(5) アスター王子、多くを失う
年が変わって早春。ローレルが死んだ。
大国デュベリとの戦の最中、今度こそと約束したバンナンの援軍を待って撤退が遅れたために深く攻め込まれ、流れ矢に当たって命を落としたという。
戦地からこの王宮に移された兄の遺体が、群衆に見送られながら、長大な葬列を伴い四頭立ての霊柩車で歴代の王族が眠る寺院に運ばれるのも、その寺院で盛大に催されるだろう葬儀の様子も、アスターは知らない。母と共に参列を許されなかったのである。
だから皆が去ってがらんとした王宮の聖堂にて、その寺院の長く尾を引く弔鐘の響きを聞きながら、足元から忍び寄る冷気に耐えて兄の安らかな眠りを祈る間も、その死に現実感を持てなかった。
アスターはまだ狩りの経験がなく、弓を手にしたことはないが、強弓の使い手なら矢で鹿どころか鎧さえも射抜けるという知識は持っている。だが、それにしても信じられなかった。大木のごときあの兄が、たかが矢の一本で倒れたなんて。
国ぐるみで大きな芝居を打っている可能性を捨てきれない一方、アスターは、馬のように周囲に耳をそばだてるのをやめられなかった。
兄の死の責任をバンナンに求める人々が、怒り狂って背後の扉からなだれ込んでくるのではないか。
王の命令を受けた衛兵が、アスターたちを処刑場に引っ立てるべく縄を手に入ってくるのではないか。
アスターの頭の中央にどっかと居座った恐怖がそんな風に騒ぐから、兄のために集中したいのにどうしても注意が散漫になる。
すると兄の弔いより自分の身がかわいいのかと自己嫌悪が起こり、余計に心が乱れる。悪循環だった。
虫食いの無残な祈りを捧げた数日後、寒の戻りが厳しいある日、何の前触れもなく、暗い服に痩身を包んだ影のような男が、他にも人を引き連れて王妃の間に現れた。
格式張った物腰とその鷲鼻から、アスターにもすぐに名前がわかった。マジュス卿である。
「どうしましたマジュス卿。あなたと約束はなかったはずですが」
「申し訳ありません殿下。何分火急の用事でございまして」
マジュス卿は母に書面を提示した。それをさっと読んだ母の顔色がはっきり変わった。
「これは……! 何故ですか、こんな道理が通るはずがありません!」
「まったく同じ意見です。しかし残念ながら私では陛下をお止めするには力が足りず、せめてこうしてお迎えにあがった次第でございます」
「そんな……ああマジュス卿、あなたならアスターを悪いようにはしないとは信じていますが、それでも、ああ、あの方はここまでわたくしを……!」
マジュス卿の背後の強面の男たち。恐慌をきたしているといっても過言ではない状態の母。それらがすぐに聖堂での妄想に結びつき、アスターは青褪めた。
「おか、お母様……」
母が弾かれたようにこちらを向いた。そしてきつく抱きしめてくる。同じくしがみついた母の体から戦慄きが伝わり、アスターの心臓まで震えだす。
「アルメリアはこの子につきますね?」
「いえ殿下。彼女はあなたの腹心でありますれば」
「マジュス卿、こんなことを申したくはありませんが、あなたは規律と道徳を過信しています。この王宮でこの子を一人にすれば、どんな目に遭わされるか」
「恐れながらあなたは過剰な心配をされておられる。その方は陛下のお子ですぞ」
「わたくしの子でもあります。バンナンの王女たるこのミムラスの! 今この場所でこれが何を意味するかわからないとでも!?」
「では故にこそ離れてお暮らしになることをお勧めいたします。あなたのそばにおられるからこそ、人はその半分の血の源を意識せずにはいられぬのかと存じます」
ふっと母の腕が緩んだ。見上げても首元しか視界に入らない。
「わたくしのせいだったの……?」
「あなたがその方にこの上なき庇護をお与えになったのは疑いの余地はありません。しかし、そういった一面があるのもまた事実かと」
母の呼吸を奪って重苦しい沈黙が出現する。それに見つかればアスターもただでは済まない気がして、必死で息を殺す。そのうち去る気配がないと悟り、さらに母の懐に隠れようと身を縮めたら、優しく、だがしっかりと母に両肩をつかまれ、引き離された。
