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【短編】病弱聖女は隣国に逃亡して幸せになります ~隣国に移住してから家族と婚約者が大変みたいですが、知りません~

作者: shiryu


「聖女レイシア様、こちらに!」


 魔物の襲撃が増えてきたのは、たしか半年前くらいからだったと。


 最初は国境沿いだけの被害だったのが、いつの間にか王都周辺の街道にまで魔物が出るようになった。


 ――そのせいで負傷兵や旅の商人の救護要請が、連日私の元へ届くようになった。


 ここ、オルデシア王国の王都には私以外にも聖女の方々はいるけれど、なぜか私は四六時中呼び出されてしまう。


 みんな苦しんでいるのだから治してあげたいという気持ちはある。

 でも……。


「レイシア様、こちらの方も急いで……!」

「……はい、今行きますね」


 促されるまま、私は治療所の端で横たわる兵士のもとへ駆け寄った。

 彼の腹部からは大量の血が流れており、意識は朦朧としかけている。


 っ、これは、致命傷かもしれない……!


 息を呑みそうになるのをこらえて、私は床に膝をつく。

 瞼は重そうに震え、いつ意識が途絶えてもおかしくない状態だ。


「大丈夫、落ち着いてください。今すぐ治しますから……」


 私自身も立ちくらみがするほど消耗していたけれど、この人の命を見捨てるわけにはいかない。

 深く息を吸い込み、指先に神力を集中させる。


「光よ……痛みを和らげ、命を抱きしめて……!」


 手のひらから淡い光が差し込み、兵士の傷口に重なる。


 じわりと光が広がり、痛みを浄化するように兵士の血を止め、失った体力を少しずつ補っていく。


「もう少し……耐えてください……!」


 額に汗がにじむのを感じながら、私は魔法を維持する。

 やがて兵士の表情がわずかに和らぎ、切り裂かれた傷口が塞がっていくのが見えた。


「はぁ、はぁ……大丈夫、命は繋ぎとめられたわ……」


 光が消え、私は浅い呼吸を繰り返す。


 周囲には安堵の溜め息が広がった。衛兵さんたちも「よかった……」と小さく呟いている。


 けれど、自分の身体はもう限界に近い。


 まるで血液が一気に抜けてしまったかのような脱力感に襲われ、ふらつきそうになるのを必死で支える。


 そろそろ立っているのもやっとなのに、看護役の方や衛兵さんたちは、誰も私を休ませるとは言ってくれない。


 それも無理はない。


 負傷兵や病人が次から次へと運ばれてくる中、私だけが休むわけには……と思ってしまう自分もいるのだ。


(でも、本当は少しでもいいから横になりたい……)


 そう心の中で呟いても、誰ひとり「休んでいいよ」と声をかけてくれない。


 こうして今日も、私は自分の身体を限界まで使って神力を振り絞り、また次の負傷者のもとへと向かうしかなかった。


 怪我人や病人の数が多すぎて、他の聖女さんたちが休憩に入ったあとでも私一人が残って治癒を続けるしかない場面が多いのだ。


 骨が砕けた兵士の腕を繋げ、毒傷に苦しむ人の体内から毒素を抜き、そして血反吐を吐く患者をなんとか止血する。


 次から次へと運ばれてきて、気がつけば空が夕方の色に染まっている。


 胸のあたりが熱くなったり、呼吸が浅くなったりするのは、慣れてきた――わけではないけれど、今さら騒いでも誰も代わってはくれない。


 もともと丈夫な体ではない自覚はあるから、いつも以上に気をつけて魔力を振り絞っているつもり。

 だけど、限界はやはりやって来るものだ。


「はっ……」


 意識がぐらりと揺れ、視界が霞む。

 頬に冷たい汗が伝って、足元が崩れるように地面に膝をつく――その瞬間。


「レイシア様! 大丈夫ですか!?」


 看護役の青年が慌てて声を上げてくれるけれど、耳にこもった雑音が大きくて、言葉を正確に拾えない。

 

