(3) アスター王子、母に教わる
戻った王妃の間では、母だけが待っていた。先ほどまで控えていた使用人は一人残らず下がっている。
母の表情は険しく、膝上で重ねた手に木の枝の鞭がある。痛みの予感に身が竦んだが、悪いことをした自覚は嫌というほどあるので、視線で促されるままそばへ行く。
「アスター。あなたは約束を破りましたね」
言葉そのものが鎚と化していた。どんな裁判長も、これほど厳粛な声は出せまい。
「わたくしとアルメリアとの、一人では歩かないという約束。これがひとつ。アルメリアとの、二度とそばを離れないという約束。これがふたつ。間違いありませんね」
「はい」
「ではわたくしは、あなたとアルメリアに罰を与えます」
この状況での母の宣告は、アスターにとって女神の神託にも等しかった。しかしさすがにアルメリアまで巻き込むのは受け入れられない。
「なぜですかお母様。僕は確かに嘘をつきました。でもアルメリアは何も悪くない」
「そうです。彼女から逃げたのはあなたです。しかしそれでも、あなたが一人になった以上、彼女は、あなたから目を離すなというわたくしの命に反したことになるのです」
「そんな……!」
狼狽えたアスターが振り返ると、アルメリアはすでに地に膝をつけ、体の前で祈るように手を組んで俯いていた。
てっきりアルメリアも、強弁は無理でも不服はあると決めつけていたのに、こうなるとわかっていたとしか思えない覚悟の速さである。
世界がアスターを置き去りにして動いている。お前の理解や常識など無意味であると暗に言われているような、無力感と疎外感。自分が安全な柵の中で生きてきたと知った瞬間に痛切に味わったこの感覚に、まだ上があるなんて。
「しっかりと向き合い、肝に銘じなさい、アスター。人の上に立つ者の無謀の責任をとらされるのは誰なのか」
アルメリアへ近づく母を、アスターはぶつかるように止めようとした。しかし母は歯牙にもかけず、アルメリアの背にまず一打をくわえた。
「ううっ!」
「やめて、お母様やめて!」
鞭が空気を切る音も肉を打つ音もアルメリアの苦悶の声も何もかも、寒気がするほど恐ろしい。
アスターは母から離れ、アルメリアとの間に立ち塞がって両手を広げた。
「どきなさいアスター」
「打つなら僕を打ってください! 罰されるべきは僕です!」
「その道理が我らには通らぬのだと言っています。あなたがすべきことは、アルメリアから目を逸らさないことだけです。さあどきなさい。自らの行為に責任を持つ覚悟があるのなら」
全身が瘧のように震える。体の中までも震えが及んでいるのか、呼吸が浅く速くなる。それでも歯を食いしばって母と睨み合っていたら、殿下、とアルメリアに細く呼ばれた。
「何卒、どうか私めにミムラス様の信頼を裏切った罪を償う機会をお恵みください。でなければ苦しいのです。ミムラス様に、我らの大王に顔向けができないのでございます。何卒、何卒……」
切実な嘆願に心を破られる。涙がどっと水桶の底が抜けたようにあふれた。
正直に言えばアルメリアにはまったく共感できない。絶対に鞭を受けるべきは彼女ではなく自分だとの強い確信がある。だがしかし、それが通っても、アルメリアの苦しみには何の効果もない。彼女が真に願っているのは痛みではなく、罰を受け入れることで悔い改める意思を示し、再び母に、信頼を取り戻す機会を与えてもらうことだからだ。
アスターは全身全霊で腕をおろした。そして一歩ごとに、抵抗する気持ちを打ち砕きながら後退し、母へ道を譲った。
二度も、鞭は振り降ろされた。アスターは二人から視線を逸らさなかった。
「わたくしの寝室へ行きなさい。これからアルメリアの手当をします。男が女性の肌を見てはいけない」
だから母にそう言われたとき、アスターは疲れ果てていた。
はいとなんとか返事をして、隣へ移動した。そして手近な長椅子に顔を伏せ、泣きじゃくった。
呪文のようにごめんなさいと繰り返す。
当たり前に王子として尊重されるつもりでいながら、王子の立場にふさわしい振る舞いはろくに考えない自分の身勝手さと浅はかさに、吐き気がした。
目覚めると、アスターはクッションに背を預け、寝台で横になっていた。母が添い寝をしてくれている。
貼りつく瞼を擦ろうとしたら、母にそっと手をのけられ、濡れた手巾で拭われた。
その手をなんとなく目で追う。天蓋は留めたままである。遮られることなく入る蝋燭の光が、錫の杯に水を注ぐ母の横顔と白い寝衣をぼんやりと橙に染めている。
「お飲み」
さっきまでの冷酷な雰囲気が嘘のように、母の纏う空気はやわらかかった。
とくに飲みたいとは思わなかったが、いざ口をつけると、冷たい水が喉をすっと通るのが快く、アスターは一気に杯を干した。
おかわりも飲んで人心地がつくと、話を切り出す勇気が出た。
「アルメリアはだいじょうぶ?」
「大丈夫。怪我をさせないコツがあるのよ。……お母様が怖くなった?」
「ちょっとだけ。でも大事なことだったってわかってる。誓ってもう二度と約束は破らないよ。アルメリアには本当に悪いことをしちゃった」
「その思いやりを忘れないでね。下々の痛みを自分のものとして感じられず、自分さえ苦しまずにすめばそれでよいとちらとでも思うような人間は、王の器どころか、貴族の資格すらない愚か者でしかないの」
もっと飲むかと尋ねられて首を振り、杯を渡した。
「でもアスター、あなたはどうしてこんなことをしたの?」