母の指が肩にかかるこの感覚と、向き合った顔つきに、自然と背を伸ばした。なにせずっと重要なことはこうして言い聞かされてきたのだ。
「アスター。私の大事な子。何があっても、どこにいても、母はあなたを愛しているわ」
母の眉間にはしわが寄っていて、笑みをかたどる唇は微妙に引きつっており、アスターと同じ薄紫の瞳が濡れている。しかしその視線は、圧倒されるほど強く、真剣である。
なぜそんなことを言うのだと聞けなかった。母は美しかった。
無言をどうとられたのか、立ち上がった母は、もうアスターから離れていた。
「マジュス卿、いえ、プラティコ・グランディ。わたくしに誓いなさい。お前の名にかけてアスターを守ると」
「誓いましょう。ご子息のお命は私がお守りいたします」
「お前」
「まさに今、子から母を奪おうとしている男に差し出せる誠実はその程度にございます」
「……だからあなたは偏屈だと言われるのですよ。さあアスター、あの捻くれ者のところへお行き。アルメリアともお別れです」
背を押されて焦る。
「僕だけ? どうして、お母様は? アルメリアは?」
誰も答えてくれなかった。
マジュス卿の取り巻きが寄って集ってアスターを連れて行こうとしてくる。頑強な手は振り払えず、踏ん張ろうとしてもまったく通用しない。なんとか首だけで振り向くと、母は動かずにアスターをじっと見つめてくるだけだった。
「お母様、お母様! アルメリア!」
「さようならアスター」
「なんで、アルメリア、お母様っ、おかあさまーっ!」
どんなに叫んでも暴れても無視されたまま、誘拐同然で運ばれたのは、王妃の間から離れた部屋だった。
すでに空気が暖められており、温かい飲み物もすぐに出てきたので、初めからこうするつもりだったとわかる。
アスターは肩を怒らせてマジュス卿を睨んだ。
「もういい、お前たちが僕をもうお母様に会わせる気がないのはよくわかった。だがせめてもっと詳しく教えろ。何が起こってるんだ。陛下はお母様に何をした!」
「軽々に話せるものではありません。これはアプレの一大事なのです」
目の前が真っ赤になった。思い切り巻き込んでおいて、今さら何をほざくのか。アスターを、増水した川にたまたま落ちて揉まれただけの無力な落ち葉だとでも思っているのか。違うだろう。アスターは無関係な被害者ではない。この国を守る者の子であり、この国を継ぐ者の弟であり、この国の支えになるはずの人間。何よりそう導いてくれた王妃ミムラスの子、それが自分なのに。
アスターは吠えた。
「僕は王子だ! 貴様と同じこの国の盾なのだぞ! ならば国の大事は我が事も同然! いい加減そうやって僕の頭越しに話すのをやめろ!」
何を考えているかわからない表情でひとつ瞬き、マジュス卿は言った。
「仰せの通りに。アスター殿下」
彼はその一言を偽りにしなかった。信じられないほどこまめにアスターへ連絡を運んでくれたのである。しかも本人が直々にだ。それゆえアスターは、ほとんど毎日この陰気だが真面目な男と顔を突き合わせることになった。
卿曰く、兄の死に怒り狂った王は、母との離婚を表明したそうだ。
すなわち婚姻の無効である。これが成立すると、最初から二人は婚姻関係になかったとして、アスターは嫡出子から庶子に転落し、王位継承権を失ってしまう。つまり国内の王位継承者は、女子は除かれるため、十四で未婚の異母兄バーチだけになる。
後継ぎ以外に男子がいない家は珍しくないが、運命の流れとしてそうなったのと、自らそうするのはわけが違う。泡を食った臣下はこぞって王を説得しにかかったが、母を擁護するのかとかえって怒りに火が注がれ、王は頑なになっていった。
このままでは、後妻選びに一枚噛みたい者どもが、ひと息に話を進めるため、混乱に乗じてアスターを消しにかかるかもしれぬと案じた臣下の一部は、ひとまず離婚の交渉を支持する代わりに、王にアスターの保護を要請した。離婚の意向と保護を母に通達したのが、あの日のマジュス卿が携えた書面であった。
臣下たちは長丁場を覚悟していた。子を産むことを第一の責務としている高貴な女性が、きちんとそれを果たしてみせたのに、突然すべてをひっくり返されるのは耐え難い屈辱だろうと予想したからだ。