私はかろうじて笑みを作ろうとしたが、うまく表情筋が動いてくれなかった。


 このままでは、かえって周りの方々に迷惑をかけてしまう。


「すみません……私……少し、休ませて……」


 なんとかそう告げて、私は床に手をついたままぐったりと目を閉じた。

 最後にぼんやり見えたのは、血や薬の匂いが混ざり合う救護所の光景だった。



 結局、私は馬車に乗せられて家に戻されることになった。


 国の救護任務を途中で抜けるなんて、本来ならばあり得ないのだろう。


 それでも動けなくなるくらい倒れた私を放置するわけにもいかないから、衛兵さんたちが手配してくれたのだ。


 だけど、馬車の中は暑いのか寒いのかもわからないほど、頭がガンガンする。

 熱を出してしまったみたいだ。額に触れてみると、自分の手もひんやりとは思えなくて、そっとため息が漏れた。


「また、体調を崩しちゃった……」


 ぼんやりと車窓の外を見れば、王都の街並みがいつもより暗く感じる。


 体調を崩すのはこれが初めてではない。

 むしろ何度目になるのかもう覚えていないくらいだ。


 そうして私はどうにか家の門をくぐった。


 私の実家、オールステット公爵家。

 玄関へたどり着く頃には、頭痛はさらに酷くなっていて、使用人さんの顔をまともに見られない。


 フラフラしながら廊下を歩いていると、見知った声が聞こえてきた。


「また早く戻ってきおったのか。せっかくの治癒任務を途中で投げ出すなんて、病弱なやつめ」


 その声は父だった。横には母もいる。


 私は立ち止まり、ふらつく身体を何とか支えながら二人のほうを振り向く。

 息苦しさをこらえ、深く頭を下げた。


「申し訳、ありません……」

「まったく、少しは公爵家の名に恥じない行動をしてほしいものだね」


 母の張りのある声が、怒りを含んで私の耳に突き刺さる。


 確かに、途中で倒れてしまって任務を続けられなかったのは事実。


 でも、私は精一杯やった。だからそんなに責めないでほしいんだけど……。


 ――そう思う私の気持ちとは裏腹に、もう一人、冷ややかな嘲笑を浮かべる男の声がした。


「聖女のくせに、自分が倒れてしまうとは。世話ないな」


 兄のマテウスだ。

 彼は壁に背を預け、冷たい瞳で私を見下ろしている。


「兄さま……その、私も、できる限り頑張りました……」


 何とか声を振り絞ってそう言うと、マテウスは鼻で笑うかのように息を吐いた。


「頑張った? 倒れて帰ってくるようじゃ、国からの信用を失うかもしれないぞ」


 そう言われると、私はどう返せばいいのかわからない。

 そもそもまだ体調は悪いので、身体はふわふわして足元が今にも崩れそう。


 でも、父も母も兄も、私の体調に構う気はなさそうだ。


 立ち話を続ければ本当に私、意識が飛んでしまいそう。


「すみ、ません……」


 再び小さく謝罪の言葉を口にして、頭を下げてからその場を去った。


 後ろから「ふん、病弱な役立たずめ」と声が聞こえた。


 私は聖女――多くの方々を癒やす力を持っているのだから、こんなことで倒れてはいけない。


 そう言われて生きてきたけど……。

 でも私の体は昔から丈夫ではない。


 周りを心配させないように気をつけてはいるのだけど。


 今回みたいに限界を超えてしまったら、こうして余計に父たちの不満を買うことになる。


「聖女だから、もっと頑張らないと……」


 自室へ向かいながら、私は小さくそう呟く。熱で朦朧とした頭のどこかで、何かがちくりと胸を刺す感覚があった。



 翌日、私はどうにか熱を下げて身支度を整えた。


 本当はまだ体が重いし、頭痛も残っている。

 それでも今日は社交界に出席しなければならない。


 私の婚約者であるニコラウス王子が、貴族たちと面会する場に私も同行することになっているからだ。


 普通なら、婚約者が自宅まで迎えに来てくれるのだろうと思う。


 けれど、私にその連絡はなかった。


 もしかして、もう会場に行ってしまったのかもしれない。

 迎えを待っていては遅刻してしまう。


 だから私は仕方なく馬車を手配し、自分一人で社交界の開かれる会場へ向かうことにした。


 会場は、華やかな装飾が施されたホール。


 明るいシャンデリアの光が目に沁みる。


 でも、うまく笑顔を作らないと。

 ここは貴族たちの社交の場だし、私の婚約者は王子なのだから、そばに寄り添って彼を立てなきゃならない。


 少し息苦しい、昨日の疲労も残っているんだろう。

 そう思いながら人だかりを縫って歩いていると、見覚えのある後ろ姿が目に入った。


 黒髪をすっきり撫でつけた男性――ニコラウス王子だ。


 私の姿に気づいたのか、振り返って視線が合う。


 だけど、彼の顔は少しも笑顔がない。


 嫌な予感がして私は恐る恐る近づいた。


「昨日も倒れたようだな。婚約者として迎えを出そうにも、具合が悪いんじゃどうしようもない。そもそも私は忙しくてね。来てもらうのが手っ取り早いと思った」


 挨拶の代わりにそんな嫌味を言われ、胸がぎゅっと痛んだ。

 やはり迎えを省略されたのは、私のせいだと言いたいらしい。


「申し訳ありません……昨日は、治癒の仕事中に倒れてしまって」


 小声で謝っても、ニコラウス王子は目を細めるだけだ。


「聖女なんだろう? ちゃんとしてくれよ。私の婚約者がふらふらしては、国民に示しがつかない」


 その通りだ。

 でも、私は病弱なくせに治癒の任務が多く、倒れてしまうこともある。


 もっと体調管理をすべきなのかもしれない。


「はい……すみません」


 こんなやり取りを、ほかの貴族たちはどう見ているのだろう。


 王太子と聖女という立場上、周囲からの視線は痛いほど感じる。


 だけど今は耐えるしかない。

 そのまま私とニコラウス王子は並んで歩き、社交界の中心に足を踏み入れた。


 周囲の貴族や令嬢たちが会釈し、あるいは少し距離を置きながら私たちを見ている。

 ここでの挨拶や会話は皆、表面上は「お優しい聖女様」「将来の王子妃にふさわしい」といった好意的なお世辞で溢れている。


「レイシア様は素晴らしい治癒の力をお持ちだと伺っていますわ。王都や領地の方々をどれだけ救ってこられたのか……」


 笑顔でそう言われると、私はいつもどおり短く返す。


「いえ、私などまだまだで……」


 すると、隣のニコラウス王子が間を割るように口を開いた。


「その通りだ。私の婚約者は未熟者でね。治癒能力があるとはいえ、昨日だって自分が倒れてしまう有様だ。まだ王妃候補として先が思いやられるよ」


 棘のある言い方に、周囲の人たちが少し戸惑ったような気配を見せる。

 私はどうにか笑顔を保とうとするけど、うまく笑えているのか自信がない。


「はい、申し訳ありません……」


 胸がぎゅっと締めつけられるような痛さを感じる。


 それに加えて、まだ熱が下がりきっていないせいか、顔がぽうっと火照っている。

 涼しいはずの会場なのに、息苦しさが消えない。


 どうしても体が重くて、立っているのが辛い。


「ニコラウス様、少し休憩室に行かせていただけませんか……?」


 意を決してそう申し出ると、王子は嫌そうに眉を寄せ、まるで面倒くさそうに私を見下ろした。


「またか。病弱な奴め。もういい、勝手に下がっていろ。私の顔を潰すなよ?」


 その言葉に、私は小さく頷くことしかできなかった。


 さすがに周囲の人々の中には気まずそうに視線を逸らす人もいるけれど、誰も王子に文句は言わないだろう。


 相手は次期国王なのだから。

 私はその場を抜け出すように足早に歩き、やっとの思いで休憩室へ向かう。


「っ……はぁ……」


 少しでも人目から逃れようと、廊下の角を曲がったとき、不意に視線の先にニコラウス王子の姿が見えた。


 私を休憩室まで案内するどころか、私とは反対方向に向かっているみたい。

 それだけならまだいいのに――彼の腕に、華やかなドレスの令嬢がしがみつくように寄り添っていた。


 遠目にもわかる艶やかな髪の美しい令嬢が、上目遣いでニコラウス王子を見上げてにこやかに話しかけている。


「また……」


 ああ、もう何を考える気力もない。

 私は視界が霞みそうになる目をぎゅっと閉じた。


 余計に体がしんどくなって、頭がクラクラする。


 どうして私は婚約者のはずなのに、こんな扱いばかり受けるのだろう。


 私が聖女だから? 病弱だから?

 それとも私は本当に婚約者の資格さえない存在なのだろうか。


「……」


 私は壁に手をつきながら、休憩室へとふらふら歩く。


 もう倒れたくないのに、全身から力が抜けていくようで……今日もまた、情けない姿を人前にさらしてしまいそうだった――。



 あれから私は、いつもどおり聖女としての務めをこなし続けた。


 魔物の被害は一向に収まらず、怪我人や病人はあとを絶たない。


 連日連夜の治癒を求められて、倒れるたびにどうにか薬で熱を下げ、また呼び出しがあれば出向いていく。


 そんな日々が当たり前になってしまっていた。


 実家のオールステット公爵家へ戻れば、父や母、そして兄のマテウスから「また早めに引き上げてきたのか」「病弱なやつめ」などと難癖をつけられる。


 それでも、ここが私の帰る家であり、家族だと思っていたから、私は言い返せないまま謝罪するしかなかった。


 母国オルデシア王国を救うためにも――そして家の名を汚さないためにも――一度でも楽をしたり休んだりすれば、両親や兄の失望を買う。


 だけど、頑張りすぎるとまた治癒の最中に倒れてしまう。

 どちらに転んでも責められてしまう私は、いつの間にか寝る時間を削って、少しでも体調を保つ薬を探すのが日課になっていた。


 そんな自己管理も焼け石に水で、私は一度倒れれば熱を出すし、咳込みながら仕事に行く日もある。


 王宮の衛兵さんには「レイシア様、無理しないでください」と言われても、結局それ以上の救いの手は差し伸べられない。


 たまに他の聖女の方が交替してくれたりするけれど、どこかで魔物の大群が現れたなどの緊急報告が入れば、またすぐに私が呼び出されるのだ。


(――こんな生活が、どれだけ続くんだろう)


 最近は少し時間があっても、ベッドで横になるのが精一杯。


 両親に顔を合わせると「また休むのか」「怠け者め」と言われ、兄に至っては「体調管理もできない聖女など必要ない」と冷たく放り捨ててくる。


 私はそれでも耐えていた。


 自分が苦しい分、治った人たちの笑顔を思えば、救われる気もしていた。


 けれど、そんな私の思い上がりを――ある日の夜、根こそぎへし折られる出来事が起こる。



 その晩、私はなぜか眠りが浅く、夜中に目を覚ましてしまった。


 体がだるくて喉も乾いているし、少し水分を取ればまた眠れるかもしれない。


 そう思って部屋を抜け出し、廊下を歩いて台所へ向かおうとする。

 だが、屋敷の奥から微かに声が聞こえた。


 こんな夜更けに誰が話しているのだろう?


 注意深く耳を澄ませながら進むと、声は応接室のほうから漏れていた。


 父や母の話し声か……いや、二人だけじゃない。


 私はその扉の近くで足を止める。

 壁に耳を寄せるわけにもいかないけれど、ドアの隙間から声ははっきりと聞こえた。


「……いずれあいつは死ぬでしょう。あれだけ病弱で、その上無理ばかりしているのだから」


 ――この声はニコラウス王子だった。


 私は一瞬、心臓が凍りついたような感覚に襲われる。

 なぜ王太子で婚約者のはずの彼が、こんな時間に私の父や母、兄と一緒に話し合っているのか。


 そして次の言葉を聞き、私はさらに悪い予感に支配された。


「しかし、自然に死ぬのを待つより、手を回して処分してしまったほうが早いのではありませんか? この国には、他にも聖女が多少おりますし、学説によると、一人が死ねば神力は別の誰かに受け継がれるとも聞きます。……病弱な聖女を処分すれば、そのうち次の聖女が生まれるでしょう?」


 処分、という言葉が耳に突き刺さる。


 まさか、私のことを……?

 そんな……殺そうとしているの?