アスターは、最初は反抗心のため、次は両親の不和の真偽を確かめるためだと話した。
確かにアスターは安易に行動したが、それが最善だと信じるくらい、心が差し迫っていたことをわかってほしかった。
「そう……。ごめんなさいね、アスター。アルメリアの話は本当よ。わたくしと陛下は、残念ながらそう打ち解けた関係ではないの」
「それはやはりお祖父様のせいだよね? どうしてお祖父様はそんなことをしてしまったの?」
「アルメリアには聞いた?」
「ううん。アルメリアはお祖父様が好きだから。お父様の立場から話せと言ったら庇わないだろうけど、それはきっと悲しい思いをさせるでしょ」
言ってから、母もそうであることに気づき、そっとうかがう。母はアスターの思考を見透かしたように微笑んだ。
「優しいことをしましたね。民にとっての王は血を分けた父も同然。たとえ事実であっても、王を少しでも悪しざまに評するのは身を切るよりも辛いこと。だから王は間違ってはならないの。それに、あなたの選択は正しいわ。わたくしを置いてあなたのお祖父様を語れる者はいないでしょう」
母曰く、わずかにアプレに接する隣国バンナンは、三方を山に、一方を大河に囲まれた古い国である。
「城から見渡してもどこも山なの。天を狭めて峰が迫ってくる中で、ただ慕わしいあの大河。子供のころは、あのどこまでも広がる川を越えて誰も知らない場所へ行く夢を何度も見たものよ。輿入れの旅で、峠を越えた先で、遥かな大地の眺めを目にしたとき、ああ遠くへ来たのだと感慨深く思ったわ」
そして同時に、山々の周囲にある国々が、遠大な遠回りをせずに他国へ行ける唯一の近道にどんと居座ってきた要衝の国でもある。
その立地ゆえに、バンナンは、常に侵略の危機に晒されてきた。
「秘密ではないわ。物を知る人ならば誰でも辿り着く。バンナンが周りの国に仲良くなってもらっては困ることは」
一国が突出して育つなり、数国が同盟するなりして、自陣営だけでバンナンの地を握れると確信したとき、立地ゆえに兵力と食糧が限られ、逃げ場の少ないバンナンは確実に潰される。
周辺国が、どこも拮抗した国力で、協力できない状況にあることが望ましいのだ。
それでもアプレはバンナンと同盟する以外の道はなかった。火薬庫たるバンナンへ侵攻するには国力が足りないアプレが、さらに勢力を伸ばすなら、自分より大きな国に挑むしかない。
背後の安全を確保し、バンナンの邪魔が入る前に電光石火で趨勢を決め、目的の土地を確保することがアプレの計画だった。
しかし蓋を開けてみれば、バンナンは、ここ数百年で周りの国々を喰らって急速に成長したアプレに適度に勝たせて他国の力を削がせ、適度に負けさせて伸長を許さなかった。アプレはバンナンを利用するだけ利用して出し抜くつもりが、まんまと掌で踊らされたのである。
それゆえに、バンナンが突然の退却や参戦の遅れを説明し、賠償してもなお、アプレ王はバンナンにひどく腹を立てているのだ。それでいて事ここに至っても同盟を破棄しないのは、次こそは一泡吹かせてやりたいというくだらない意地だと母は冷静に推測した。
「ねえアスター。わたくしのかわいい子。小さなアプレの王子様。あなたや陛下には、バンナンが策を弄して人を騙す保身の王に思えるかもしれないけれど、バンナンの民にとっては、名誉より自分たちのことを第一に考えてくれる無二の大王なの。その王の血を継ぐ者として、これだけは覚えておいて。わたくしたちはあの地の人々を愛し、愛されてきた。愛する彼らが信じてくれるなら、何だってできる。他の誰に何と謗られようが嘲られようが耐えられる。多口のバンナンはその一心でずっと民草を守ってきたのよ」
おおぐちと繰り返すと、母は優しく笑って、大口と訂正した。これは秘密よ、人は大口と言うのよ、と。
「大口ってなあに?」
「わたくしはお口が大きいでしょう? お祖父様も、わたくしのきょうだいも、バンナンの王族はほとんど皆そうなの。だから人はわたくしたちを大口のバンナンと呼ぶこともあるわ」
「悪口だ」
「その通り。アスターは言ってはだめよ」
「言わないよ。お母様の大きい笑顔が好きだから。僕もお母様と同じがいいよ」
「あなたは陛下に似ているから。それでよかったといつも思っているけれど、そう言われたら、ふふ、やはり嬉しいこと」
母が薄紫の瞳を細める。確かにアスターは、ミムラスにも、その色以外、外見で母と同じ特徴を指摘された覚えがない。どうやら父方の祖母に似ているらしい。
それなのに父に似ていると母が日頃から言っていたのは、アスターが、母自身、ひいては父が嫌う祖父の面影を宿していないことに安心していたのだろう。
もう素直に喜べなかった。他の女性とは違って、母が口紅をつけない理由もなんとなく察してしまった。
やるせない気持ちが胸いっぱいに膨らんで苦しいほどだったが、口には出せず、顔にも出したくなくて、アスターは無言で母にぴったりと抱きついた。
温かい。優しい匂いがする。
「あら……眠くなったの?」
「うん」
「ふふ、こうして一緒に眠るのはいつぶりかしら。大きくなったわ、アスター。本当に大きくなった……。もうあなたにここは狭いのね……」
寝台は広い。母がいても、いつも一人で眠るときと比べて狭いとは感じない。
それはどういう意味かと音にする前に、アスターはとろけるような眠りに落ちていた。




