(4) アスター王子、王太子ローレルと母
アスターはすっかり以前の生活に戻った。
厳密に言えば母は遊び相手をみつけてくれようとしたのだが、うまくいかなかった。紹介された子供たちは、他の人にとってどうであれ、アスターからすれば、大人がこぼした悪意を残さず拾って腹に詰めたような存在だったのだ。
些細な言葉選びやちょっとした仕草で馬鹿にしてくる指摘しにくい卑怯なやり方が不愉快だった。そしてなにより、近くで見ると本当に見事な口だと褒めるふりで母を嗤うのが心底許せなかった。
三度は試したが、ただ失望と苛立ちと、謝る必要がないのにすまなそうにする母への悲しみが募るだけだったので、それ以降は頑として断った。
一人書物と授業とに打ち込んで、六歳の誕生日が近づいた頃、王宮外の城に住んでいる王太子が三人目の娘を得、その祝宴が王宮で催されることになり、母とアスターも招待された。
当日、宴は午後から始まるのだが、アスターが正装へ着替えさせられたのは少し早い時間だった。そのまま自室で過ごしていると、なぜかアルメリアに応接に使われる間へ連れていかれた。
そこには、いつもより凝った形に髪を結い上げ、大粒の宝石で華やかに装った母もいて、アスターは一体誰が来るのだろうと内心首を傾げた。謁見の間ではないから、来客は母と親しい人だ。そして自分にも関係がある人。
第一候補のアルメリアは後ろに控えているわけだから、と考えたとき、ちょうど使用人がその人の名を告げながら訪いを入れたので、出鼻をくじかれてしまった。
アスターは母と立ち上がって扉の方へ体を向け、目を見開いた。
父かと思った。
縦にも横にも大きな戦士の体。自信に満ちた足取り。よく日に焼けた精悍な顔立ち。猪を彷彿とさせる立派なもみあげなど、まさに父の生き写しであった。
王太子ローレル。二十近く年の離れたアスターの異母兄である。
「お久しゅうございます、殿下。この度はご足労いただきまして」
「そんな堅苦しいのはよしてください。仮にもあなたは我が母上です。ああお気を悪くなさいますな。ただあなたを拝見すると、年の頃の近さゆえに亡母より我が妻を思い出すまでのこと」
その声音まで父である。しかし着席してアスターの目とローレルの顔の位置が近づくと、違いがわかった。髪はより豊かで、その肌に深い皺はなく、体はもっと引き締まっていて、なにより最大の差異は、ちらりと浮かべた義姉への親愛の情である。
アスターは父のそんな顔を見た覚えがなかった。
「まあ、それは光栄ですこと。玉のようなお子を三人もお産みになった方に少しでも近いところがあるのなら、わたくしも奥方にあやかれるというもの」
「あなたはそう仰ってくださると思っていました、また娘かと顔に書いてある他の石頭どもとは違ってね。彼らはまったく気が早くて困ります。私の種まきのうまさ、妻の畑の豊かさはいよいよ確かなのだから、我ら夫婦はまた何度でも素晴らしい実りを得るでしょう。その最後の収穫を待ってから物を言えと私は何度叱ったことか」
「まったくですわ。たった一度でも産みの苦労を知らぬ者ほどかまびすしくっていけません」
「妻も同じように立腹していました。あれは昔は気の弱いところがありましたが、今はもう逞しいものです。女は情に深いと言いますが、だからか母になるとまことに強くなりますね。私も親になってから自分でも驚くほど心構えが変わりましたが、妻はまた別格です。兵士と同じ目をする。子のためなら命さえ投げ出す覚悟さえあるのでしょう」
「さすが殿下は鋭敏でいらっしゃる。本当に母という生き物は子のためなら何だってできますのよ」
沈黙。
太陽が春の朗らかさをもって部屋へそそいでいる。ここ数日、乗馬をするとすぐ汗ばむほど暖かい日が続き、暖炉は今も冷えている。
綺麗に掃除されたそこに、今ばかりは落ち着く炎があったらなあと眺めていたアスターは、その思いをさらに強めた。
母の最後の一言で、どこか空々しいやりとりへ身がぎゅっと詰まり、ますます部屋が冷えたのである。
次に口火を切ったのはローレルだった。
「私に何か話があるそうですね」
「例の国へ再び矛を向けると聞きしました。バンナンとの連合軍の指揮をあなたが執るとも」
アスターは反射的に母を見、それからローレルを見た。彼は一瞬怖いくらいの真顔だったが、すぐ不敵に口角を上げた。
「これはこれは。耳聡い方だ。あなたが我々の敵にならない幸運に心からの感謝を。それで、もしそうなら何か問題が? 王女様が私めに妙計奇策でも授けてくださるならそれ以上の喜びはないのですが」
「殿下にとってそうであることを願いますが、もしご不快に思われても、弓も引いたことのない愚かな女の物言いとご容赦ください。――どうか戦の勲よりもお命を第一になさって」
お母様それはよくないとアスターが肝を冷やすと同時に、ローレルの纏う空気が変わった。
さもあらん、自ら戦いに赴いた貴族や王族は、先頭に立って一人でも多くの敵を倒す義務があるし、それでこそ面目が施されるというものだ。
授業で習ったが、位のある将は、戦場で敵の手に落ちるともっぱら捕虜にされ、身代金と引き換えに釈放される。そういった、本人には非がない状況でも、敵に救われておめおめと帰ってきたと嘲られるのだから、自分の命を優先したがために、戦の流れの悪さから早々に退却したり、投降したりするのは、臆病の極み、名を地に落とすどころか埋めこむくらいの愚行になる。