 思わず身体が震えて、手から汗が噴き出る。


「ですが、陛下や周囲の目がある以上、どう言い訳するつもりですか? それに、我がオールステット公爵家の立場が危うくなるのではありませんか?」


 今度は父の声が聞こえ、私はかすかな安堵を感じかけた。


 父は、家族は反対してくれるだろう。

 私を見捨てるような真似は、さすがにない――。


「オールステット家は代々王家に仕え、宮廷の中でもでも大きな立場ですよ。あの娘がいなくなっても、もともと公爵家の威光は揺るぎません」


 ニコラウス王子の冷ややかな口調が続き、それに母が頷くように返事をした。


「ならば……ええ、そうね。あの子がいなくても、うちの名声は保たれるかもしれないわね。私たちは王家に長く仕え、国からも認められているから」

「ふむ……」


 父の声は唸るようだった。


「しかし、あの娘の治癒能力で我が家が得ていた恩恵というのもある。どうするつもりだ」


 すると、間髪入れずに兄のマテウスが口を開く。


「確かに、あいつは俺たちが成り上がるための道具だった。けど、結局は倒れて帰ってくることも多いし、そこまで使えるわけでもなかった。もういいんじゃないか? いなくても特に困りはしないだろう」

「……そうだな。中途半端に病弱な聖女より、次に生まれるかもしれない聖女のほうが、この国のためを思うと、期待できるだろう」


 父はあっさりと言い放ち、あろうことか母と兄も納得したように静かに頷く気配がした。


(嘘、でしょ……)


 ずっと家族だと信じていた両親と兄が、私を『もういらない』と評している。


 そして婚約者であるはずのニコラウス王子も、その話を主導している――。


 頭が真っ白になった。

 声すら出ない。


 体の震えが止まらず、冷たい汗が背筋を伝っていくのを感じる。


 本当に、冗談ではなく、彼らは私を死なせようとしている……。


 しばらく耳を澄ませてみたものの、彼らは私の生死よりも「この先の家の立場」と「王子との関係」が最優先のようだ。


 まるで人形か駒でも扱うかのように、私の命を「消してもいい」と結論づけている。


 私は恐ろしくなり、廊下をそっと引き返した。


 扉のそばにいたら、いずれ気配に気づかれてしまうかもしれない。



 部屋に戻ると、呼吸が荒くなっていた。


 心臓が早鐘のように鳴り、手足が冷えきっている。

 ベッドの縁に腰掛けて息を整えようとするけれど、どうにも落ち着かない。


 まさか、自分の家族が、そして婚約者が「私を死なせよう」と話し合っているなんて……夢ならどれほど良かったか。


「家族も婚約者も、一度も私を心配してくれなかった……本当に、私の命さえ使い捨てる気だったのね……」


 そう呟いたとき、痛みが胸の奥からこみ上げてきて、泣きそうになる。


 でも、涙を流すことさえも惨めだと思い我慢する。


 ここにいれば、本当にいつか殺される。


 いずれは自然死を装ったり、何かの事故を仕組まれたりするかもしれない。

 体が弱っているのを見計らって、どこか人目のない場所に放り出される可能性だってある。


 この国で命を落としたところで、あの人たちは誰も悲しまない。


 むしろ「次の聖女が生まれるからいいじゃないか」と考えるような人々なのだ。


 それならば、今はまだ逃げるチャンスがあるはず。

 オルデシア王国の外に出れば、少しは彼らの手が届きにくいだろう。


 この王国にいれば私の行動はずっと監視され続けるかもしれないが、隣国のラインハルト帝国までたどり着ければ、状況も変わるかもしれない。


 隣国には聖女がほとんどいないと聞いたことがある。


 もし私が行ったら、最低限の待遇は受けられるかも。


 もちろん、そこでも「病弱な聖女なんて要らない」と冷たくあしらわれる可能性はあるけど。


 けれど、ここに残っていれば確実に殺される。

 どちらを選ぶかは、明白だった。


「もう、誰も……信用なんて、できないわ」


 家族も王太子も、私を利用する道具としか思っていなかったのだ。


 だから私自身も、一人で逃げる以外の手段はない。


 どこかに助けを求めたとして、また裏切られたらどうしようもない。


「一人でやるしかない……今のうちに、こっそりこの屋敷を出るのよ……」


 私はそう自分に言い聞かせる。


 震える手を握りしめて、押し殺すように息を吐く。

 いつかの未来で、婚約者に始末されるなんて絶対に嫌。


 まだ体調は完全じゃないけれど、時間をかけている余裕はないだろう。


 父も母も兄も、ニコラウス王子がいる以上、すぐにでも私を殺す計画を進めるかもしれない。


 私の部屋には最低限の荷物しか置いていないし、これまであまり買い物をした経験もない。


 だけど、何も持たずに逃げるとさすがに生きていくのは大変だ。

 金貨や身分証、少しの衣服くらいは持って行かなければ。


 すぐにクローゼットを開け、使えそうな服をバッグに詰め込む。


「明日の朝までは待てないわね……」


 夜のうちに屋敷を抜けるのが最良だろう。

 見張りの兵がいるかもしれないが、日中よりはすり抜けやすい。


 私は行き先を頭の中で反芻し、ラインハルト帝国へのルートをざっくり思い描く。


 王都の外れから馬車を借りて国境に向かえれば、あるいは何とかなるかもしれない。


 不安は尽きない。それでも、ここにいるよりはましだ。


 ここが私の生まれ育った家だなんて、もう思いたくない。


 誰もが私を使い捨てにしようとする場所なんて、家でも何でもなかった。


 だから私は決意を固める。

 震えを抑えながら荷物をまとめ、床に散らかったものを手早く整理した。


 静かに足音を殺し、扉へ向かう。


「……殺されたりなんか、しない。私だって、生きたいんだから」


 まだ夜は長い。

 私は一刻も早くここを出なければならない。


 息を詰めながらドアノブに手をかけ、廊下の様子をそっと窺う。


 誰もいないことを確認して、私は後ろを振り返らずに歩き出す。


 もう戻らない。


 道具でも消耗品でもなく、一人の人間として少しでも報われる場所を求めて――今、私は逃げ出した。



 ――屋敷を出てから、もう何日が経ったのか。


 正確な日数を数える余裕さえないまま、私はひたすら国境を目指して動き続けた。

 夜のうちに抜け出して、王都の外れまで馬車に乗り、さらに途中で別の馬車に乗り継いで……。


 あちこちを迂回するように移動してきたけれど、そろそろ手持ちのお金も底を突きそうな気配があった。


 実際、最後の乗り換えのときには、ほとんど払いきってしまった状態だった。

 結局、国境領までは何とか辿り着いたものの、それから先へ進む手段がない。


 今この場所には「隣国行きの商人馬車」もあるにはあるが、もう金貨を払えない私には、その馬車に乗る権利などない。


 商人のほうも仕事で移動しているわけだから、タダ乗りなんて許されるはずがないのだ。


(歩くしか、ないわよね……)


 熱と疲労が酷い。

 以前に治癒任務で酷使されたまま、ろくに休まず逃げてきたわけだから、当たり前といえば当たり前だ。


 それでも、この国境さえ越えれば、少なくとも家族やニコラウス王子の追っ手からは逃れられるかもしれない。


 そう信じて、無理やり身体を動かすしかない。


 朝日が薄く辺りを照らす中、私はできる限り人目を避けつつ、国境領の町を歩いていた。

 むやみに顔を出すと、どこで誰に見咎められるかわからない。


 もうすぐ国境の関所があるが、果たして通り抜けられるのだろうか。


 ちらっと耳に入った話によれば、王都で「ある聖女がいなくなった」と、すでに噂になっているらしい。


「王都の聖女がいなくなったんだとよ。しかも生死問わず……報酬が出るんだってさ」

「生きて連れ戻せば、何か利用するらしいし、死んでいても神力が次に移るから構わんって噂だよな」


 私が偶然聞き取れたのはそんな会話だった。


 誰も私の顔を覚えていないといいけれど、もし私がその聖女だと知れたら、賞金目当てで捕らえられるか、あるいはその場で殺される可能性もある。


 実家の家族が私を捜索してくれるわけもないが、国としては「聖女」の行方不明は一大事なのかもしれない。


 あるいは王太子が公的に手を回して、私がここにいるのを探させているのだろう。

 私の命なんてどうでもいいと思っているくせに、都合の良い道具として扱われるのがオチだ。


(もう、家族にすがるつもりもない。どうせ本当に私を殺す気なんだから……)


