(2) アスター王子、首飾りで泣く
アルメリアの警告はもはや疑わしかった。
母にも叱られ、二度と勝手に離れないと約束したが、納得はしていない。彼女の心は未だにバンナンにある。きっと母もそうだ。
母がこの国へ嫁ぐとき、連れてきた侍女はアルメリアだけだそうだ。慣れない場所で、失敗や辛さを重ねながら二人で支え合って過ごすうちに、父も含め、違う常識で動く周囲の外国人を理解できない敵だと思いこむようになったのではないか。
あの二人が特別に性根が悪辣だった可能性だってあるのに、自分たち以外の人間を一括りに悪とするのは乱暴だとアスターは思う。
それでも生まれてからずっとそばにいてくれ、第二の母と慕うアルメリアの言葉である。無視することはできず、アスターは、使用人たちに、薄っすらと、だが確かな警戒心を抱かずにはいられなかった。
そうして注意してみると、使用人たちは、上役の目を盗んでおしゃべりしたり、腰を擦っていたりする。上下する機嫌や、相対する人物への好悪を、無表情の仮面で隠して働いている。
つまり彼らも人間なのだった。風景の一部に過ぎなかったものが、思考や感情のある個人として立ち上がってきたとき、アスターは恐怖を感じた。
なにしろ、アルメリアが正しいとすれば、アスターは四六時中アスターに対する悪意を秘めた人々に取り囲まれ、食事一つまで支配されていることになる。父が一言やれと命じれば、彼らはいつだって簡単にアスターを排除できるのだ。
何もされていないうちから偏った見方をしてはいけないと自戒しても、怯える心はどうしてもアルメリアたちに寄り、アプレの使用人から離れていく。
道義と自分の感情の狭間で揺らいでいるアスターは、アルメリアと共に、なるべく母のそばにいるようにした。謁見の間の最奥で、ドレスの裾を鳥の翼のように美しく広げて座す堂々たる母の姿からは常に、この空間に君臨する主の風格が発されていた。この人の庇護下にあると思うと、少なくともこの場に何も怖いことなどないと確信できるからだった。
ある日、王妃の間への訪人の中に、宝石商がいた。母が贔屓にしている店ではない。父からの贈り物を持ってきたと言う。
アスターは母の斜め後ろにいたので、彼が助手の男に持たせていた宝石箱がよく見えた。紺に染めた皮に真鍮の金具。中身はネックレスとピアスとブローチだった。どれも、蔓草を思わせる、紫の光沢をもった銀細工に、金剛石が満天の星のごとく配置されている。
離れた窓から入ってくる冬の弱々しい太陽の光を敏感に拾って、澄んだ輝きを放つそれらをじっと見てから、母は微笑んだ。不思議とアスターにはそれが作った表情だとはっきりわかった。
「素敵な品ですこと。大切にしまっておいて。この素晴らしい色の銀はどこのものでしょう?」
「僭越ながら申し上げます。それこそは我が社の職人が発明した自慢の銀でして、細工をしたのも――」
手袋を着けた使用人が宝石箱を引き取っていったのを横目に、アスターが引っかかったのは、男の反応である。
母に手に取ってもらえないまま宝石は片付けられたのに、あまりにも平然としている。選んだのは父とはいえ、品物を検討し、調達したのは宝石商自身のはず。それなら、自分の用意した物を贈った人が、あまり気に入った様子でなかったなら、普通焦るだろう。相手が王妃ならなおさらだ。
さしずめ彼は、母の作り笑いにすっかり騙されてあんなに得意になっているんだなとアスターは推理した。
物語でも現実でも、民は貴族を畏怖している。特に王族の反応は、それが何であれ民には劇薬になる。だからアスターは、献上された物が残念だったらもちろん、嬉しくとも態度に出すなと躾けられたのだ。
さすが母は思いやりが深くて芝居がうまいと尊敬したのに、嫌な想像もやってきた。
父は、妻に何か新しい物を贈ったという体裁作りのために適当な品を選んだのであって、宝石商もそれを知っているから、母が気に入ったかどうか関心がないのではないか。
まさか。あまりに意地が悪い解釈だ。そう打ち消しても、疑いが泡のようにふつふつとわいて消えてくれない。
これまで母は父の贈り物を喜んで受け取っていたはずだが、二人の不和をうかうかと見過ごしていたアスターである。自分の記憶は信用できない。
もし過去も父がずっと母の好みを外していたのなら。しかも特に母が優しい嘘をついていないのなら。一言母に感想を聞くか共に選べば解決するそのズレを意図的に放置し続けていたことになり、アルメリアの正しさは強く補強される。
確かめたい。父はあの宝石商に何と命じてあの三点を用意させたのだろう。
アスターは小声でアルメリアにねだった。
「アルメリア。あの人たちと話したい」
「あの方々ですか。今ではいけないのですね?」
「うん。お母様のいらっしゃらないところで、少しだけ時間がほしい」
アルメリアはアスターの要望を叶えてくれた。
王妃の間の外の部屋で待っていると、帰途を呼び止められたからかやけにおどおどしている助手と、対照的に落ち着き払った宝石商の男がアルメリアに先導されて入ってきた。
さっそく尋ねる。
「あなたたちが持ってきた品物について聞きたい。ああいった繊細なものもお母様にお似合いだけど、いつもお着けになる品々とは趣がかなり違うんだ。お父様はあれをどんな風に選ばれたの?」
