(19) 少年と化物とヒヨク連理
入ったとたんワインの香りが鼻をついた。カーテンは中途半端に閉まっており、細く差しこむ日光が、花を模したレリーフで飾られた天井や絵画や寄木細工の壁を淡く四角く照らしている。
薄っすら暗くてちょっぴり寒くて、まるでここだけ冬が居残ってるみたいだ。
アスターは木製の椅子に座ろうとしている。
その様子の次に俺の目にとまったのは隣の椅子の背もたれに引っかけてある上着だ。使用人に片づけさせず放っておくなんてらしくない。次にそばの細長いローテーブルにある陶器の水差しで、見過ごせなかったのは酒の残量の少なさと空のゴブレット。思わずアスターを睨んだ俺は、しかし言葉を失った。
アスターは泣いていた。左の肘掛けへ体重をかけ、下半身はほとんどずり落ちるように投げ出した、いかにも投げやりになってますって体勢で。
厚ぼったい瞼がこう過ごしたのが今日だけじゃないと物語っている。俺がその場に立ち尽くしていると、アスターは指先でゴブレットをつついた。
「少ししか飲んでないよ。涙が止まらないのは酒のせいだ。そういうことにしておけばまだ面目が立つと思って、開けたのもこの一本だけ。君も飲む? とても甘いんだ」
「……酔ってないにしても、まずはお水を召し上がったらいかが。話はそれからだわ」
カーテンを開ける。残念ながら格子窓ははめ殺しだった。広い部屋だけど、微妙に開けたままにしてある扉から換気されるのを気長に待とう。
振り返るとアスターは何かを飲んでいた。まさかここで酒は追加しねえだろ。しねえよな?
予想だにしない荒み方をしてたんで一瞬疑ったが、においが漂ってこないからちゃんと水だ。
コンと小さく音を立ててゴブレットが置かれた。押しかけた俺から口火を切るべきだ。そのつもりだったのに衝撃の光景でいろいろ吹っ飛んじゃったわ。
言葉を探して黙る俺。するとアスターがぽつんと言った。
「かわいそうになった?」
頬が燃えるように熱くなった。
こ、こいつ、皮肉じゃねえ。自分の悲しみさえ利用して強かに哀れみを引き出そうとしてやがる!
猛烈に恥ずかしかった。俺のどの口が感ある内心が筒抜けなのもだけど、何より基本いい子のアスターがここまでするのが。だって荒れてるのも含めて全部、なんつうか、どんだけ俺のことって思わざるを得ないじゃんか。
「ねえ私のことわかってるくせにそんなこと言うの?」
アスターが無言で瞬いた。その拍子につっとまた一筋雫が伝う。
何の話とも言わず、アスターはどこかぼんやりと俺を見つめている。
濡れて束になり根元に水を抱えたまつ毛。潤んだ紫の瞳。涙と一緒に、どれも光を反射してきらきら輝いている。白目と目元が少し赤らんでいるのが痛ましい。
やばい、目薬さされた犬に見えてきた。全然何もわかってなさそう。自信なくなってきた。
「私が……私が、本当は……」
「ベラドンナではないんだろう?」
ああ。
「最初から、シオンが出会ったのは君だったんだろう?」
「…………そうだよ。俺だった」
躊躇いごと真相を撃ち抜かれたら、それ以外に答えようなんてない。
俺は壁にもたれた。なんとなくドレスの刺繍を撫でる。
「あーあ。ほんとはバレたくなかったのに。やっぱあの夜がまずかった?」
「致命的だった。いろいろ納得したよ」
「お前驚かなかったよな。そんなに変だったか俺。ちょっと変わった女の子の範囲にとどまってたろ」
「日頃から怪しんでいたわけではないさ。君がシオンのベラドンナであるという事実さえ動かなければ、あとは何だって構わない。それだけなんだ」
手遊びをやめられない。糸の隙間に爪を立ててみる。
「……アスターさあ、俺がバケモンだって気づいたのに、それなのに、俺を」
「好きだ」
怒鳴られてもないのに、俺はたった一声で糸に引かれたように頭を上げてしまった。
アスターと視線がかち合った。
「好きだ。君が好きだ。僕はさもしい人間だよ。公爵の卑劣な行いを知っても君に会えてよかったと心から思っている」
言い終えるや否や涙が溢れる様は、まさしく堰を切ったようだった。下瞼に次々水が盛り上がっては破れて流れおちる。それでいっそう頰が濡れ、顎から雨のような水粒がぼたぼたと落ちていってるのに、まるで泣いてる自覚がないかのようにアスターは拭いもしない。
手放しの悲しみに圧倒される。
何度でも新鮮に不思議なんだけど、この人はなんでこんなに嘆くの? フラれただけで。たかが俺なのに。人間じゃないって思ってるくせに。
呆然とアスターを眺めていてふと気づいた。
鼻水出てる。
その瞬間、俺の胸に詰まっていた刺々しい塊がすこんと腹に落ちた気がした。
いいんじゃないか。もう意地張らなくたって。
アスターの俺に対する妙な高評価はつまり、刷り込みされちゃってるんだろう。
俺と違って、本当の子供のころに両親と引き離されて一人ぼっちでエデルワイス邸に来たアスター。そこで出会って大半の時間を共に過ごしたのがたまたま俺だったために、俺を大事な存在だとすっかり決めこんでしまったんだ。
そしてきっと大きくなっても、俺と同じように、他の誰をも味方と信じられなかった。
だから、呪いのせいでおかしくなっていたとはいえ、今までお前の辛さを少しも聞いてやれなかった俺なんかを一途に一番に置き続けるほど、思い出を握りしめて手放せないでいる。
