(1) アスター王子、世界を知る
アスター編1章(全6話)です。少し暗めな始まりですが、この章の最後は明るくなるので大丈夫です。なお、これからは章ごとの不定期更新となります。ベラドンナ編より長くなる予定なので、ゆっくりお付き合いいただけたら幸いです。
冬のまったく良い日であった。
空は高く澄み渡っていた。日差しは柔らかに注ぎ、寒風はその温もりを奪わないように穏やかに吹く。まるで春の女神が、冬将軍の支配の終わりを告げ、室内に閉じこもって凍えていた人々へ、さあ外へおいでと誘いかけているかのような好天である。
こんな日に、初めての冒険に繰り出せることを、アスターは喜ばしく思った。
これまでアスターは、王子としての用がないかぎり、王妃の間と呼ばれる母の謁見の場と、その周辺に固まる母の生活空間、その一画にある自室以外に出たことがなかった。その例外のときでさえ、教育係のアルメリアの目から逃れた経験がない。
なにしろアルメリアと母ミムラスが、わずかでもアスターが自分たちのそばを離れるのを嫌がるのだ。
アルメリアは夜会や式典の場でアスターがタペストリーにほんの少し隠れるだけでも額の皺ごと眉をつり上げて怒り、母は折に触れてアスターの肩をつかみ、絶対に一人で外に出てはだめ、アルメリアの隣にいなさいとくりかえす。
特に母の熱意は相当なもので、アスターはそうされるたびに鷲に捕まった獲物の気分になるのだった。
しかし未だにアスターは、二人が何を恐れているのかがわからない。
もっと幼いころはそれでも素直に従えたが、六歳ともなれば、この王宮という空間では血統と礼節が物を言うことは薄っすらとわかってくる。そしてその点でアスターは、隣国バンナンの王女たる王妃を母に、この国アプレの王を父に持つ王子である。一体誰が何の理由で無礼にもアスターを害すると言うのだろう。
なぜと何度聞いてもお母様たちが答えてくれないのは、本当は理由なんかないからに違いない。お母様たちは心配性すぎるんだ。いつまでも僕が赤子だと思いこんでいる。
胸に育った反抗心。いつしかアスターは、脱走という考えを持ち始め、胸躍らせて計画を立てていた。
監視の目をどう潜り抜けよう。王妃の間へ繋がる廊下に常に立っている衛兵。屋内にうろつく使用人や王妃への謁見を臨む人々。そして何より、アルメリア。
最大の難関なるはずだった彼女は、しかし意外にすべてをうまく運ぶ鍵になった。
まず、寒くなるにつれ、アルメリアが手洗いに行く頻度が去年の冬と比べて顕著に上がった。
もちろん彼女は代わりの人間をつけたり衛兵に頼んだりするのだが、皆アルメリアほど熱心な性ではなく、試しにアスターが少し離れてみても口で引き留めるだけだった。
そこからさらに周囲にはアスターが一人でいるように見えるまで離れても、ほとんど誰も気にとめなかった。側仕えはどうされたとたまに聞かれても、大丈夫だと胸を張って答えれば、納得まではいかないものの、追及しないでくれた。
そして逃亡経路はすでに目星をつけていた。王妃の間のそばの、アルメリアが寝起きする使用人部屋である。小さい頃にしつこくせがんで入れてもらったとき、そこの窓を開けてもらい、アルメリアに抱き上げられて、外を眺めたことを覚えていた。
確か、嵌殺しの廊下の窓と形と大きさが同じだった。細長く、とても大人は通れない幅だが、アスターには十分だろう。そこから手がかりになる物を垂らせば地上まで降りられるはずなのだ。
幸い乗馬の練習で通う厩舎には、縄がいくらでもあり、親切な馬丁が解けない結び方も教えてくれた。
アスターは、完成した縄を、縄跳びで遊ぶために作ったと言い張って、自室の取りやすい場所に堂々と置いておいた。
準備は万端。あとは天気がいい日に、なるべく手洗いから遠い場所でアルメリアが行ってくれる機会を待つばかり、と虎視眈々と狙い、ついにそのときがやってきた。
「殿下、ここでお待ちくださいね」
「わかってるよ!」
「あら……殿下? なんだかとってもいいお顔ですね」
「ううん、いつもと同じだよ。ほら早く」
危なかった。やはりアルメリアは侮れない。
内心で額の汗を拭きながら、ドレスの裾が角へ消えるのを確認し、アスターは駆け出した。
使用人たちの驚きの声を無視して自室へ飛びこみ、縄を掴んでまた走る。