ぜひそれをせよなんて言ったら、侮辱や挑発と捉えられてもおかしくないのだ。
だが母もそれがわかって発言したようで、ローレルが反駁する前にまくしたてる。
「わたくしはよいのです。たとえ生まれた土地で過ごした時間よりここで重ねた季節が長くなったとしても、この地に骨を埋めたとしても、この国の方々は、この骨の髄にはバンナンの王女の血が満ち満ちているとのみ考えるでしょう。それは真実でありますし、わたくしとて父の行状を背負う覚悟で嫁いだのでございます。しかしこの子は違います。半身にバンナンの血が流れていようとも、その半身はアプレの血。世に聞こえるアプレのあの王太子の弟として知られる未来がまだあるのです。
どうぞ不義を糾弾してください。正義の代弁者とおなりください。そして無益な同盟を切り、戦をやめ、この国を富ませることにご注力くださいませ。あなた様を頼りにする奥方と小さいお子のために。そしてあなた様を必要とする民草のために」
いつしか涙の気配に声を濁らせ、それでも一滴も流すまいと堪える意地の隙間から絞り出すように母が請うのを、ローレルはじっと聞いている。
それをアスターは、思わず椅子を立って行った、母の隣で見ていた。ここに自分がいるのは場違いではなかろうかと不安になりつつも、様子のおかしい母の腕を離せず、ちらちらとローレルをうかがっていると、急に視線がかち合った。
今の今まで二人にいないものと扱われてきたので、アスターはひどく驚き、動揺して固まった。
するとローレルがこちらへ来るではないか。しかもアスターの前でしゃがんだ。
今まで見上げるばかりだったローレルが、わざわざ自分に視線を合わせてくるなら、とにかく重要な何かを言われるに違いない。
逃げようと走る心臓の手綱を引き、アスターは母からはなれ、拳を握って対峙した。
アスターと呼びかけられる。できるだけはっきり返事をする。
さあ来るぞ。
「母が好きか」
「好きです!」
そう構えたところにとても簡単な質問を投じられたので、アスターは勢いあまって叫んでしまった。
ローレルの目が丸くなるのを、この距離では見逃すはずもなく、アスターは自分の顔がぱっと熱くなるのを感じた。だが視線を逸らしたらそれこそ恥だと自分を励まして耐えていると、ローレルが突然口を開けて快活に笑った。
アスターはあっけにとられた。目尻が下がったローレルは、一気に雰囲気がやわらかくなり、ぐっと親しみやすく、若く見えた。
そうだった。若いも何も、この人は父よりずっと年下の青年である。アスターは、自分の羞恥を忘れ、まるで初めてその事実を知ったような気分で何度も瞬いた。
外見がどんなに似ていても、ローレルは父の分身ではない。れっきとした一人の人間であり、アスターの兄なのだ。
その兄が、笑んだまま言う。
「いい返事だ。その気持ちを忘れず、お前が母君をよくよくお支えするんだぞ。男は立派に女を守ってこそ一人前というものだからな。いいな? アスター、我が弟よ」
「……はい!」
兄は痛くはないが大雑把な手つきでアスターを撫でて立ち上がる。
「あなたの赤心には負けました。必ずや家族のために最善を尽くしましょう」
そう母に告げて出ていった。
兄の背に礼をしていた母は、使用人が扉を閉めてからアスターへ向き直り、潤んだ目を細めた。
「髪がぐしゃぐしゃね。アルメリアに直してもらわなくちゃ」
そっと髪に触れられると、母よりずっと大きく固く、そして熱かい大人の男の掌の感触が蘇り、なぜか胸が絞られるように痛んだ。
午後の祝宴で、アスターはまず母とそろって主催である父に挨拶を述べたが、父は素っ気なく定型文を返すのみだった。
今までの自分はこれのどこに父の愛を感じていたのだろう。思い返せば、目を凝らしても見つけられなかったから、父はお忙しくてお疲れなのだと無意識に言い訳していた気もする。
玉座から離れて他の人が王と言葉を交わす様子を観察していると、特にもう一人の異母兄バーチのときは、やはり表情も話す時間も違った。
さらに周囲を見渡せば、たくさんの取り巻きの中心で談笑している婦人が散見された。この国に並ぶ女のいない王妃のそばにいるアスターが、特に人混みに邪魔されず、広い視界を保っているというのに。
本当に、自分はどこに目をつけていたのだろう。
並ぶ大窓の形にくっきり切り取られた日光が、貴族たちの金銀刺繍や装身具をきらきら輝かせる。広間の白い壁も光を反射してかぼんやり明るく、たっぷりと飾られた花もいきいきして見える。
さんざめく人々。流れる音楽。新しい命の誕生を祝う目的にふさわしく、喜びが満ちた宴。自分はそこに落ちた一片の埃だとアスターはぼんやり思った。
そこに主役の登場を告げる旋律が響き渡る。
兄だ。さきほどとは違う威風堂々とした正装の彼に、布の塊を抱いた義姉が連れ添い、二人の後ろで、アスターよりも年下の長女が誇らしげに背を伸ばして妹の手を引いている。
なんという幸せな家族の形だろう。
羨ましく見つめていたら、気のせいかもしれないが、一瞬兄に笑いかけられた。
これまでにはなかったことに母を見上げると、何もかもわかっていたような微笑みが待っていた。
今日の母の訴えと兄の笑顔が風のように胸に吹きつけ、憂鬱の塊が流されていく。
アスターの頬はいつの間にか緩まっていた。
何かが変わる予感がした。
だがそれは所詮アスターの甘過ぎる願望だったのだ。