 絶望が頭をかすめても、私はひたすら足を動かす。


 ほとんど意地だけで歩いている。


 ここまで来て止まるわけにはいかない。


 呼吸が乱れて、喉が乾きすぎて痛むが、今の私には十分な食料も水もない。


「――っ……はぁ、はぁ……」


 国境の関所が近づくにつれ、道の両脇には広々とした荒地が広がっている。

 誰かとすれ違ってしまわないかと警戒しつつ進んでいたが、幸い、周囲には人影が見当たらない。


 きっとこの辺りは商隊が通らない裏道なのだろう。


 私は時折足を引きずりながら、小走りのように進んだ。


 熱はまだ下がらず、頭痛も続いている。


 それでも追っ手が来る前に国境を超えないと、捕まれば賞金稼ぎに売り渡されてしまうだろう。

 どれほど歩いたかよくわからない。


 ここ数日まともに寝ていないし、食べていない。


 体が軋むように痛い。


 だけど、もう少し……もう少しだけ頑張れば、隣国ラインハルト帝国の領土に入れるはず。


「早く……隣国に、行かないと……」


 唇を噛みしめながら前を向いた、そのときだった。


 突然、どこからか獣のような低いうなり声が聞こえた。


 私は反射的に辺りを見回す。

 視界の隅に、何やら黒い影が揺れるのが見えた。


 ――まさか、この辺りにも魔物が出るのか。


 いや、国境付近は魔物の被害も大きいと聞いていたけれど、実際に遭遇するとは。


「っ……こんなときに……」


 声にならない悲鳴が胸の奥で漏れる。


 戦うだけの余力なんて、今の私にあるのか。


 とはいえ逃げる力も残されてはいない。


 左右を見渡しても、ひたすら荒野が広がるばかり。


 私の足では逃げ切れないだろう。


 姿を現したのは、大きな狼のような魔物だった。

 二頭、いや三頭……背中にゴツゴツとした棘が生えていて、黄色く濁った目をこちらに向けている。


 口元から垂れる唾液は、毒を含んでいるかのようにどす黒く見えた。


(……倒すしか、ない。こんなところで死ねない)


 私は深呼吸をしようとするが、熱で肺が痛んでうまく呼吸ができない。

 それでも構わず、左手を胸に当てて魔力を集中しようとする。


「はぁ、はぁ……私だって……死ぬわけには……いかないのよ!」


 右手を前に突き出し、辛うじて残った力を振り絞る。


 私の治癒魔法は普段、人を癒やすために使うものだけれど、一応、魔物を浄化することもできなくはない。


 特に相手が瘴気を帯びている種であれば、浄化作用が有効に働く。

 巨大な狼の魔物たちが牙を剥いて突進してくる一瞬前、私は渾身の気合を込めて魔法を放つ。


「――っ、消えて!」


 光が爆ぜるように広がり、魔物たちが苦悶の声を上げる。


 視界が白く染まり、その光の中で魔物の砕け散っていくように見えた。

 普通なら、冷静に対処すればもう少し穏やかな浄化ができるはずだが、私の体調と精神は極限状態に近い。


 いっそ自分の命を削るような勢いで、全力をぶつけた。


 そして魔物の影がすべて消え去ったあと、私は立っていられなくなった。


「……はぁ……はぁ……よかった……」


 一瞬だけ安堵の息が漏れる。


 でも、そのまま全身の力が抜けて、両膝が崩れた。


 さっきからずっと蓄積されていた疲労や熱、今の浄化魔法で止めを刺されたみたいに、頭がぐらぐらする。


 荒野の地面に片手を突くが、それでも支えきれず、私はそのまま斜めに倒れ込んだ。


「も、う……ダメ……」


 意識が遠のいていく。ぼやけた視界の端で、何かが動くのを感じる。


 馬の蹄の音だろうか。

 確かに、こちらに向かって蹄が砂を踏む音が近づいてくるのがわかる。


 誰かが来る……でも、その人が敵か味方かなんてわからない。


 もしかすると、賞金稼ぎかもしれないし、ただの旅人かもしれない。


 私はもう立ち上がることもできず、まぶたが勝手に重くなっていくのに抗えない。

 倒れたままの私に、馬に乗った人影が迫ってくる。


 曖昧な影にしか見えないけれど、その人は何か言葉を叫んでいるみたいだった。


 声を聞き取りたいのに、耳鳴りがひどくて、何も理解できない。


 身体を起こそうと手を伸ばしてみるが、ほとんど動かない。


「っ……」


 私の口から声が出たのかどうかさえわからない。すべての感覚が遠のいていき、私は目を閉じるしかなかった。


 熱のせいか、全身が重く痛む。こんなところで倒れてしまえば、そのまま命の灯が消えてしまうかもしれない――だけど、もう耐えられない。


 最後に瞳に映ったのは、馬上からこちらを覗き込むかのような人影。

 それを認識した瞬間、私の意識は暗闇に沈んでいった――。



◇ ◇ ◇



 イクセルは、いつものように国境を巡回していた。


 ラインハルト帝国の騎士団長という立場上、周辺地域で魔物が出るとの報告があれば、率先して現場を確認するのが仕事だ。


 今日も数名の部下を連れて馬を駆っていたところ、荒地の奥から激しい魔力の気配がした。

 魔物が潜むという噂のある一帯ではあるが、あれほど強い光を感じるのは珍しい。


「まずい、誰か襲われているのか?」


 イクセルは部下たちに軽く合図を送ると、先陣を切って馬の手綱を引いた。


 轟々と風を切る中で、遠目に人影が見える。

 狼のような魔物が数頭、獰猛な唸り声を上げながら、何かに飛びかかろうとしているのがわかった。


「間に合え……!」


 イクセルは馬腹を軽く叩き、さらに速度を上げる。


 あと数呼吸分も遅れたら――そう焦りを感じた瞬間だった。

 魔物たちのほうから、突如として強烈な光が爆ぜるように広がったのだ。


 魔物たちが苦悶の声を上げながら光の中で霧散していく。


 イクセルは馬上で目を細め、その光景を見届けた。


「今のは……まさか、聖女の力か?」


 ラインハルト帝国では数人しかおらず、オルデシア王国では数十人はいるという、特別な浄化の力。

 それをここ、ラインハルト帝国の国境で目撃するとは考えてもいなかった。


(しかも今の力は、帝国の聖女たちの誰よりも強かった。あれほどの光を放てる聖女が存在するのか?)


