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1話

 今、ブロゼッタ通りの近くにひっそりと佇むこの小さなアパートメントの3階を通りかかる人間が居たら、この建物が倒壊の危機に瀕していると勘違いしたかもしれない。そのくらい大きな地鳴りのような鼾が304号室の室内で反響し、建て付けの悪いドアの隙間から漏れ出していた。

 外では既に太陽が明るく輝き朝の訪れを告げていたが日当たりの悪いこの部屋ではそれも大した意味はなさず、鼾の主は一向に起きる気配もなく満足げな表情でソファに寝そべったまま、譜面を知らない少年が力任せに弾くヴァイオリンのような音色を奏でていた。


 ドアが開かれ、ひんやりとした空気と共にこの部屋の主人、フレミア・ガーレンドーラが帰ってきた。薄手のカーディガンを身に纏い、華奢な片腕には新聞紙と大きな紙袋が抱えられている。

 フレミアは懐から細い棒切れを取り出すとキッチンに向かって軽く一振りした。忽ちコンロに真っ赤な炎が宿され、上のケトルが熱され始める。同時に、天井から吊り下げられたランタンにも火が灯り、薄暗かった部屋は暖かいオレンジの光に包まれた。


 フレミアはソファに目を向けると、鼾の主である巨大な狼に対してうんざりした表情を浮かべた。大きなアーモンド型の瞳が細くなる。狼は仰向けに寝転んで腕を頭の後ろで組んだ狼らしからぬ体勢でソファを占領していた。


 「ちょっとロヴィ、いい加減にしてくれない?寝てる時くらい静かにできないの?」


 ロヴィと呼ばれた狼に起きる気配はなく、代わりに「ゴアアッ!!」という特大の鼾が返ってきた。耳をつんざく騒音にフレミアは思わず身をすくめる。それから湧き上がる怒りに身を任せるようにして新聞紙を筒状に丸め、ソファに向かって思い切り投げつけた。

 新聞紙は鋭い軌道を描き、鼾の震源であるロヴィの長い鼻先にクリーンヒット。跳ね返った新聞紙は空中で広がるとそのままバサバサとロヴィの身体の上に散らばった。


 「ぐおっ!?……うーーん……おうミア。帰ってきてたのか」


 ようやく目を覚ましたロヴィは大きく伸びをすると寝ぼけ眼を擦り、散らばった新聞紙を拾って揃え始めた。

 フレミアは呆れた顔でもぞもぞと動くロヴィを一瞥すると、紙袋をテーブルの上に置いた。不安定な紙袋は横に倒れ、中から焼き立てのクロワッサンが転がり出て床に落ちた。

 戸棚から茶葉とティーポット、カップを2つ取り出し、キッチンに向かってもう一度杖を一振りする。コンロの火が消え、ケトルはふわりと浮き上がると湯気を吐きながら空中を滑るように移動しテーブルに着地した。ポットにお湯を注ぐと茶葉の香りがふんわりと広がり、石造りの壁に囲まれた室内を暖かく彩った。


 「……あんたさー、いい加減どうにかならないわけ?」

 「ん?何の話だ?」


 ソファに寝転んだまま新聞を流し読みし始めたロヴィに対し、フレミアはポットにお湯を注ぐ手を止め、噛み付くような視線を向けた。陶器のように白く滑らかな肌にサッと赤みが走る。


 「鼾よ!いびき!毎朝毎朝こんな耳障りな目覚ましで起こされるのはもううんざり!今だって外の廊下にまで響いてたし、あんたの馬鹿騒ぎでこの部屋を追い出されたらどうしてくれるつもり?」

 「そんなこと言われてもなあ……大体、このソファが悪いんじゃねえか?寝心地も悪いし、こんな小ちゃいと寝返りも碌に打てやしねえ。もっとでっかくてふかふかのベッドで横になれれば俺だって静かに寝るさ」

 

 ロヴィがそう言ってソファを乱暴に叩くと埃が舞いあがった。窓から差し込む光を受けてキラキラ光る。フレミアは床に落ちたクロワッサンを拾うと、手で軽く払ってテーブルの上に転がした。そして紙袋からレーズンロールを取り出して一口齧った。


 「何言ってんの、あんたなんか本当は床で寝させたっていいんだからね。むしろソファを使わせてもらってるだけありがたいと思いなさい……もし私のベッドにあんたの毛が一本でも落ちてたら、皮ごと引っ剥がして玄関マットにしてやるからね」

 「おー怖い怖い、マットにするならせめて日当たりのいいところに置いてくれよ……おい、俺にも一個くれ。バターロールな」


 ロヴィは新聞を眺めながら左腕を上げて振った。フレミアは今まさにそこめがけて投げつけようとしていたクロワッサンをテーブルに戻すと、小さく息をついて紙袋からバターロールを取り出して放り投げた。ロヴィはそれをキャッチすると大きな一口で平らげてしまった。


 「……いやー美味い。やっぱりパンは焼きたてに限る。あとは『ラピ・ヴォラント』のビーフステーキでもついてりゃ最高なんだがな」

 「朝からステーキなんか欲しがるなんて頭も胃袋もどうかしてるわ。大体、そんな高級店に行くお金なんかどこにあるっての?どうせ味の違いなんか分かりゃしないんだから、棚にあるソーセージでも食べてなさい」