滑りこんだアルメリアの部屋で、忙しない足音がやってこないか気にしながら、ベッドの足に縄を結んで窓へ投げる。そして運んだ椅子へ登って、窓のふちへ膝を乗せた。磨かれた石の冷たさ、滑らかさが絹の靴下越しに伝わってくる。
見下ろす芝生の枯色がやけに遠く感じた。腹の底がぞっと冷えて、不安になるほど強い母の手の感触が肩に蘇ったが、それで大人しく室内に戻るのは、いい子のふりをした臆病者の行いに思えた。
古代の英雄は、赤子の時代から敵を倒したり岩を砕いたり、行動をもって己の勇猛さを示している。自分だって早すぎることはないのだ。
アスターは唾を飲んで、縄を握った。
結び目をつかみながら壁を伝いおりる。全身が外に出ると、縄の張りが強くなり、切れるかもとにわかに不安になって手汗が滲み、それで滑らないかとさらに緊張する。
悪循環の中で精一杯自分を鼓舞し、ついに地面に立った瞬間、アスターは人生で最大の達成感に包まれた。
自分はやってのけたのだ。本当に一人で外に出た。今なら王宮のどこにでも自由に行ける。畑に行ってみたいし、庭園を走り回ってみたい。
さあどうしようとわくわくしながら候補をあげていたら、とびきりの案を閃いた。
お父様に会いに行くのはどうだろう。
公の場以外では滅多に会えない父である。アスターが会いに行ったら、遊びではないと怒るかもしれないが、それでも時間をとってくれるかもしれない。
もしそうなったら母に何よりの土産話ができると足取り軽く歩き出したアスターは、すぐに止まった。
この国のために忙しくしている父の邪魔をしたら、母はむしろ悲しむのではないかと思い至ったのだ。
あなたの父上が守り、あなたの兄上がお継ぎになって、あなたがお支えになる国ですよ。
母の優しい声が蘇る。常日頃から王子たれとアスターに説く母である。アスターがその自覚がないふるまいをしたら、きっとがっかりするだろう。アルメリアは大慌てしながらアスターを探しているに違いない。
戻ろう。初めから、この冒険の目的は、自分はもうこんなことが出来るから、心配しなくても大丈夫だと母たちに証明することであって、困らせたいわけではない。
王妃の間を背にして、建物沿いに歩いていけば、宮殿の正面へ辿り着く。そこで衛兵にアルメリアを呼んでもらおう。
そう決めて、踏み出した足の真横を、何かが素早くかすめ、地面で弾んで生垣へ飛びこんだ。
見間違いではない証に、枯れた芝生が丸く薙ぎ倒されて土が覗いている。
アスターはそれが来た方向へゆっくり視線を向けた。
離れた場所に、男が二人立っていた。服装からして警備の者ではなく宮殿に参上した若い貴族だろう。
もしかして、そばの庭園から、アスターが降りるところを目撃して、小間使いが仕事から逃げ出したとでも誤解したのだろうか。それならちゃんと説明して否定しなければ。
頭ではそう考えるものの、アスターの冷静な部分が異を唱える。あそこまで近づいて、アスターの服装を目にしてもまだ小間使いだと判断する貴族などいやしないと。
そしてその推測を裏づけるように、男は、アスターと目が合ったのに狼狽える様子もなく、隣の男を小突いた。そして揃って大袈裟に一礼をして去っていった。
気のせいだろうか。隣の男が、踵を返したとき、手から石を落としたように見えたのは。
まだわからない。先ほどの飛来したものが石とは限らない。世の中には空から骨を落とし砕いてその髄を食べる鳥もいると聞く。しかし縋る思いで見上げた空には薄い雲がたなびくばかり。骨がうまく割れたか確かめに来る影などない。
代わりに窓から顔をのぞかせたのはアルメリアだった。
「ああ殿下! なんてこと! そこを動いてはなりませんよ!」
ほとんど悲鳴のように叫んで引っ込んだ。言いつけを守るためではなく、アスターが呆然とその場に立ち尽くしていると、やがてアルメリアが走り寄ってきた。
「お怪我はありませんね。肝が冷えましたとも。ああなんてことでございましょう。さあお部屋に戻りませんと、風邪をお召しになってしまいます」
荒い息を整えないまま心配の言葉を浴びせかけられ、全身を確かめられると、ああもう大丈夫なのだなと思った。衝撃に固まっていた心が緩み、喉につかえていた現実が腹へ落ち、その勢いで恐怖を弾き出す。
「アルメリア」
「いけませんよ殿下。弁明をなさるのは後です。いくらでもお聞きしますから」
「石を投げられた。知らない人に」
「石?」