 イクセルはそんなことを考えていると、光の中心にいた人物が力尽きたように地面へ倒れこんでいた。


「おい、あれは……!」


 部下の一人が指差すのを見て、イクセルは迷わず馬を向ける。

 荒地の地面に伏した女性の姿――青ざめた顔がひどく痛々しい。


 傍まで駆け寄り、イクセルは馬を降りた。


「大丈夫か?」


 問いかけたところで、返答はない。


 彼女の小さな肩は小刻みに震えているかと思えば、呼吸が乱れていて、見ているだけでも危険な様子がうかがえた。


 イクセルは女性の腕をそっと引き上げ、倒れた身体を抱きかかえる。


「相当消耗しているな。瘴気に当てられたのか、いや違う、これは……」


 魔物を浄化するほどの聖女であれば、普通、瘴気への抵抗力があるはず。


 しかし彼女の体はか細く、不健康そうな印象を受ける。


 見た限りでも、ろくに栄養をとれていないのだろう。

 頬がこけ、指先も痩せて冷たい。


 イクセルはここで彼女を放置するわけにはいかないと判断した。


 もし本当に聖女の力を持っているのなら、なおさら見捨てるわけにはいかない。


「お前達、彼女を馬に乗せて近くの街まで運ぶぞ」


 彼が部下に指示すると、皆が素早く動き始める。

 イクセルは女性を丁寧に抱き上げ、馬の鞍へと乗せてから自分も後ろに跨った。



 イクセルたちが街に着くとすぐに医師を呼び、倒れた女性を診てもらうことにした。


 医師は初老の男性で、イクセルたちは騎士として何度か巡回に来ており、顔見知りでもあった。


「ふむ……脱水症状がかなり進んでいますね。それと、相当な魔力不足……いえ、聖女様でいうなら、神力不足といったところでしょうか」


 血色の悪い彼女の顔を診察しながら、医師はそう言った。


「回復にはしばらく安静が必要です。熱もありますから、十分に水分と栄養を摂ってもらわないと」


 医師はそう告げると、簡単な処置と薬を用意してくれた。

 医師が帰ったあと、診療所の部屋にはイクセルと、いまだ眠る女性だけが残された。


 ほかの騎士たちは外で待機し、街の防備を確認しているところだ。


「隣国の聖女が一人、行方不明になっていると聞いたが……。生死を問わず、なんておかしな話だ。普通なら、貴重な力を持つ聖女を無闇に殺そうなんて思わないはずだが」


 イクセルは、寝台に横たわる女性の顔をそっと覗き込んだ。


 頬のこけ具合が痛々しく、長旅で相当消耗したのだろうと察せられる。


 オルデシア王国から届けられた手配書には「聖女の失踪につき、できれば生存での発見を希望する」とあるのだが、裏では「死体でも構わない」という噂が広まっているという。


 およそ常識ではあり得ない扱いだ。


「よほど、隣国でひどい仕打ちを受けていたのか……」


 そう呟くと、イクセルは彼女の手を見つめる。


 指先にはかすかな傷が残り、手首には痣のような痕まである。

 治癒魔法を使う聖女ならば、本来こうした表面の傷はすぐに癒せるはず。


 それすらできないほど追い詰められていたのかと思うと、胸が痛んだ。


「……ん……」


 不意に、寝台の女性が小さく唸るような声をもらした。

 イクセルが驚いて顔を上げると、彼女がまぶたを少しだけ震わせている。


「大丈夫か? 無理に動かないほうがいい」


 イクセルが静かな口調で話しかけると、彼女の瞳が薄く開き、かすかに焦点が合ったようだった。


「……ここは……?」


 かすれた声で小さく尋ねたので、イクセルはゆっくりと説明する。


「ラインハルト帝国の国境近くの街だ。俺は騎士団長のイクセルという。君は荒野で魔物を浄化したあと、倒れていて……ここで治療を受けているところだ」


 言葉を聞いた彼女は、弱々しいながらもほっとした様子を浮かべた。

 それから細い息で「よかった……」とつぶやく。


「そうか……。隣国まで、逃げたくて……私……」


 彼女は途切れ途切れに言葉を重ねていく。

 喉が渇いているのか、声がかすれて思うように出ないらしい。


 それでもがんばって伝えようとしているようだ。


「俺たちは何も君を傷つけるつもりはない。ここには危険はないから、安心してほしい」


 イクセルがなるべく優しい声で言うと、彼女は小さく瞳を潤ませる。


「私、向こうでは聖女をやっていて……それで、殺されるかもしれないと思って……逃げてきました」


 ぎこちなく言い終えると、彼女の目から涙が一滴だけこぼれる。

 イクセルはその言葉に、確信を得たような気がした。


 やはり何か恐ろしい事情があって、彼女はオルデシア王国を出奔したのだ。


「ここは安全だ。もう誰も君を脅かす者はいない。ゆっくり休むといい」


 その言葉を聞き、彼女は「よか、った……」と安堵の吐息を漏らし、また意識を手放すように眠りへ沈んでいく。

 イクセルはそっと毛布を引き上げ、彼女のやせ細った腕を包み込むように隠した。


「……どれだけ苦しい思いをしてきたんだろうか」


 まともに飲まず食わずで旅をしていたのだろう。

 オルデシア王国の聖女が行方不明になり、「生死を問わず」探されているという話。


 それがこの女性なら、彼女が命を狙われていた可能性は高い。


 普通、貴重な聖女を殺そうなどあり得ないはず。


 なのにそういう指令が出ているということは、よほどの事情があるのだろう。


「どんな理由があるのかは知らないが、少なくとも……もう追いかけさせたりはしないさ。俺たちが守る」


 誰に向けてでもなく、イクセルはそう呟いた。


 何より、彼女を見つけたのは自分だ。

 見ず知らずの土地で倒れた彼女をほっておくなど、騎士の名が廃る。


 どれほどの苦労を強いられたかは想像もつかないが、せめて今はこの街で休んでほしい。


(俺のせいで余計な危険に巻き込むことはないようにしないとな。……できるかぎり、守ってやらないと)


 そう心の中で誓いながら、イクセルは彼女のやわらかな寝息を確かめた。

 せめて今だけは少しでも安らかな眠りを――そう願って、細く息を吐いた。



 一方――オルデシア王国の王都では、「歴代トップの神力を持つ聖女」が突如姿を消したという騒ぎになってから、すでに一週間が過ぎた。


 失踪したのはオールステット家の娘、レイシア・オールステット。

 そして彼女は第一王太子ニコラウスの婚約者でもあった。


「一体どこまで探しに行っているのか! まだ見つからないのか、あの親不孝者の馬鹿は!」


 オールステット家の当主、ガストン・オールステットは怒声を上げながら執務机を荒々しく叩いた。


 家の書斎では彼の夫人であるエヴァリンと、息子のマテウスが顔を顰めている。


 ここ数日、三人は最悪の心境だった。


 レイシアがいなくなったと報告を受けて以来、国中に噂が広まり、あちらこちらで捕縛命令や手配書を出しても成果がない。


 それどころか、社交界では「オールステット家の娘が逃げた」などと嘲笑めいた話題が上がっているという。


「全く……あの子がいないせいで、私たちまで散々よ。変な噂ばかり流れて、家門の威信に傷がついているわ」


 エヴァリンが苛立たしげにため息をつく。

 元々、娘としての情などほとんど持っていなかったが、今回の失踪劇で完全に敵意を抱くようにもなっている。


「まったく、どこに隠れたのか。俺たちの未来を潰そうという魂胆か……」


 マテウスは壁際に立ち、忌々しげに低く吐き捨てる。

 レイシアを道具として利用するつもりだったのに、いなくなられては計画が狂ってしまう。


 そんな最中、通報を受けた家令がやってきて、一同に知らせる。


「当主様、急ぎのご連絡がございます。王宮より、オールステット家の皆様とニコラウス殿下を召し出すとの伝令が……王の間でお待ちだそうです」


 ガストンは「チッ……」と舌打ちする。

 この忙しいときに王へ呼ばれるということは、もしかすると失踪事件に関しての追及が待っているのだろう。


 嫌な予感がひしひしと胸を締めつける。


 しかし王命を無視するわけにもいかない。



 王の間――そこは白亜の柱に囲まれ、厳粛で広大な空間だ。威厳を感じさせる装飾が施され、奥には国王の玉座が鎮座している。


 オールステット家の三人が到着すると、すでにニコラウスもそこにいた。


 彼は王太子(または、第一王子/次の王の王太子は1人)の立場ゆえ、通常ならもっとも堂々と迎えられるはずだが、今のところ周囲の空気はひどく重い。


 王自身が険しい表情を浮かべ、玉座の手前で腕を組んでいるのが見える。


「オールステット家の者、そしてニコラウス。お前たちに話がある」


 王は低く響く声で告げる。


 玉座の左右には重臣や護衛騎士が控えており、その視線の冷たさにガストンは一瞬身震いする。

 正面に進み出ると同時に、ニコラウスはうっすらと舌打ちをした。


 彼もまた内心穏やかではない。


 そもそもレイシアが消えたせいで騒動に巻き込まれ、余計な手間ばかり増えているのだから。


「……陛下、お呼びだと伺いましたが、どういったご用件でしょうか」


 ニコラウスが、王に向かって形ばかりの礼を取りながら問いかける。

 しかし王は容赦なく言葉を放った。


「レイシア・オールステットの失踪は、もう一週間にもなる。お前たちは一体どういうつもりだ。彼女はこの国にとって極めて貴重な聖女――しかも歴代でも最強と噂される神力を持つ存在だというのに、その管理がずさんというにもほどがある」


 王の言葉に、ガストンたち三人は思わず顔を見合わせる。

 エヴァリンは焦ったように「は、はい。探してはいるのですが」と返したが、王はさらに声を荒げるように続けた。


「聞くところによると、オールステット家はレイシアを冷遇していたとか。その話は社交界でも有名のようだな。お前たちが酷い扱いをしていたから、彼女が逃げたのではないか、という声が出ている」