「恐れながら申し上げますと、陛下は私どもがご用意した扇や靴など、いくつかの候補から、首飾りなどを贈られるとお決めになり、そこからさらに素材などをこだわってお選びになりました」
「つまり、すべてお父様のご趣味なのかな」
「それはええもちろん、いえ殿下のおっしゃる通りでございます。流行、伝統の型などご案内しましたが、陛下は理想がはっきり固まっていらっしゃったご様子で、私どもはあくまでその実現に尽力した形になります。無論私どもはご依頼様のみならず、受け取られる方にも喜んでいただくことを目標に励んでおりますが、まずご依頼主様のご要望を叶えることを第一に考えている旨、ご理解いただけましたら幸甚に存じます」
「うん、わかった。ありがとう」
彼らの退席後、アスターも自室へ帰ることにした。ゆっくり歩きながら、考える。
話しぶりからすると、彼らは、父のために働くのだから、母の反応は二の次にならざるを得ないと考えているようだった。確かに贈り物を喜んでもらえるかどうかは、品物を用意する商人より、相手をよく知るはずの贈り主の、何を贈るかの判断にかかっている。まずその選択に過ちがあれば、商人がどんなに頑張っても意味がないのだ。
商人としては当たり前の判断なのだろう。直接的な客の父が一番、間接的な客の母が二番といった具合に、王室の中であっても順位をつけるのは。
だから彼らの態度は、母を軽んじるものではないし、父も適当に選んだわけではない。アスターが過敏になっていただけなのだ。
きっと、母が父のために注文する場合には、この順位をきちんと変えてくれる。そのはずだ。
これも確かめたらもっと安心できる。アスターは、急に重石が外れて浮ついた気持ちと、こびりつく小さな不安に突き動かされ、踵を返して走り出す。
「殿下ぁ!?」
アルメリアの裏返った声の高らかな反響を背に受けた瞬間、胸がすっとしなかったと言えば嘘になる。
彼らがもしまだ王宮にいるなら、馬車回しを見張っていれば捕まえられる。棟をまっすぐ駆け抜けて、突き当たりの大窓を開け、狭いベランダに出ると、探すまでもなく下方から助手と宝石商の話し声がした。
しかし真鍮の手すりから乗り出しても姿は見えない。むしろアスターがふと視線を上げた道行く人に見つかりそうになり、慌ててしゃがみこむ。
それでも風向きのせいか、周りを憚る小声の会話がちゃんと届いた。
「寒いですよ旦那様ぁ、やっぱり馬車出してもらいませんか」
「馬鹿。うちのじゃないと商品を積んでないだろう。それにこっちからのが次のお届け先に近い。お前が勝手に馬車を返さなければもっと早くすんだんだよ」
「へえ。すんません」
「この馬鹿が。その目がなけりゃあ百回は追い出しているところだ」
「目といえば、高貴な方は目利きが確かですねえ。あんなに聖銀に似せたのに、指一本触れやしない」
「馬鹿。何度も言っただろう。位のお高い方は用心して宝飾品には最初に触らないものなんだ。呪いは藪に潜んだ小さな蛇だからね。いつもは平気だからと油断して手を伸ばしときに限って噛みつかれてしまう」
「ああそうかあ。でも旦那からの贈り物ですよ。そんなに警戒しますかね。石も細工も一等もんでしたじゃないですか。朝露のついた銀の蔓をそのまま切り取ってきたようで、清らかで」
「だからお前は宝石にしか目がない馬鹿だというんだ。ああやって質の高い小粒の宝石と金属細工を組み合わせるのはあの方のお国の様式だよ。嫁いでからこっち、頭のてっぺんから爪先まで旦那のお郷に合わせてきたってのに、肝心の旦那がこの時期にそんなもんよこすなんて厭味ったらしくてうんざりだろうさ。しかも聖銀に似せた銀なんて、呪いをごまかす常套手段だろう。さあ怯えろって声が聞こえるようだ。底意地が悪い仕掛けだね。そりゃあ旦那からだからこそ触りたくもなかろうよ。それでも贈られたからには着けなきゃいけないお方は気の毒だし、あの上等の品にも悪い」
「はあ。仲が悪いんですねえ。うちのお袋と親父みてえだ」
「ご子息もお可哀想に、あんなことわざわざ聞いてさ、薄々それに気づいてるんだ。でも嘘はつけないからね。まさかうちが、至上の君を誘導してあんな嫌がらせを仕掛けたなんて大それた誤解されちゃ首が飛ぶ。一から十まであなたの父御の仕業だよってきっちり理解してもらわなきゃあ――」
聞いていられなかった。アスターは逃げた。雨に打たれた卑小な鼠のように尻尾を巻いて。
そしてアルメリアへ、呼ばれる前に飛びついた。
「はあっ、はあ、殿下、何が」
「ううん。何にもない。何も起こってはなかったんだ」
そう、辛い現実はとっくの昔からアスターを取り囲んでいた。アルメリアと母が優しく目隠しをしてくれていたから、気づかないまま幸せでいられたのだ。
もう赤子じゃないなどとんでもない。アスターは羽根の下で微睡む雛でしかなかったのだ。
「ごめんねアルメリア。ごめんなさい」
信じなくてごめんなさい。守ってくれたのにごめんなさい。
何を並べてもまだ足りない。戸惑ったようなぎこちない手つきで背をさすられるたび、自分の愚かさが浮き彫りになっていく気がした。




