして私に優しくして」
「最後の一言を言いたいだけじゃないか? そんな言い訳で自分の欠点を直す努力を放棄するのはよくないよ」
「あの……、いえ、はい……。ごめんなさい……」
そしてまた来た一年の中で最も明るい季節の、何事もない夕食の席。
食後に、ベラドンナだけ強硬にカステラと呼ぶ菓子が出た。綺麗に焼き色がついた表面には、その柔らかさを示すようにしわが寄っている。生地はしっとりしていて、中心が半熟のとろりとしたクリームになっている。
「ね、シオン」
いつものことなので、呼ばれるだけでベラドンナの要求がわかった。
甘いものは好きだが、執着はない。習慣に従ってベラドンナに半分あげてもいい。そして同時に、あげなくてもよかった。
選ぶ権利はアスターにあるのだ。
「だめ」
ベラドンナの反応といったら、目の前でおやつを奪われた犬のようだった。
「きゅ、急にどうしたの。あなたずーっと私にわけてくれてたじゃない」
「だめ。これは僕のだ」
「……最近のシオンは本当に食いしん坊になったわね」
「そうだね。ここで食べるものはどれもおいしいから」
アスターは菓子をちぎって食べた。卵の風味と砂糖の甘さが口の中に広がり、心を満たす。
「……それもおいしい?」
「君の悔しそうな顔を見てるとなおさら」
「シオンが意地悪になっちゃった……!」
「君のせいだよ」
「人のせいにしない! ああ、私のカステラが……!」
「大丈夫、元から僕の分だ。君は何も失ってない」
「最悪だ。何も言い返せない……」
ベラドンナがうなだれる。アスターは声を上げて笑った。
空腹とともに目覚め、しっかりと食べ、誰の存在にも怯えず自由に話し、怒り、走り、地面に構わず寝転がって一眠りもする。
アスターは図太くなった。ベラドンナのせいだった。