そんなに寂しく、頑固で、声を上げて泣けないような我慢強いアスターが、化け物でも何でもいいから俺が欲しいと見栄も張らず鼻水たらして駄々をこねてるなら、少しくらい自分を曲げてもいいんじゃないか。
俺にはアスターの気持ちがわかるんだから。第一、男であれ女であれ友達であれ恋人であれ、こんな風に何もかもさらけ出して求められたことはないんだから。
卒業まで一年とちょっと付き合おう。そんで修道院に入ったあとで、昔俺のこと好きだって言ってたよなってからかってやれるくらい、綺麗に友達に戻れるよう努力すればいい。
俺はアスターのそばに行って床に正座した。泣いてる子供にするように下からアスターをのぞきこむ。
「お前さあ、あんなやつの胸糞悪い犯罪に真面目に罪悪感を抱くなよ。諸悪の根源は公爵だぞ。俺だってベラドンナの死の責任だけは絶対に引き受けるつもりはないんだ」
「いいや。確かに僕に罪はあるんだ。純粋に彼女を悼むことができないから」
「それは、ううん」
ベラドンナからすればそうかもな。アスターでそれなら、知らん顔で人生を乗っ取る俺なんか、公爵の次に恨み骨髄に徹する仇に違いない。
「でもベラドンナの存在を知っているのはもう俺たちだけだぜ。あの世からお前らなんかに線香あげられたくねえよって恨み言をぶつけられても供養するのが筋だと思う」
「……うん」
「頷いていいのか? ベラドンナがされたことを自分可愛さに隠そうって言ってんだぜ、俺は」
「その罪を一緒に背負ってくれるんだろ」
「きっと後悔するぞ。俺はもう淑女縛りがないからきっと無自覚に変な行動をする。そんで親が親だろ。確実に陰口叩かれるぞ。お互いのために離れた方がいいんじゃねえの」
「結婚するなら問題なんかないだろ。それに僕はそんなの慣れてる」
「結婚はともかく、そりゃ心強いな。じゃあさ、アスター。俺はお前と一緒にいてもいいか」
よし、何気ない感じで言えた。
胸を撫でおろして無意識に伏せていた視線を上げたら、アスターが前のめりになってた。至近距離でかっぴらかれた紫の目にビビり、どんだけだよと思わず笑う。
すっかりほぐれた気持ちでアスターの右手を握る。やっぱり努力家のでっかい手だ。この年になって誰かにこうするのは照れくさい。
「俺はこんくらいしかできねえんだけど、お前の隣にはいたいんだよ。それでもいいか。まだ俺はお前と手ぇ繋いでていいか」
アスターの瞳孔に俺が映っている。
それを見ていたら、俺の手に上から温かいものが乗っかった。それが俺がもらった許しだった。
また俺が笑うと、アスターは顔をくしゃっと歪めた。俺の手をきつく握って、せっかく止まった涙をまたポロポロこぼしながら背筋を丸めていき、ついに祈るような体勢になった。
俺は手を預けたまま立ち、むせぶ背中を撫でてやる。
バカなやつ。俺じゃなければ恋人らしい楽しみだって味わえるのに。別に恋人じゃなくても、俺以外に鼻水たらせる相手見つけろよ。お前みたいな抱えこみがちなやつが一人で泣くな。
いつまでもこうやって俺が慰めてやれないんだから。
アスターは万事うまくいくと信じたいようだけど、このままなら、俺たちは薄氷の上を歩くことになる。
王様は五十の半ば、長寿とされる六十が見えている。公爵によれば王太子は不治の病だ。
現状、王位継承権第二位のアスターが三十になる前に王になる可能性は高い。それまでにアスターが正気に戻ってなかったら、貴族たちはアスターに正統な跡継ぎをもうけさせるために、あるいは俺を理由に一族が強力な派閥を形成しないために俺を処分する恐れがあるのだ。
さすがにアスターが俺を手放したら命は勘弁してもらえると願いたいが、世の中には念には念を入れたがる人はいるだろう。
この国のために死んでやるつもりは毛頭ない。あと愛人になるつもりもな。だから万が一のことがあったら、アスターには責任取って俺の延命のために共闘してもらうつもりだが、四面楚歌には変わらない。
でも起こるとも決まってない未来ばっかり怖がって、お前のくれる友情や今日を台無しにするのは癪だからさ。
学園生活楽しもうなアスター。その先の人生も。そんでもっと友達や頼れる相手を作ろう。
そうしたら、別れのときが訪れたとしても、きっと俺たちは大丈夫だよ。
万が一のことがあっても、拾われた命ならアスターのために失うのはしょうがないって限りなくかっこつけてやるからな。お前はあんまりべそべそしないで、きちっとやり返して前向けよ。そんでかっこいい俺の死に様を子々孫々語り継げ。
心の中で呟いて、撫で疲れた手を止めた。でもなんとなくそのままアスターの背に置いておく。
アスターが俺の手をいらないと言うまでは、ずっとそうしてやろうと思った。
これにてベラドンナ編は終了です。アスター編はこれから書きます。とにかく大好きなベラドンナと結婚したいアスターが奮闘する話になる予定です。
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ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