 「王宮で働いてた頃の貯金はどうしたんだよ。結構貰ってたんじゃないのか?」

 「無いわけじゃないけど、ここの家賃の支払いもあるしそんなに贅沢する余裕は無いわ」


 フレミアはティーポットを傾け紅茶を注いだ。2つのカップが鮮やかな深紅の液体で満たされる。ロヴィはつまらなそうにため息をつき新聞のページをめくった。


 「ほーん、聞けば聞くほど王宮魔導士ってのは割りに合わねー仕事だな。しかし、宮廷の壁をぶち壊す前に退職金くらいは貰っておくんだったな」

 「大きなお世話。それにもし退職金があったとしてもあんたに豪華な料理をご馳走することはないでしょうね」

 「おいおい、それじゃあ俺は何のためにわざわざこんなごちゃついた街に出てきたっていうんだよ」

 「知らないわよそんなの。あんたが勝手についてきたんでしょ。どうしてもステーキが食べたいんなら自分で働いてお金を稼ぐことね」

 「悪いが俺の辞書には『労働』の2文字は載ってないんでね」

 「あんたの辞書には『怠惰』と『食欲』しか載ってないでしょ……何か面白い記事でもあった?」

 

 半開きの目で記事を流し読みしていたロヴィはあるページをめくったところで手を止め、ガバッと起き上がって食い入るように記事を見つめていた。そして次第に肩を振るわせ始め、ついには声を上げて笑い始めた。

 フレミアは便所のわらじ虫を見るような目をロヴィに向けた。


 「何なの?急に笑い出して、気持ち悪いんだけど」

 「ブフッ、ガハハッ!クックックッ……いやあ悪い悪い。しかしお前、随分有名人になったみたいだなあ」

 「は?私?どういうことよ……ちょっと見せなさい」


 フレミアは怪訝な表情を浮かべながら食べかけのレーズンロールを片手にロヴィの背後に回り新聞紙を覗き込んだ。

 ページには軍が発表している指名手配犯の一覧が掲載されていた。それぞれの似顔絵イラストと名前、罪状や懸賞金などが記載されている。凶悪な人相が並んでいる中、ページの右上に一際大きく見知った名前が描かれていた。

 「『指名手配犯:フレミア・ガーレンドーラ(魔女)。罪状・王宮の破壊行為及び軍への反逆罪…』……ちょっと、何よこれ!」


 記事を読み上げていたフレミアは思わず叫び声をあげた。手から取り落としたレーズンロールが床に落ちて転がった。

 驚きのあまり言葉を失ったフレミアの後を引き取るようにロヴィが記事の続きを読み上げる。


 「生け捕りなら賞金400万リヴレ、死体でも半額か……すげーな、この街1番のお尋ねものじゃねーか。王宮の破壊はともかく軍への反逆って、お前ほんと何をやらかしてきたんだよ」

 「知らないわよそんなの、どうせでっちあげでしょう。そんなことより!何なのこの似顔絵は!」


 フレミアはロヴィから新聞紙をひったくり、自身の名前が記されている似顔絵を凝視する。紙面を握る手は小刻みに震え、こめかみには青筋が浮かび上がっている。そこに描かれていたのは皺だらけで、鷲鼻に大きなイボのある醜い女の顔だった。

 絵本に出てくる魔女のように脚色された似顔絵に、怒りに肩を振るわせているフレミアを見て、ロヴィは笑いを噛み殺すのに必死だった。


 「プッ、フフ……まあこの見た目ならこの懸賞金額にも納得だな。王宮を壊すついでに2.3人攫って食っちまってそうだ。こりゃ王宮にいた頃に描いてもらったのか?」


 ロヴィが揶揄うように言う。フレミアはパッと振り返って彼を鋭く睨み、紙面を突きつけて自身の顔と見比べさせた。


 「は!?これのどこが私だってのよ!全っ然似てないじゃない!」

 「そうか?ハズレの木苺を食った時の顔なんかそっくりだぜ」

 「……木苺とあんたの血、どっちが赤いか余程知りたいみたいね」

 「冗談だよ冗談、怖い顔するなって……ブフッ、眉間に皺を寄せるとますますそっくり……ギャンッ!」


 言い結ぶ前にフレミアは素早く新聞紙を丸めロヴィの鼻先を思い切り引っ叩いてから投げつけた。新聞紙は大きく広がってソファにバラバラと舞い落ちた。


 「イテテ、本気で殴りやがったな……しかしこいつは傑作だ。どっかに額縁は無かったっけか……ん?どっか出掛けるのか?」


 ロヴィは鼻先を抑えながら散らばった紙面の中から先程の記事を拾い上げシワを伸ばし広げた。

 怒りが収まらない様子のフレミアは部屋を行ったり来たりして慌ただしく身支度を始め、ロヴィに声を掛けられると振り返って彼の持つ記事を指差して言った。


 「そのインチキ新聞社に決まってるでしょ!この絵を描いた奴をとっ捕まえて、描き直させてやらないと!早く行かなきゃ明日の朝刊に間に合わない!」

 「おう、落ち着け落ち着け。でっちあげで指名手配にされてる件はどうでもいいのか…………おいミア、ちょっと待て」

 「何?これ以上くだらないこと言ったらあんたをステーキにしてやるからね」


 紙面を眺めていたロヴィに対しフレミアは脅し文句と共に杖を突きつける。ロヴィが紙面から顔を上げる。そこには先程までの彼女の揶揄うような表情は消えており、フレミアは奇妙な違和感を覚え微かに眉間に皺を寄せた。2人の視線がぶつかりロヴィの黄色の瞳がキラリと怪しく輝く。


 「まあちょっと聞けって。この記事、使えるかもしれねーぞ」

 

 

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