(6) アスター、夕陽と出会い
宮廷人からすれば放逐であり、アスターからすれば解放であるその瞬間は、季節が一つ進んだころ、コルチカム公爵という男によってもたらされた。
コルチカム公爵を世襲するオータム家は、古い時代の王の庶子が興した家なので、王族とは細い繋がりがある。それを根拠に、親戚と主張して、王の不興にも構わずアスターの後見人として手を挙げたらしい。これは定例と化したマジュス卿との面会で聞いた。
さらには王の所有する城をアスター用にもらうのではなく、自前の屋敷へアスターを招くという。
これは会いに来たコルチカム公爵本人から聞いた。彼が何事かを調子よく話している間、アスターは、マジュス卿の顔の印象が金の三角だとしたら公爵は赤の四角だなとくだらない考え事をしていた。
「今は雌伏の時です。陛下は頭に血がのぼっておられるが、冷静になれば必ずやあなたの権利を回復なさるでしょう」
「僕もそう期待しています」
「そのようにお心を強くお保ちになることです。エデルワイス邸には必要なものはすべて整えました。話し相手もおります。それでも足りないものがあればどうぞお申しつけを。何でもご用意しますので、どうか投げやりにならず、涵養の期間として穏やかにお過ごしください」
「何から何までありがとうございます」
などと相手を気持ちよくさせるためのやり取りをして向かったのは、避暑地にはもってこいの風光明媚な地であった。
古くからの保養地らしく、道の作りが古い。アスターを乗せた馬車は、夕焼けの下、ぽつりぽつりと馬がいる広大な草地を貫く長い坂道を順調に登っていく。
灰色の石でできた屋敷につき、ぎこちなく馬車から降りたアスターは、荷物を降ろすここの従僕を横目に、長旅で強張った体を解すべく歩き出した。
前庭にはあまりに伸び伸びと草花が茂っている。庭師がいないのかと訝ったが、注意して観察すると、石畳の隙間はどこも綺麗にされている。
つまりそういう様式なのだ。整然と刈り込まれた緑の生け垣が主な王宮の庭園とはまったく重ならない庭。そして振り返れば一面の緑。ゆっくり小さくなっていく馬車。大空と薄雲を真紅に染め上げて、眼下に広がる紫に染まった湖に沈んでいく、とろけるように赤い夕陽。
本当に遠くへ来たんだ。
胸に迫る絶景を共有する相手がいない現実に、初めてそんな実感が起こった。
母とアルメリアはもう山の向こうに行ってしまった。アスターはこれから一人、訪れる者のなく、終わりの見えないこの地の寂しい暮らしに立ち向かうしかないのだ。
それでも爽やかに吹く風に、細く長く息を吐いて、アスターは踵を返した。
ところが、悲壮な決意を胸にホールへ入った彼を出迎えたのは、子供の弾んだ声だった。
「やっぱり人が来てたのね! 絶対配達だけじゃないと思ってたのよ」
驚いて顔を上げると、開けっぴろげな笑顔が目に飛び込んできた。
肩口でついさっき見た夕陽のように鮮やかな髪が踊っている。気の強そうな瞳は琥珀。よく似合う白いドレスの、裾に施された花の刺繍を翻しながら、アスターと同じくらいの可憐な少女が奥の扉から飛び出して駆け寄ってきたのだ。
夏の太陽はのんびりと空を渡るため、外が明るい今も、時間としては深夜に近い。それなのに起きているのも驚きだが、そもそもこの少女の存在が疑問だった。
屋敷の差配人は公爵である。彼の目を盗んで身元の怪しい子供が上等な服を着て我が物顔で住んでいるはずはない。すると当然少女は公爵に滞在を許されていることになる。
公爵が言っていた話し相手は、慣例からして大人だろうから、その人が気を利かせたつもりで娘を連れてきたのだろうか。
前に会ってみた子たちとは雰囲気が違うが、中身はどうせ同じだから嫌いだ。遅かれ早かれ庶子だ何だと馬鹿にしてくるに決まってる。
もともと気分が沈んでいたところに不意打ちの追い打ちである。
アスターは心底うんざりした。
話し相手か公爵に言えば連れ帰ってくれるだろうが、それまでアスターは、ここまで追いかけてきたさらなる王宮の悪意と戦わなければならないのだ。
「あなたは誰? どうしてここにいるの?」
しかしそんな内心を隠して身構えたところへ少女が発したのは、到底信じられない疑問だった。
礼儀も忘れてその顔を凝視したアスターは、彼女の澄んだ瞳に好奇心がきらめくのを見た。
電撃のように悟った。この子はアスターを知らない。誰もが愛したこの国の王太子を殺したバンナンの孫の顔も名も知らない。
その事実はアスターの立ち尽くす絶望の谷底へ明るく射しこむ光であった。
現在の自分の苦難の半分は、会ったこともない祖父のせい、つまりバンナンの血のせいだ。
それさえ隠してしまえば、この少女の前だけでも、アスターは生まれて初めて何の因果も背負わぬ普通の人になれる。
母を愛している。アルメリアを愛している。自分の出自について黙すのは、その生まれを誇りに思っている彼女たちへの裏切りだと理解している。でも本当にアスターは、自らこの奇跡を破壊し、重過ぎる荷物を進んで背負いにいかねばならないのだろうか。
少女が貴族でなかったとしてもどうでもいい。喉がひどく渇いている。アスターの頭から、本名を名乗る選択が、おもむろに薄れて消えた。
「シオン。僕はシオンだ。君は?」
「私はベラドンナ・オータムよ。ねえ、あなたはどうしてここに来たのか知っている? お父様もお母様も何度聞いても話してくれないまま私一人ここに行かされたのよ。私が根っからの子供だったら捨てられたのかって怯えてもおかしくない仕打ちよね。とりあえず説明してくれたらいいのに。最初からどうせ理解できないと決めつけられるのって、それが正しいとしてもやられる側としては面白くないのよ。あなたもそう思うでしょ、ねえ、聞いてるのシオン?」
「うん」
反射的に返事をしたが、聞き取れたのは最後の質問だけだった。
嘘をついた緊張もあったが、母のおっとりした話し方以外なじみのないアスターにとって、この少女の勢いと言ったら立て板に水どころか崖の滝。とにかく圧倒されてしまい、頭に入ってこなかったのだ。
公爵は、言葉を選ばずに言えばもったいぶった口調なのに、娘はこうも率直なのがアスターには不思議に思われた。だが彼女に父親を彷彿とさせる部分が少ないことは嬉しかった。
「念のためにもう一度お聞きするけど、あなたはどうしてここにいるの。私がここにいる理由も知ってたりする?」
「……もしかしたら、僕のせいかもしれない。コルチカム公の紹介でここを引っ越してきたんだけど、そのとき親から離れて僕が一人で住むと言ったから」
「それでお父様はあなたに気を遣って私を送りこんだってこと? 私は猫の子じゃないのよ。あなたがお父様にとってどんなに大事な方かは知らないけど、あなたにはそんなに優しくするくせに、どうして自分の娘にはその十分の一も配慮してくれないのかしら。嫌なお父様だこと」
「ごめん」
「あなたが謝らなくていいでしょう。あ、でもそうね、あなたがどうしてもお詫びをしないと気がすまないって言うなら、すごく簡単なお願いがあるのだけど」
ベラドンナがにっこり笑った。
「私と一緒に遊んで!」