「そ、それは誤解でございます、陛下!」


 ガストンは大きな声を出し、何とか言い訳をしようとする。


「我が家としては、娘の力を正しく活かそうと……ほんの少し厳しく接していただけで……!」

「嘘を申すな、ガストン。お前たちが自分の立身のために彼女を道具扱いしていたのは、既に複数の証言がある」


 玉座の横に控える宰相が、冷ややかな声で補足する。

 社交界での噂を集めれば、レイシアがどう扱われていたかは明白だったのだ。


 散々酷使し、病弱な身体をさらに追い込んでいたという話もすでに王の耳に入っている。


「ニコラウス、お前もだ。自分の婚約者が貴重な聖女だったというのに、まともに保護する気がなかったのか?」


 王の鋭い視線が、ニコラウスを射抜く。

 ニコラウスは唇を一瞬噛み、しかし自分の立場を守るために無理やり言い繕おうとする。


「いえ、陛下。私はただ、レイシアが役に立たず頻繁に倒れるため、世話を焼かせたくなかっただけで……」

「いい加減にしろ! あれほどの力を持つ聖女を逃がし、さらには冷遇していたなど、この国の恥だぞ」


 王は激昂に近い声で言い放つ。


 ニコラウスは反論をしようとするが、震える声で「で、ですが……!」と漏らすだけで、説得力を持った言葉は出てこない。


 今や王都以外にも「歴代トップの神力を持つ聖女が失踪した」と広まり、王国としては痛い損失だ。


 しかも聖女の命が狙われているという噂まで出回り、国民の不安を煽っている。


「いまだに見つからぬとは、どういうことだ。そもそもお前たちがきちんと扱っていれば、こんなことにはならんかったのではないか」


 王の声が厳しさを増す。

 オールステット家の両親、ガストンとエヴァリンは気まずそうに下を向き、マテウスは視線を宙に泳がせながら無言を貫くしかない。


 ニコラウスもまた、手のひらを握りしめ汗をかいている。


「か、必ず探します! 全力で……!」


 ガストンが何とか声を絞り出すように言うが、王の表情はまったく解けなかった。


「いまさらだ。お前たちがどう動こうとも、レイシアが既に隣国ラインハルト帝国へ逃げ込んでいたらどうする? 彼の国と我が国は戦力差もあり、戦いを仕掛けるのも得策ではない。もし彼女が向こうで保護されたら、取り戻すのは容易ではないのだぞ」


 重々しい沈黙が広がる。


 オールステット家の三人もニコラウスも、顔面が真っ青になっていく。


 国王の怒りが頂点に達しているのを感じながら、もう一度言い訳を繰り返す時間すら与えられなかった。


「オールステット家、ガストン、エヴァリン、マテウス。お前たちには降爵を命じる。公爵ではなく、伯爵程度まで降格とする。本来なら追放でもおかしくはないが、国の事情もある。ありがたく思え」

「な……そんな……!」


 ガストンが悲鳴じみた声を上げる。


 マテウスは青ざめつつ、歯を噛みしめて何も言えない。


 エヴァリンはその場で膝が震え、一瞬倒れこみそうになるのを必死に堪える。


 さらに王の怒りはニコラウスへ向かった。


「そしてニコラウス、お前は王太子の資格を剥奪する。これ以上、お前のいい加減な行動で国民を混乱させるわけにはいかん。そもそも聖女との婚約もないのなら、第一継承者である必然性もないだろう」

「ば、馬鹿な……そんな……!」


 ニコラウスは思わず叫び声を上げる。


 自分が王太子の座を追われるなど、これまで想像すらしていなかった。

 周囲の重臣たちは冷ややかな目で彼を見ている。


 多くの者が、レイシアがいなくなった一因はニコラウスの冷遇にあると感じているのだ。


「王太子でありながら、聖女という国の宝を守らず、むしろ追い詰めていたとも聞く。お前はこれから一介の王族として、自らの行いを恥じるがいい」


 王が手を振り下ろすように仕草すると、宰相や護衛騎士がオールステット家三人とニコラウスを遠巻きに睨みつける。

 これ以上の反論を許さない、という王の意思表示だった。



 こうして短い謁見は終わり、王の間から退出することになった四人。

 玉座から遠ざかる背中に突き刺さるような視線を感じながら、彼らは無言で廊下を歩く。


 貴族や侍従らが陰口を叩いている気配をひしひしと感じたが、立ち止まって言い返す余裕などなかった。


 先に口を開いたのはマテウスだった。


「くそっ、レイシアめ。こんなことしやがって……!」


 彼は拳を握りしめ、悔しそうな顔で床を睨む。

 降爵だなど、家にとってこれほどの大打撃は滅多にない。


 家の事実上の権威も落ち、財政面にも影響が出るだろう。


「本当よ……あの娘がいなくさえならなければ、私たちがここまで酷い仕打ちを受けることはなかったのに」


 夫人のエヴァリンは苛立ちを隠せないまま、ドレスの裾を手のひらで握りしめている。


「ちっ……王太子を剥奪されるとは、まったく予想外だ」


 ニコラウスが吐き捨てるように言う。

 肩を怒らせ、その冷酷な目には強烈な憎悪が宿っている。


「レイシアめ……あんな病弱な女一人のせいで、ここまで俺たちが追い詰められるとはな。必ず見つけ出して、報いを受けさせてやる」


 最後にガストンが、まるで噛み殺すような声音で吐き捨てるように言った。


「……あいつさえ戻ってくれば、まだ挽回の余地があるはずだ。聖女である以上、あの国王とて無下には扱えないはず。俺たちが捜索を続ければ、いつか見つかる……あるいは死体でも見つければいい。神力は次に受け継がれるだろうしな」


