(9) アスター、ベラドンナを信じる
ベラドンナは難題を突きつけたつもりはなかったろうが、アスターが意思表示を習得するのには時間がかかった。怖気づいて前言を翻し、そっちが本音だろうとこだわるベラドンナと、違うと言い張るアスターで言い争うこともしばしばあった。
アスターは何度もこの練習をやめれば嫌な雰囲気にならないですむと諦めかけたが、ベラドンナは粘り強くアスターがどうしたいかを問いかけてきた。
なぜこんなに親身になってくれるのだろうと訝しく思っていた、ある日のこと。
アスターたちは馬場にいた。ベラドンナは自分の鞍がようやく出来たと嬉しそうにしていた。
これが初めての乗馬らしいベラドンナは、調教師の指示を聞いて、よいせと馬に跨った。
横乗りではなく跨ったのである。アスターは大慌てで体ごと後ろを向いた。
「何シオン。虫でもいた?」
「虫じゃなくて裾! 乗り方!」
「何? これであってるでしょ。……ああ、もしかして、足? ちゃんと履いてるから大丈夫よ。大げさねえ」
そうベラドンナに笑われたのは、馬鹿にされたと傷つくほどのことではなかったが、きまりが悪く、アスターはつい憎まれ口を叩いてしまった。
「大げさじゃない。女の子は普通そんなことしないから変なのはベラだよ」
「……ふつう」
息が止まった。彼女の声音は、ごく短い一言でも、何か失敗したと十二分にわかるほど異様だった。
「なんでこの私が、女だからってこれ以上自分を曲げなくちゃなんないのよ。そうせざるを得ないちゃんとした理屈があるわけ? あるなら教えてくれよ。見せるなってお前らがうるさいからわざわざ足を隠してあげてんのにこうして乗っちゃいけない筋の通った理由ってもんを」
威嚇にも似た低音が示す、燃えあがる怒りに炙られながら、アスターは必死でベラドンナの質問について考えた。
アスターがアルメリアや母のドレスにもぐったときは、女が足を出すのは特にはしたなく、恥ずかしいことだから、紳士たる者何を置いても女の足を見てはいけないと叱られた。
つまり足そのものは隠されており、ベラドンナ自身が平気ならアスターも見てもいいはずだ。いやしかし、たとえば本人が全裸でも平気だからといって誰の前でもすべてを晒したままにしてもいいかといえば否だ。それでは周りが困ってしまう。
本人が機会がなかったために恥を恥と認識できない場合もある。それなら物笑いの種にされる前にそれを教えてやることこそが思いやりだろう。
その点ベラドンナは、足という部位が持つ意味を理解した上で、できる限り隠す妥協もし、さらに自分の行いを非難される覚悟があるようだ。
ベラドンナは彼女の希望と常識を最大限すり合わせている。そこに確固たる意見もないアスターが今さら何を賢しらに物申せよう。もしベラドンナが後悔するような未来があれば寄り添う。アスターにできるのはそのくらい精一杯で、ベラドンナもきっとそれを望んでいる。つまり、この場の正しい解答はこう。
「ない、かも。いや……ない」
絞り出した結論は、ベラドンナを満足させるものだったらしい。彼女の眉間が緩んで、顔の強張りもなくなった。
「ごめんね。神経質になってたの。そのことでライアを説得するのに本っ当に骨が折れたから、またやんなきゃいけないのかとうんざりしちゃって」
視線をそらしたベラドンナが調教師に話しかけると、調教師が馬を引いて歩き出した。そうやって向こうから離れてくれたので、ようやく緊張が切れる。
とはいえ馬場にいる間、アスターはベラドンナの一挙一動に左右されてしまい、彼女から今日は別行動と言い渡された。
何かしらの報復がないか戦々恐々としていたのだが、一晩寝たらベラドンナはけろっと機嫌を直しており、「なんか顔色悪い? 怖い夢でもみたの?」と軽く聞いてくるので、アスターは取り越し苦労に苦笑する羽目になった。
この一件の影響は大きかった。
まずベラドンナの付き合いがいい謎が解けた。アスターへの親切というより、彼女自身が我慢ならないためなのだ。
ベラドンナは彼女なりの論理に従って生きたいのだろう。間違っているのは世間であり、本心では自分が正しいと信じているところを、ライアの意見などを聞き入れて、渋々自分を曲げているから、これ以上何も譲るものかという鬱憤が、些細なきっかけで噴出するほど常に蠢いている。それゆえ、他人のアスターの遠慮まで我が事のように癇に障って放っておけないのだ。