「僕は何もしてないないんだ。話しかけすらしなかった。なのにあの人たちが、僕に、石を」
「……ここは寒うございます。暖かいお部屋に参りましょう。そちらで詳しくお話を伺います」
しっかりと手を繋いで連れ戻された自室で、アスターは、暖炉の前に運んだ椅子へ座らされ、ひざ掛けをもらい、温かな飲み物と干した果物がたっぷり入ったケーキを食べるのを見守られた。
半分でケーキを置く。アルメリアがアスターの手を自分の掌に乗せ、親指で指先をさすった。
「温まりましたね。さあ殿下、わたくしめにご覧になったことをお話ししてくださいな」
一部始終を話すのは、つむじ風のように瞬間的に起こった事件の恐ろしさを改めて見つめる作業でもあった。声に出すときと耳で聞くとき、二度まざまざと現実を思い知らされ、アスターは最後にはアルメリアの手を力いっぱい握りしめていた。
「恐ろしい思いをなされましたね。でもご安心ください殿下。このアルメリアが間違いなくその不届き者どもを突き止めて、きっちり罰を与えますからね。一年は王宮に足を踏み入れられぬようにしてやりますとも」
「一年?」
思わず大声が出た。
この国をしろしめし、民草が仰ぎ見る唯一無二の存在の血を正しく引く息子の一人がアスターである。そのアスターへ、地を這う獣にするように石礫をくれて遊んだ不逞の輩の罪が、王宮へのたった一年の出禁、それも最長で。
冠とはそんなに軽いものなのか。
二の句が継げないでいると、アルメリアはふっとなんとも言えない、どこか切ないような表情を浮かべた。
「殿下は……五つにおなりですね。なんと時の流れの速いこと」
「アルメリア……?」
「よござんす。あなた様のご身辺について、これまで隠してきたことを、一切お知らせ申し上げます。バンナンとアプレの二国が同盟しているのはご存知ですね。ミムラス様があなた様の父君とご結婚なさったのは、その絆を確かにするためでもありました。にもかかわらず、バンナン王が二度、戦での約束をお破りになったゆえに、アプレは二度苦渋を舐めました。王の御心を私めが推し量るのは差し出がましいことですが、父君にとってバンナン王は、そのお姿を彷彿とさせるすべての物事までも、屈託なしには思えぬお方。そしてそれは、我ら臣下の間では、暗黙の了解なのでございます」
文章を噛んで砕いてすり潰すにも、そうして抽出した意味がアスターの頭に染むにも、しばらくかかったのだと思う。我に返ったとき、円卓の上は片付けられて、アルメリアが暖炉へ薪を追加していた。
火に炙られて木が爆ぜる。
「お祖父様が嘘つきだからお父様はお母様と僕がお嫌いなの?」
「なんてことを仰います! 嘘つきだなんて!」
それ以外の結論は出なかった。アスター以外の誰でも同じはずだ。だのにアルメリアは、耳にするのも悍ましいと言わんばかりに息を呑み、よりにもよって祖父への誹謗だけを否定する。
アルメリアにとって大事なのはそこかという失望の火が心にパッと付き、怒りが静かに、あらゆる感情を巻き込んで燃え始める。
「どうしてアルメリアはお祖父様の味方をするの。その人のせいで僕が侮られているのに。皆が石を投げたってお父様は怒らないって思うほど」
「それは……、ああ殿下、私が父祖よりバンナンの民であるからにございます。多口のバンナンはいつだって剣ではなく知略で我らを守ってくださった。そのご恩のためにございます」
「守ってくれないよ! ここはバンナンじゃない、お母様だってバンナンの王女じゃなくてアプレの王妃だ!」
「いいえ、いいえ殿下! 我らはどこまでもバンナンの人間なのです。この国の誰にとっても」
驚くほど俊敏な身ごなしで、アスターの前に跪いたアルメリアが、アスターの手を痛いくらい握った。それで顔を顰めたのに、アルメリアは力を緩めず、こちらを貫くほどの眼力で訴えかけてくる。
「アスター殿下。決して、決してお祖父様への雑言を口にしてはなりません。受容するのもいけません。目をそらし耳を塞ぐのです。あなたにそれで取り入ろうとする人間は御身を案じてなどおりません。ただ御身をミムラス様への攻撃、父君への阿諛追従に利用したいだけなのです。あなたの真のお味方はミムラス様とこのアルメリアめだけでございます。どうか余人にお気を許しなさいますな。やつらは皆、あなたとミムラス様との紐帯のほつれを探して這い回る野犬なのです」