 ニコラウスも同意するように頷く。


 王太子の地位を取り戻せなくとも、少なくとも自分の面目を保つ道はあるかもしれない、と内心考えている。


 オールステット家にとっても、今のままでは済まされない。

 降爵を不服とするガストンやエヴァリンが、なんとか挽回の道を探ろうと暗い目で互いを見遣った。


「レイシアめ……。必ず探し出してやる……! こんな屈辱を味わったのは初めてだ。覚えておけ」


 歯ぎしりするように呟いたニコラウスの眼には、悔しさと憎しみが入り混じっていた。



◇ ◇ ◇



 あれから、一か月が経った。


 王国を抜け出してからは、ほとんど意地と気力だけでラインハルト帝国を目指し、ようやく国境に辿り着いたのが三週間ほど前。


 そこからはイクセル様――帝国の第二騎士団団長という肩書をもつ彼に助けられ、国境近くの街で身体を休めるように勧められた。


 最初は「大丈夫です、私なら……」と口にしそうになったけれど、さすがに当時の私はろくに歩けないほど疲弊していて、まともに言葉を返す余裕もなかった。


 高熱にうなされながら、気づいたらイクセル様の管理する屋敷の一室で眠り込んでいたのだ。


 目を覚ましたときには部屋はすっかり夕暮れで、空腹とだるさにぼんやりと抗うだけの日々が数日続いた。


 しかし帝国に来てからは、思いがけず環境が優しく、休養に専念できた。


 イクセル様が三度の食事は必ずとるようにと勧めてくださり、使用人さんたちも快く面倒を見てくれる。


 私が少し遠慮がちに「すみません、病弱で……」と言っても、「ここではあなたがしっかり休むのが大事なんです」とあたたかく受け入れてくれた。


 王都では、倒れないように必死に神力を振り絞り、睡眠時間を削るのが当たり前だった。

 でも、この屋敷で暮らすようになってから一週間ほどすると、私の体調は目に見えて回復した。


 熱も下がって食欲も戻り、何より久しぶりに「倒れずに一日を過ごせる」という喜びを味わえた。


 体調が治ったとき、私はどうしても何かお礼がしたくて、イクセル様に「聖女の仕事をさせてください」と頼みこんだ。


 もともと私が持っている治癒の力は、人々を救うためのもの。その力を何も返せないままでは申し訳ないし、この国にいる限り、少しでもお役に立ちたいと思ったのだ。


 彼は最初、「まだ無理をしてはいけない」と渋ったけれど、私が本気で頼むとやがて折れて、「ならば、街の救護院でできる範囲の治療をお願いしたい」と提案してくださった。


 そうして始まった、帝国での聖女としての務め。


 オルデシア王国にいたころと違い、ここでは「倒れるまで働け」などという風潮はなく、あくまで私の体調が許す範囲で治癒魔法を使えばいいらしい。


 それだけで、どれほど心が軽くなったことか。

 疲れたら休んでいいし、具合が悪ければ無理に治癒に当たらなくてもいい。


 結果として、私はこの三週間で一度も体調を崩さずに済んでいる。


 多少の倦怠感はあるものの、昔みたいに高熱を出して倒れたりしない。

 やはり環境や周りの対応がこれほど大きな差を生むなんて、少し信じられない気持ちだった。



 今日も私は救護院へ足を運び、怪我をした方や病人の方に治癒魔法を施している。


 あくまで無理のない程度に、と医師や看護役の方々からも気を遣われているが、これまでの王都での激務に比べたら随分と余裕がある。


 大怪我を負った人も何人か運ばれてきたけれど、私が以前数十人の重症患者を一度に治していた頃から思えば、今回は落ち着いて対処できる。


 そのおかげで、患者さんたちにも「いつもありがとうございます、聖女レイシア様!」と笑顔で感謝される。


 オルデシア王国では「治癒して当然」「お前がいるから助かるのが当たり前」という態度を取られることが多かった。


 だからこうやって素直に「ありがとう」と言ってもらえるのは、なんとも新鮮で嬉しい。


 私こそ、お礼が言いたいくらいだ。


「……お大事にしてくださいね。なるべく安静に」


 最後に軽く術後の注意を伝えて、今日はもう致命的な大怪我の人はいなさそう。

 日はすでに傾きはじめ、窓からオレンジ色の夕日が差し込んでいる。


 医師の方々が「そろそろ帰って大丈夫ですよ。今日もありがとうございました」と声をかけてくれるので、私は「こちらこそ、いつもありがとうございます」とペコリと頭を下げた。



 外に出ると、すでに街路のそこここでランプが灯りはじめていた。

 そんな街を眺めながら歩きだそうとしたら、門の付近で見慣れた姿が私に気づいて手を振った。


「イクセル様……!」


 騎士の軽装姿をしたイクセル様が、馬を押しながらこちらへ近づいてくる。

 どうやら私を迎えに来てくれたようだ。


「終わったか? 今日も倒れずに済んだか?」


 いつものように淡々とした口調だけれど、私の体調を気遣っているのが伝わってくる。


「ええ、全然問題ありませんでした。むしろ皆さんに感謝されて、私のほうが元気をもらっているくらいです」


 微笑んで答えると、イクセル様はホッとしたように、小さく息をついた。


「そうか。……余計な干渉はしたくないが、君の身体が少し心配でな。前にあれだけ衰弱していた姿を見ているから、どうしても大丈夫かと確認したくなるんだ」


 私の胸がきゅっと痛んだ。

 倒れたときの記憶は鮮明で、彼に見られたのは恥ずかしくもあるけれど、それ以上に助けてもらった感謝の気持ちが大きい。


「イクセル様には、本当に感謝してもしきれません。おかげでこんなに元気になれて……。以前と比べると、まるで嘘みたいに体調がいいんです」


 正直、王都にいた頃は「調子が悪いのが当たり前」だったのに、今では朝起きるとすぐに動けるし、夜もぐっすり眠れている。


 誰かから「もっと働け」と責められることもないし、三食しっかりと食事をして、温かい毛布の中で休める。

 たったこれだけのことが、こんなに幸せだなんて。


「君が回復してくれて安心しているよ。じゃあ、屋敷に戻ろう」

「はい。その、いつもこんな時間に迎えに来ていただいてありがとうございます。イクセル様は忙しいのでは?」

「問題ない。これくらい、騎士団長としての用事の合間にできることだ」


 彼はそう言って私に微笑みかける。


 私が「ただの道具」ではなく「人間」として扱われていることが、何よりも嬉しい。


 私は彼の横を歩きながら、少しだけ街の風景に目をやる。

 夜空が紫がかった紺色へと移り変わる頃合いで、町の人々は夕飯の準備や家族との団欒に忙しそうだ。


「イクセル様、この街は本当に穏やかですね。国境近くとは思えないほど、皆さん落ち着いて生活しているように見えます」

「まあ、ラインハルト帝国の辺境は比較的治安が安定しているからな。魔物の被害はあるが、騎士団で定期的に駆逐しているし……。君が来る前にも、国境の警備を強化していたんだ」


 そう言いながら、彼はさりげなく歩幅を合わせてくれる。

 大柄な騎士と、私のように体力のない人間とでは歩くスピードが違うはずなのに、それを気遣ってくれているのがわかって、嬉しくなる。


「そろそろ屋敷が見えてきたな。帰ったら食事にしようか」

「はい、楽しみです」


 心からそう思えるなんて、昔の私じゃ考えられない。

 王都では食事すら急ぎで済ませるか、倒れて空きっ腹に薬だけ飲んでいる日もあった。


 今は温かいスープとふかふかのベッドがある暮らしが当たり前になりつつあることに、申し訳ないくらいの安心を感じた。



 今夜も屋敷の食堂で夕食を済ませたあと、片づけをしている使用人さんにお礼を言ってから、私は自室へ戻ろうとしていた。


 するとイクセル様が「少し話したいことがある」と言ってきた。

 その雰囲気にただならぬものを感じつつ、案内されたのは屋敷の応接室。


 ソファに腰掛けると、イクセル様が私の正面に座った。


「レイシア、今日は真面目な話をさせてくれ」


 いつもは無口なイクセル様が、どこか厳粛な声色を帯びている。私の胸が少しざわついた。


「なんでしょうか。あの……私、何かしてしまいました?」


 思わず頭を下げるようにして尋ねると、イクセル様は首を軽く横に振った。


「君が悪いわけじゃない。むしろ逆だ。君はここで立派に聖女の役目を果たしてくれていると思っているし、帝国の人々からの評価も高い。……ただ、少し面倒な事態になってきてな」

「面倒な……事態、ですか?」


 私は緊張で喉が乾いたように感じた。

 イクセル様は眉間にわずかな皺を寄せ、静かな声で続ける。


「実は、帝国の皇族に君のことをすでに報告していた。君がオルデシア王国の聖女で、命の危険を感じて逃げてきたらしいと。最初にここへ来たときから、君の身元を確認する必要があったからね」

「……はい。それは、当然ですよね」


 私は覚悟していたこととはいえ、改めて聞くと胸がドキリとする。

 どこへ行こうが、私が「オルデシア王国の聖女」だった事実は消えない。


「それで……つい最近、秘密裏に王国から帝国へ『聖女を返却してほしい』という要請が届いたらしい。表沙汰にはしていないが、向こうとしては君がここに逃げ込んだと確信しているようだ。しかも『生死は問わない』という話も出ているそうだ」

「っ……!」


 心臓がバクン、と大きく跳ねた。


 あの国が、私を連れ戻そうとしているなんて……しかも、「生死を問わない」という嫌な文言さえついているという。


 それは、私が何の価値も持たない道具として扱われている証拠にほかならない。


「帝国側も戸惑っている。普通なら、聖女という貴重な存在を『死んでてもいいから返せ』なんて非常識な要求はありえないからな。だからこそ、帝国の皇族の間でどう対応するか議論になっていた。君を引き渡すべきか、あるいは保護すべきか……」


 聞いているだけで、身体が震えそうだった。


 いつまでもここにいられない、そんな不安は私の中に常にあった。

 もし私がこの帝国にいて迷惑をかけるなら、逃げるしかない。


 今度はどこへ行けばいいのかさえわからないけれど、私のせいでイクセル様や帝国を巻き込むわけにはいかない。


「やはり、そうですよね。帝国にいては、いつか王国と揉めることになるだろうとわかっていました。これ以上、私がここにいたら……イクセル様にも、帝国にもご迷惑がかかります」


 口に出すだけで、苦しくなる。

 ようやく安らげる場所を見つけたと思ったのに、また逃げ続けなければならないのだろうか。


 イクセル様は私の沈黙を受けとめるかのように、少し間を置いてから質問してきた。


「君はどうなんだ? 王国に戻りたいと思うか?」


 私は反射的に、首を振る。今まさに考えていたのだから、答えは明白だ。


「いいえ、戻りません。あの国に帰れば、また酷い扱いを受けるのは確実ですから。どんな言葉を並べても、私の家族や……ニコラウス王子が、私を大事に扱うはずがありません」