さらに、ベラドンナの怒り方が判明したことが、アスターに安心を与えた。あの瞬発力で怒る人の怒りを初めて見たということは、これまで彼女が本当にアスターのあらゆる行動に気を悪くしていなかったとの証明であったし、腹を立てるにも理不尽な理由ではなく、自分が悪いと思えば謝って、そのあとにも気を遣ってくれるともわかった。これでアスターは、ベラドンナの機嫌を損ねたくないばっかりに、目隠しをしたまま落とし穴が散らばった場所を歩くような思いをしないですむのである。
試しにアスターは、何回かに一回は勇気を奮い起こして、しつこく疑うなと怒り、しっかりと拒絶してみた。それでもベラドンナは一度も馬場でのように激怒しなかったので、ますます大丈夫だとの確信を強めていった。
その頃、公爵が訪ねてきた。これから定期的に訪問するつもりだが、長くは滞在しないと言う。
「エデルワイスはいかがでしょうか。何かお気づきの点がございましたら、おうかがいいたしますが」
「皆にはよくしてもらっています。感謝の念に堪えません」
「それはよろしゅうございました」
そして公爵の視線が、壁際にかしこまって控えていたベラドンナに移る。
「シオン様によくお仕えしているか」
「もちろんですわ、お父様」
アスターは声を出さなかった自分を褒めてやりたかった。
しかし公爵は、ありえないほどベラドンナらしからぬ猫被りの応対になんら違和感はないらしく、義務は果たしたと言わんばかりに再びアスターに話しかけてくる。
「遅くなりましたが、間もなく教師が参ります。王宮の賢者とも勝るとも劣らぬ指折りの教養を備えた者を選びましたのでどうぞご安心ください。何しろ凋落しているといえど彼の家名は――」
他にも人がいるにもかかわらず、自分一人だけに関心を払われるというのはまったく気分のいいものではない。特にそれが本来優先されるべき人の前だと。
羞恥と申し訳なさに心を痛めつつ、公爵の娘を伏し目に盗み見る。
「んぐっ」
「おや、いかがなさった」
「すみません。咳が出そうだったのです、お気になさらず」
公爵が再開した、派遣される予定の家庭教師がどこの大学を出たかなどの説明を聞いているふりをしながら、精一杯我慢しようと思うのに、つい視線が横に流れてしまう。
なにせベラドンナが歯茎を剥き出しにしているのだ。かと思えば舌を出して不愉快さをこれでもかと表現している。
ベラドンナのおかしな遊びの時間はさすがに短かったが、彼女が何事もなかった風におすまししても、アスターの脳裏にはその変顔がちらついて、公爵と真面目に話すのに苦労した。
そこでアスターは公爵が退出するやいなや、気まずそうなベラドンナをたしなめた。
「あのさあベラ、笑ってはいけない場面で変なことをしないで」
「え? あっ、そっちね、あー……ごめん?」
「困るから。二度としないでね」
繰り返すと、ベラドンナが開き直って肩をすくめた。
「悪かったわよ。薄情なお父様の話なんか真面目に聞いてられないわよ。内容だって自慢ばっかりでつまんないし、ちょっと何よその顔は。よしてよね、私はお父様に構われなくって助かってるんだから。うまく説明できないけど、私はお父様を騙しているような面があって。でもああいう人だから罪悪感を抱かなくてすんでるけど、貸し借りはそれだけなの」
話しながら、なぜかベラドンナの声の調子が下がっていき、ついには体を背け、ためらうように俯いた。その動きに従って髪が駒鳥の尾羽の形に広がり、表情が隠れる。
「だから……その、別に、あの人に言われたからあなたに付き合ってるってわけじゃないのよ」
一瞬理解に詰まった。それほどベラドンナの釈明が予想外だった。しかし言われてみればもっともで、公爵のあの発言がなくとも、ベラドンナが公爵の指示でアスターと仲良くしてくれている可能性をこれまで疑わなかったのはむしろ不自然だ。
なぜだろうと考えて、初めて会ったときのベラドンナを思い浮かべてみると、不思議と鮮やかな像を結べた。あの上気した頬。友達になってとの弾んだ申し出。
すぐにわかった。ベラドンナの本心が伝わる要素はいくつもあった。アスターはあの瞳の輝きを信じたのだ。
「考えたこともないよ」
我知らず呟いて、はっきりと言い直す。きちんとベラドンナに伝えるために。
「考えたことなんかない」
ベラドンナはアスターに向かって、はにかんだように小さく笑ってくれた。その微笑がほのかな光を放っているように、アスターには見えた。