しかし母が粘ったのは、それなら我が子を連れていけないかという一点だったらしい。
針の筵に大切な子を置き去りにはできない。そう訴えた母だが、離縁したとて常識として子は父親のものだ。この要求は理屈に合わないとして議論は膠着。しかし何事か――卿の推測では生命に関わる脅し――があって、母は唐突に交換条件を引っ込め、離婚を受け入れた。
そして夏の初めに、名目としては結婚の手続きに瑕疵があったとして両親は離婚。母は祖国に帰され、アスターは庶子となった。
王の喜びは甚だしく、母が王宮を発った日に酒宴を催し、「憎たらしい雌ガエルがようやく泥沼に帰って清々した」と放言して酒を大いに食らったという。
「……それは言う必要があったのかな?」
「詳細にとのアスター様の仰せでしたので」
「卿は融通が利かないね。おかげで僕は陛下が嫌いになってしまった」
「今更だと存じます」
死神以外に破れぬ神聖な契約であるべき結婚も、長い歴史の中では、長く子が産まれなかったり血が近過ぎたり、あるいはそれらを建前にして無効になった例が稀にだがある。
後者の場合、その時々で、宗教の頂点にいる存在が、玉座をどれほど俗世に近い位置に置いているか、黄金にどの程度の価値を見出すか、夫婦の親族とどれだけ繫がりがあるかなどで無効に至る難易度は変わる。
今代は、名高い聖人の再来と謳われるのを聞いた覚えがないので、玉座の位置はほどほどにこちらに近いのだろうが、もしバンナン王が母の助力の求めに応じて本気で離婚に反対するのであれば、離婚の難易度は跳ね上がるだろう。
きっと母は、アスターを殺すと脅されたのだ。
アスターという成果さえ消せば、その瞬間母は七年も子ができなかった女になる。邪魔な小石としてこの世からぽんと弾かれるアスターと、無理やり石女扱いされる母の心情を犠牲にして、俄然離婚はしやすくなる。
折れた早さからして、母は蠢く悪意を実在の脅威として常に感じていたに違いない。そして王が黙認している実感も。だから母とアルメリアはアスターを守るのにあれほど神経質になった。あの冬の日に投げられた石はほんの一例に過ぎなかったのだ。
それを目の前のこの男は、母のせいでかえってアスターにバンナン側の印象がついていると責めた。
この国の人間は全員嫌いだ。そして自分自身も嫌いだ。アスターのせいで母たちはいらぬ恐怖と汚辱を味わい、何かを変えようとしてくれた兄は家族を残して遥か遠くへ行ってしまった。
「マジュス卿。これから僕はどうなる」
「あなたの後見人が選定され次第、王宮の外へお住まいが移ります。王子の称号が失われ、代わりの爵位が与えられるため、あなたを殿下とお呼びする者はいなくなります。庶子という肩書きのために、宮廷の者どもはあなたが権力の足場を失った敗北者とみなすでしょう。陛下が新たに迎えられた王妃が男子をお産みになれば尚の事。次に王宮へいらっしゃる際は、そのような心構えを事前になさることをお勧めいたします」
「侮ったまま忘れてくれればいいのに。そうすれば、お母様たちも安心してくださる」
「……このような扱いにいささかも文句はないと仰る」
「この国にとって僕はもはや何者でもなくなった。もう僕にできるのは、この世の片隅でバーチ殿下のご健康を祈ることだけだ。復讐なんか考えてはいない。僕もローレル兄上の御代を支えていくのだと夢見たときもあったんだ……バンナンの血を引く僕が言っても信じられないだろうけど」
とにかくこれでマジュス卿が会いに来るのは終わりだ、忙しさの合間を縫って、叶える義理のないアスターの願いに最後まで付き合ってくれたことには礼を言わねばならない。
一転、アスターは努めて明るく続けた。
「マジュス卿。今までありがとうございました。卿のおかげで、心を落ち着けて沙汰を待てます。無様を晒さずにすみました」
「いえアスター様。私が事実上の伝令ですので、あなたがここを出立なさる日までまだ何度か参上します」
そう言うマジュス卿は例の無表情である。アスターは苦笑した。
「この、捻くれ者め!」