 自分でも憎しみを込めるわけではないが、思い出すだけで身震いするというのが正直な気持ちだった。

 病弱な私に過剰な治癒を求め、倒れても休ませず、家族にも婚約者にも邪険に扱われた。


 そんな日々に戻るくらいなら、死んだほうがまし……と言いたくなる。


「ですが、イクセル様をはじめ、帝国にも迷惑をかけたいと思っていません。私がここにいるせいで、王国と摩擦が生まれるのなら……やはりどこか別の地へ行くしか……」


 私が震えた声でそう言うと、イクセル様は頭を横に振る。


「違う。君を王国に返すつもりはない。俺も、帝国の皇族も、その考えだ」


 私は目を見開いた。


「ど、どうして……? 帝国だって、王国との摩擦を避けたいのでは……」


 驚いている私を見て、イクセル様は微かに笑みを浮かべ、続けてくれた。


「俺が皇族に直談判したんだ。君がここに来た経緯や、王国でどんな扱いを受けていたかを説明してね。もし返還要求を受け入れたら、君は二度と立ち直れないかもしれないし、命まで危ないと。……それなら、帝国が保護して、こちらで聖女として働いてもらうほうがはるかに有益だろう、と説得したんだ」

「そんな……私のために、そこまで……!」


 思わず声が裏返りそうになる。

 帝国の皇族がどんな判断を下すかなんて、普通の立場なら首を突っ込めないはず。


 それをイクセル様が一人の騎士団長として掛け合い、私を守ってくれようとしているのだなんて、想像すらしなかった。


「帝国の皇族も、君の頑張りを認めている。ここ数週間、救護院で多くの患者を癒し、しかも体調を崩さないほど安定した力を発揮しているらしいな。普通の聖女なら一日そこまで働けば倒れていてもおかしくない。けれど君はこなしている……」


 自分でも驚くほど、ここでは倒れずに済んでいるのは事実だ。

 けれど、あえてそれを労い、ここに残すだけの価値があると認めてくれるなんて。


「だから、帝国としては『彼女を王国に返す必要はない』という結論を出してくれた。もちろん、これから先、王国との外交上の駆け引きはいろいろあるかもしれないが……少なくとも、君を引き渡すような形だけは取らないそうだ。事実上の保護宣言だな」

「そ、そんな……ありがとうございます……!」


 涙がこぼれそうになる。


 いや、もう瞳から熱いものが込み上げてきて、まぶたを閉じても止められない。


 私がどれほど王国で苦しんできたか、家族に冷遇され、命さえ狙われてきたか――それを思い出すたび、心が震える。


 イクセル様は私の表情をじっと見つめ、少しだけ声を潜めて言った。


「君が優秀な聖女で、しかもここではきちんと休みを取りながら頑張っている。それは俺が、ずっと見てきたことだから。君は自分を卑下するけど、十分以上に帝国に貢献してるんだ。それに、帝国の皇族も君の働きを評価している。……だから君は、ここにいていいんだ」


 その言葉を聞いて、私は溢れる涙をどうしても堪えきれなくなって、こぼれ落ちるままにしてしまう。


「うぅ……」


 声にならない嗚咽が込み上げる。


 誰かに「頑張りを認める」と言われたのは、いつ以来だろう?


 王国では、「頑張って当然」「倒れるのがおかしい」という扱いをされてきた。

 倒れれば叱られ、使えないと罵られ、誰も私の苦しさになんて気づいてくれなかった。


 けれどイクセル様は違う。


 私が体調を崩したときも、本気で心配してくれた。


 今も、王国の圧力に屈することなく私を守ってくれると断言してくれている。


 そんな人が世界にいるなんて思わなかった――それだけで胸がいっぱいになる。


「すみ、ませ……」


 言葉にならない声を漏らしながら、私は顔を手で覆う。

 イクセル様が困ったように眉を寄せているのはわかった。


「謝ることじゃないさ。……泣きたいなら、泣いていい。君が、どれほど過酷な目に遭ってきたのか、俺には全部はわからないけど、辛かったんだろう」


 その言葉にますます涙があふれ、呼吸が詰まる。私はうまく会話を続けられず、ただしゃくりあげるしかなかった。


(本当に……ここにいていいんだ……王国に戻らなくてもいい……誰かに認めてもらえるって、こんなに救われるんだ……)


 しばらくして、落ち着きを取り戻した頃、私は瞼を赤く腫らしながらも、イクセル様に向き直った。

 唇が震えて言葉が出にくいけれど、何とか想いを口にする。


「……あ、ありがとうございます……私……イクセル様や、帝国の皇族の方々に守っていただけるなんて……想像もしていませんでした……」


 鼻をすすりながら、そう伝えると、イクセル様は控えめに笑って言った。


「礼を言われるほどのことでもないさ。帝国にとっても、君がここで聖女として活動してくれることは大きな利点なんだ。だから遠慮せずに頼ってほしい」


 その穏やかな口調に、私はほっと息をつく。


「ありがとうございます。私、本当にがんばります。今までもがんばっていたつもりだけど、それを認めてもらえるなんて初めてで……嬉しいです」

「うん。これからも無理はしないでほしい。体調を崩したら元も子もないし、君のペースで続けてくれればいい」


 そう言ってイクセル様が私の頭をそっと撫でてきたので、顔が一気に熱くなる。

 私は恥ずかしくて慌てて下を向いた。


(私がいてもいい場所……ここなら、本当にそう思っていいのかもしれない)


 まだ目頭が熱くぼやける視界の中で、イクセル様の温かな手の平をただ感じていた。



 オルデシア王国での事件から、さらに月日が経った。


 私は帝国での日々を重ねるうちに、自分でも驚くほど落ち着きを取り戻している。


 倒れることもなく、救護院での治癒活動を続けながら、イクセル様の屋敷に居候して毎日を穏やかに暮らしているのだ。


 そんな中、最近になってオルデシア王国の現状が断片的に私の耳に入ってきた。


 どうやら私が逃げ出したあと、家族であるオールステット家は公爵位を取り上げられ、伯爵にまで降爵させられたそうだ。


 家の財政も圧迫していて、父も母も兄のマテウスも、社交界で今までのように大きい顔ができなくなっているらしい。


 ニコラウス王子も王太子の地位を剥奪され、新たな王太子が選出される運びになった、という話だ。


 彼自身、もともとの威厳を失い、周囲からはそっぽを向かれているとか。

 私を道具扱いした人々が、降爵や王太子剥奪という形で自業自得の代償を払っている。


 それを聞いて胸がすくような思いがあるかといえば、正直それほどでもない。


 ただ、「ああ、やっぱり」という感想が浮かぶくらい。


 彼らに興味を抱くことさえ、今の私には必要ないのだ。

 それよりも私には、帝国での生活のほうがはるかに大切だ。


 ずっと「孤独」に怯え、「倒れたら叱られる」という恐怖の中で暮らしていた自分が、今では信じられないくらい自由で、そして幸せだと感じる。


 今日も救護院での仕事を終え、夕方には屋敷へ戻ってくる。

 以前の私なら、こんな安寧を味わうことなど夢にも思わなかった。


 いつ倒れても責め立てられ、王族や家族の命令に従わなくてはならない――そんな囚われの身だった私が、今こうして笑顔で暮らしているのだ。


(きっと、これが私の新しい人生。もう二度と、あんな悲しい場所に戻るものですか)


 オルデシア王国の家族やニコラウスがどうなろうと、もう私は振り回されない。


 帝国で、イクセル様の隣で、これから先もずっと生きていける――そうなるように努力しようと、私は心の底から誓った。



ランキングの上位にいくほど人気が出たら、連載版を考えております。

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― 新着の感想 ―
家族や婚約者は当然最低だけど、現場でもフラフラなのに働いてる所見てるのに酷使し続けたわけだからハッキリいって国全体が終わってると思うのだが、王様も息子に全部責任丸投げして解決~ってどうなんだ?国は痛い…
王族を皇族といいまちがえがある。 降爵が公爵を簡単に伯爵にしてしまえば貴族も 王家に不審を抱く。公爵とはそれ程歴史に裏付けられた 爵位なのだから。聖女いじめの公爵家自体がおかしな話。 加虐趣味なひとは…
家族や婚約者は兎も角、聖女の施設が悪くない? 他の聖女が抜けれて主人公は強制労働 王様の管理もずさん 最終地で大切に扱われず酷使された事が問題なのにその問題はどこへ消えたのだろう?
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